第3話 名前
(僕のIPアドレスって、どこに書いてあるんだよ…)
一面の本棚を見つめて啓太は途方に暮れた。しかし、アドレスが書いてあるファイルとやらを探し出さないと現実世界に帰れない。啓太は腹をくくって本棚の横を歩き出した。
(O、P、Q…。アルファベット順か。じゃあ日本はJか…)
本棚の幾つかの塊がアルファベット順に並んでいたことを確認した啓太は、なんとなく当たりをつけて「J」の棚を探し出す。するとそれは本棚を順番に辿って行ったら割と直ぐに「J」の本棚の塊が見つかった。
しかし、Jの本棚の塊も大きい。そして、上から下までびっしりと太いファイルが並んでいる。本棚の側板をじっと見ていると、一つ一つの側板にタグが付いていた。
(ジャマイカ…、…ジャパンは何処だ……、ジャパンは……)
「あった! ジャパンだ!」
ひとつの本棚の側板のタグに「JAPAN」の文字。そして、
(次は県名か…。AICHI、AKITA……、すると東京は「T」か……)
啓太は棚板の側面を辿り、付いているタグを見ていく。ファイルはきちんとアルファベット順に並んでいるらしく、タグを辿っていけば、直ぐに「TOKYO」を探し出すことができた。
しかし、此処でも問題があった。ファイルの背表紙には数字とアルファベットと記号の羅列しかないし、それが何を指すのかさっぱりわからない。ファイルを開いても、読めない英数字と記号の羅列だから、この中から啓太のIPアドレスを探せというのが無理だ。
(…終わった……。僕はこのままこの仮想世界で朽ち果てるんだ……)
昨日、歩道橋から道路を走るヘッドライトの波に飲まれたら、と思った時は感じなかった恐怖が、今、啓太を支配していた。
誰にも知られず、このまま此処で死ぬのか…。あの娘に会うことももうないだろう。だって、此処から出られない啓太のスマホに、誰が連絡を寄越すものか。
そう思うと、あの娘の名前でも聞いておけば良かったと思った。古い記憶のクラスの女の子とぎこちなく喋った以外では、森川以外ではあの娘には良く話しかけられた方だと思う。…尤も、こんな異常な世界に飛び込んでしまったから、来た理由と、帰る術を知りたくて必死だっただけなのだけど…。
(そういえば、驚きで忘れてたけど、ビール出しっぱなしだったな…。…でも、もう関係ないか。このまま死ぬんだし……)
啓太は持っていたファイルを地面に置くと、自分もそこに座り込んだ。そして横になってみる。…地面はひんやりとして冷たい。
(このままこの地面と同化していくのかな…。そうして、冷たくなって、…でも、誰にも見つけてもらえない……)
心に闇が忍び込んでくるようだった。上手くいかない人生を嘆いたことも多々あったけど、こんな、人間の住まない所で野垂れ死にするとは思ってなかった。せめてもう一度森川の顔が見たい。そうじゃなかったら、あの娘に会いたい。そう思っていたら、コツンと硬い音が響いた。
「誰だっ!」
此処にはもう誰もいない筈。そう思って恐怖で飛び起きて振り向くと、そこにはあの娘が居た。
強張って力の入った肩から力が抜ける、寝転がっていた状態から上体だけ飛び起きたから、またその場にへなへなと手をついて項垂れてしまう。…良かった、また会えた……。
「どうしたんですか、啓太さん。まだアドレス見つかりませんか?」
「どうしたもこうしたもないよ、君! こんな記号ばっかりの文字、僕は読めないよ!」
動揺と歓喜で、つい大声で叫んでしまった。啓太が大声を出したのなんて何十年ぶりだろう。しかし女の子は驚きもせずに、どのファイルですか? と尋ねてきた。
「え…、ええと、…この……」
ファイルだよ。そう示そうと思ったら、思いの外、女の子が近くに寄って来ていた。ボブカットの毛先が頬に触れる。啓太が地面に座り込んでいて、女の子は膝に手をついて上体を屈めて啓太の手元を覗き込んでいる。…ふわりと、何か花のような良い匂いがした。
「こっ、この、ふぁ…いるの……っ、…痛っ!」
女の子の急な接近に慣れていない啓太は、女の子が近くに居るというそれだけで狼狽えてしまって、焦ってファイルを捲ろうとして紙の断面で指先を切ってしまった。指先はすっぱりと切れて、赤い線が指先に浮かび上がる。
「あ、絆創膏ありますよ。…ちょっと待ってくださいね」
そう言って女の子は布鞄の中をごそごそしたと思ったら、小さな、口紅と同じ色の絆創膏を取り出した。森川とは違う、丸く切りそろえた指先で器用に絆創膏のシールを剥がし、啓太の指先に巻いてくれる。
「あ…、ありがとう……」
女性に手当てしてもらうなんて、小学生の保健室以来じゃないだろうか。啓太はそんなことを思いながら、絆創膏の巻かれた指先を見つめた。その視線の先には森川に似た、森川とは違う女の子が居る。
どきん、どきん、と胸が鳴る。
動揺している。こんな冴えない啓太にやさしくしてくれる女の子が居るんだ…。そう思ったら急に心臓が早く鳴りだした。鼓動が耳の奥で煩くて、もしかしたらこんなに近くに居る彼女に聞こえてしまうかもしれない。
そう思ったけど、女の子は啓太に、それで何処を見ていたんですか? と、続きを促した。
