第2話 再会
じっとりとまとわりつくような暑さの中、今日も営業で外回りだ。啓太はほかの同僚に比べて要領が悪く、成績も振るわない。上手なセールストークも出来ないので、飛び込みの営業が契約に結び付くことは稀だ。だからこの日も一件の成果もあげられずに会社に戻る。すると啓太の成績にしびれを切らしたのか、課長からお小言を食らってしまった。ぐちぐちと嫌味を言われてしまい、啓太は項垂れてデスクに戻ると帰り支度をした。
ふとパーティションの向こう側を見ると、同期の営業についている事務の女の子がまだ残っていた。
「…、薮内はまだ戻らないの?」
薮内とは同期の名前だ。彼は出来る営業マンで、課長からの信頼も厚い。
「ええ、まだお仕事中みたいです。私は薮内さんが戻るまで待っています」
彼女、森川はそう言うと、お疲れさまでした、と啓太を労ってくれた。彼女は、啓太のような営業にもお疲れさまと言ってくれる、数少ない社員だった。
「お、お先に失礼するね。あの、帰りは気を付けて」
「ありがとうございます」
にこりと微笑って森川は会釈をした。啓太も会釈をして部署を出る。会社のビルの外はむわっと蒸し暑く、これは一雨来そうな空気だった。夏だからと油断して傘を持っていない。早く帰らなければ、と啓太は思った。
ところがそう上手く事は運ばない。駅を出たところで天を仰ぐと黒々とした空から銀糸のような雨が降り注いでいた。啓太は一つため息をついて、駅舎併設のコンビニでビニール傘を買った。傘なら同じような傘がもう家に二本あるというのに。
それでも、帰りの道中濡れないで済むのはありがたい。啓太は一緒にカップラーメンとビールも買い、家に帰った。
玄関にある濡れてない傘とは別の隅に今買ってきた傘を立てかける。そして部屋に上がるとジャケットについた雨を払う。壁に掛けてあるハンガーにジャケットをかけて鴨居に干すと、ネクタイを抜き、ワイシャツのボタンを緩めた。
今日は雨が降っているから窓を開けられない。利かないエアコンを作動させると、かび臭い匂いとともに風が送られてきた。
スウェットに着替えると、テーブルの上にカップラーメンを置いて、コンロでお湯を沸かす。いつもと同じようにお湯を注ぎ、いつもと同じように自前の箸でラーメンを啜る。今日は心なしか気分が良い。理由はわかっている。森川と言葉を交わせたからだ。
営業部の落ちこぼれも同然の啓太に笑顔を向けてくれるのは森川だけだった。彼女にしてみれば社交辞令かもしれないけれど、彼女は可愛いし、言葉を交わせたらそれだけで心が弾む。成績で比べられることが多い今の部署では、森川の存在だけが救いだった。
(森川さんは、今日も可愛かった)
啓太は彼女の姿を視界に映すのが好きだった。灰色のオフィスで彼女のいる周りだけが明るい。そんな気がした。
(…そういえば、あの時見た夢のあの
ピンク色は森川の代名詞のようなものだ。それとあの娘の口紅も似たような色だったように記憶している。よくよく思い出せば、瞳の大きさも似ていたかもしれない。ぱっちりとした瞳だった。ような気がする。…夢のことなので、おぼろげにしか覚えていないけれど。
ふと気になって、鞄からスマホを取り出してみた。するとそこにはこの前見た記憶のあるアイコンが表示されていた。吹き出しのマークに郵便の印。
…やっぱりあれは夢じゃなかったのか? 転寝をしていたから見た夢ではなく、現実だったのか? 啓太は恐る恐る、アイコンをタップした。するとあの時と同じようにスマホの液晶が光を放ち、閃光に包まれた啓太の身体はふわりと浮き上がったような気がした。
気が付いたらあの交差点にいた。あの時と同じく光の玉が高速で行き過ぎていく。啓太は呆然とその場に立ち尽くし、頬をつねった。…痛くない。じゃあ、これはやっぱり夢?
(同じ夢を二度も? それとも、夢じゃないのか?)