…そうだよな。絆創膏を貼ってくれたのは親切心であって、他意はないのだ。啓太も、良いなと思う女の子は森川であって、この娘である筈がない。大体、この娘のことをまだ何も知らないのだし。
啓太は女の子の促しに従って、さっき持っていたファイルを捲り、ページを示して見せた。
「ほら、こんな、英文字と記号とアルファベットの羅列。僕には何が書いてあるのかさっぱりわからないよ」
言外に、そんなところへ置いていくなんて君は酷いな、と含んだつもりだったけど、彼女には通じなかったようだった。啓太の手元を見てそれから啓太からファイルを取り上げて背表紙を見る。
「ああ、啓太さん。これは駄目ですよ。住所からなんて、日本の東京に、一体何人の人が住んでいると思うんですか?」
言われてみればごもっともだった。しかし、本棚は無限にあるし、側板にはアルファベットが書かれていたし、辿っていったら「JAPAN」の「TOKYO」があったから、そこを見ていただけなのだけど…。
事実だけど、駄目ですよ、なんて断言する女の子にそれは言えなくて口の中でもごもごと言葉を濁す。女の子は立ち上がって、こっちです、と啓太をいざなった。
側板にアルファベットの描いてある本棚の塊を抜けると、次の本棚からは「History」の塊になっていた。
「此処は通信履歴の本棚です。私の配達記録の履歴を探せば、直ぐにIPアドレス出てきますよ」
そう言って女の子は、背表紙に時刻と思われる数字の入ったファイルを探し始め、直ぐに思い当たったのか、一冊のファイルを取り出した。
「此処。此処に、私がさっき配達した、啓太さんがさっき受け取ったメッセージの履歴が残っています。このアドレスをコピペして、ドアに貼り付ければ、啓太さんのスマホのある所へ帰れます」
女の子はそう言って、紙の上に書いてある、啓太の履歴だという文字の羅列を指でなぞった。するとなぞった文字が光り輝いて点滅する。良く見ると、文字をなぞった女の子の指先も点滅している。
もう、大概の超常現象では驚かないぞ。そう思って指先を点滅させた女の子が歩いていくのについていくと、向かう先には漆黒の闇に浮かぶ扉の数々だった。女の子はその中から迷いもなくひとつの扉に向かって歩いていく。啓太も後を追った。
女の子がひとつの扉の前で立ち止まった。そして扉の脇の小さな札に、自分の指先を当ててそこをなぞった。すると、その小さな札には光り輝く文字列が浮かび上がった。…と同時に、扉の隙間から眩い光が漏れ零れてくる。
「啓太さん、これで帰れますよ。お気をつけて」
見送る態勢になっている女の子と別れ難くて、啓太はこう口走った。
「ねえ、君の名前は?」
「え?」
「そういえば、こんなにお世話になっているのに、君の名前を知らないんだよ。せめて名前を呼んでお礼を言いたい」
女性を前にしてこんなにすらすらと言葉が出るなんて、やっぱりこの場所はおかしい。というか、現実じゃないんだっけ。そうであるならば、少し納得もできる。
啓太が言うと、女の子は困惑したように眉を寄せた。
「…名前なんて、ないです。だって、私たちは電気信号の一部だから…」
何処か、悲しそうに。…そう、悲しそうに見えた。だから、啓太は尚更この娘を名前で呼びたくなってしまった。
「『私たち』ってことは、仲間が居るってことだね? 仲間内では何て呼ばれてるの? それで良いから教えて欲しい」
この娘にこんなに必死になる必要があるだろうか。でも、命の恩人だ。思い入れなら、もうあるじゃないか。
女の子は躊躇った挙句、小さな声でぽつりと、
「34S号」
と呟いた。
「え?」
「だから、数字とアルファベットの『34S号』です。私たちに名前なんてないんです……」
言いながら、俯いてしまう。その様がなんとも可哀想で、啓太は咄嗟に思いついたことを口にした。
「34S、ってことはミヨシ、って読めるね。じゃあ、これから君のことを
啓太がそう言うと、女の子―――美好―――は、ぱちり、と大きく瞬きをして、それから口を僅かに震わせたかと思ったら、大きな瞳からぽろりと涙を零した。
「え…っ、ええっ!?」
女の子に微笑まれるのも慣れていないけど、女の子に泣かれるのはもっと慣れていない。啓太は動揺して、おろおろと顔の前で手を左右に動かした。あわあわと、多分みっともなく動揺していたと思うのに、美好はくすん、と鼻を鳴らして指先で涙を拭うと、ふわり、と微笑んだ。
……花の、ようだった。
多弁の硬く閉じた蕾がふわりと綻んだような、そんな花のようだった。
拭っては落ち、拭っては落ちる涙を微笑んで拭う様子は、一枚一枚花弁がほどけるよう。
やがて最後に落ちた涙を拭い終わると、美好は口角をきゅっと上げて微笑って、
「電気信号に名前を付けた人なんて、初めて会いました…」
照れたように、頬を染めてそう言った。
啓太は、生まれて初めて、人が喜ぶことをしてあげられた、と思った。それが美好の為だったら、尚のこと良い、と、そう思った……。
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