そう思っていたら、あの時と同じように高速で近づいてきたひとつの光が目の前に止まって、やがて人の形になり、人間になった。…あの時の娘だ。その娘は驚いた顔をしていた。
「啓太さん。どうしたんですか、またこんなところで」
「どうしたのかは、僕が聞きたいよ。なんでこんな夢を何度も見るんだ?」
啓太が困惑して問うと、目の前の女の子は同じように困った顔で苦笑した。
「夢じゃないんですよ、此処は。啓太さんたちが使う、ネットの裏にある仮想世界です。普段は交わらない世界同士が何かの理由で交わっていることは確かですけど、理由は私にはわかりません。私は一介のメッセンジャーですから」
交わらない世界同士? それって
「じゃあ、君は何? この前も今日も僕の前に現れた」
啓太の問いに、彼女はやっぱり困ったように、メッセンジャーです、と答えた。
「メッセンジャーって、あの光のひとつひとつだろ? だったら、この前は君でも、今日は君じゃなかった可能性ってなくないか?」
啓太はそう言って、自分たちの周りを走り回る光の玉のことを指差した。女の子は啓太の疑問に合点がいったというように頷いた。
「それは、私が啓太さんのIPアドレスの担当なので」
少しわかってきた。IPアドレス毎に光の玉の担当が決まっていて、この仮想世界とやらではその担当が電子メッセージを届けているわけか。偶然、啓太のスマホのIPアドレスの担当がこの娘で、なんの偶然かわからないけどこの世界に迷い込んだ啓太の前に再び現れたのだ。多分、啓太のスマホのIPアドレス宛ての電子メッセージを持って。
「じゃあ、やっぱり今日も僕宛てのメッセージを持ってるの?」
啓太が問うと、女の子は人好きする笑みを浮かべて肩から下げている布鞄を探った。
「そうです。これですね」
渡された封筒には、啓太のIPアドレスなのだろうか、英数字と記号の羅列が記されている。現実世界のIPアドレスとこの世界のそれとでは表記が違うようだ。
女の子の布鞄の中にはまだ沢山の封筒が入っていたように見えた。多分、担当というのは、啓太専用という意味ではなく掛け持ちで、そのうちの一人が啓太なのだろう。
…ふと、寂しい気持ちがした。何故だろう。この娘とはまだ二回しか会っていないのに、何を期待したというのだろう。
きっと、森川に似ているところがあるからだ。よくよく見てみれば、やっぱり瞳はくるりと丸く大きくて、鼻も小鼻が小さくまとまっていてかわいい。口は口角がきゅっと上がっていて、思った通り口紅がピンク色だ。本当によく見ると髪型以外は森川に要素が似ている。だからなのだ。
森川も、啓太に特別な想いがあるわけではない。ただ同僚に挨拶するだけのこと。それを啓太は極端に喜びすぎなのだ。自分のような要領の悪い人間には高根の花は似合わない。平々凡々とした、いつか現れる運命の相手が居れば良いな、くらいの気持ちで居たほうが何もなかった時に傷つかずに済む。
ふるりと
「これ、誰から? …って聞いても良いのかな…」
昨日は母親からだと告げられたが、それはその前に啓太が母親宛てにメッセージを送っていたからかもしれない。しかし、女の子は啓太の問いににっこり微笑って、
「ヤブウチさん? っていう方からですよ」
と返事をくれた。
薮内か。ということは、森川も参加するんだろうな。それなら、あまり得意ではない酒の席でも出席せざるを得ない。脈がないとわかっていても、少しでも良いなと思った女の子と一緒の時間を過ごせるのは、悪い時間ではないはずだから。
少しでも話ができたら良いけど、森川の前で上手く立ち回れる気がしない。せめていつも通り視界に森川の姿を収めておこう、と心に決めた。
ぐっと手紙を握りつぶす。そこで、目の前にまだ女の子が居たことに気が付いた。
「あっ、ごめん…。なんか、引き止めちゃって……」
啓太が言うと、女の子は全然気にした様子もなく、良いですよ、と微笑った。そして、じゃあ、次の配達があるので、と言ってこの場を去っていく。その時にはっと気付いた。
(此処からどうやって部屋に帰れば良いんだ?)
昨日は、どうやって此処から帰ったっけ。そうだ、確かあの女の子に変な扉の前に連れていかれて、その扉を開けたら光が襲ってきて、それでいつの間にか部屋に戻っていたんだ。
「待って! 待って!」
女の子の背中を追う。彼女が光の玉になって高速で移動してなくて良かった…。女の子は少し走った先に居て、此方を振り向いた。…女の子の身体がぼんやりと発光している。もしかして、光の玉になる途中だったのだろうか。そう思うと、この瞬間、追いついて良かったと心から思う。
「此処からの帰り方がわからないから、教えてよ」
「ああ…」
女の子は啓太の焦りに気付いたようで、あっち、と啓太の背後を指差した。するとそこにはさっきこの世界に来た時にあった交差点も光の玉の洪水もなくて、その代わりに図書館かと思うほどの本棚が陳列されていた。
「あそこに啓太さんのIPアドレスが乗ったファイルがあります。そのアドレスをコピーしてドアの札に貼れば、啓太さんのスマホのある所へ帰れます」
ファイルだって?
よく見れば、本棚はすべて分厚いファイルで埋め尽くされていた。この中から自分のアドレスを探し出すって、太平洋に沈んだビーズ一粒を探し出すようなものじゃないのか?
「そんな! 困るよ。僕は直ぐに此処から帰りたいんだ。昨日みたいにやってくれよ!」
啓太が必死な顔で頼んでいるのに、女の子はどんどん人の形をなくしていく。
「ごめんなさい、啓太さん。まだ、配達が…、ある、…か、ら……」
女の子だった人の形は、人の形の光の塊になって、やがて光の玉になって飛んで行ってしまった。啓太はずらりと並んだ本棚とともに、取り残されてしまったのだ。
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