五章 半透明の恋人

『ご覧ください。こちらが、先日アスカ町にオープンしたばかりの大型ショッピングモールです。土日祝日平日問わず、連日、早朝からたくさんの人が押し寄せている模様です』

「凄いなー。こうも毎日ニュースで流れると、俺も一度行ってみたいな」

 朝のリビングには、テレビから発せられる溌剌としたキャスターの声と、間の抜けたような蓮の戯言が響いていた。

 テンプレートのような長閑な時間が流れている。

 耳を澄ませば、外で会話するご近所さんの会話や、登校中の子供たちの声、そしてそれとは関係ない鳥のさえずりや、車の排気音まで聞こえてくる。

 そこにもう一つ、俺が料理するベーコンエッグの爆ぜる音が混ざる。

「行けばいいじゃないか。いつも暇してんだろ」

「いや全然暇じゃないから。これでも超忙しいんだよ俺は」

「オンラインゲーム三昧のどこが忙しいんだか。わかるように説明して欲しいね」

 フライパンを回して火入れを調整しつつ、蓮と軽口を叩き合う。

 ベコエとトーストが出来上がると、それと一緒に牛乳を注いだコップをテーブルに並べる。家事全般について蓮は殆どやらないので、こういう母親っぽいことをするのは俺の日課となっていた。

 我ながら、朝食にはもったいないほどの、バターと肉汁の良い香りがする。

「あのね、レートっていうのは戦争なわけよ。一日でも手を抜いたらすぐに距離をつけられる。だから毎日ちゃんとこなさないといけないんだよ」

「わからんなぁ。距離がついても別にいいじゃないか。ゲームは楽しむもんだろ」

「俺は競技としてやってっから。叶真みたいな考え方もわかるけどね」

「そういうもんか……」

「そういうもんだね」

 意気揚々と熱弁しながらも、俺が作った朝食を食べ進める蓮。もはや日常となってしまった以上仕方のないことではあるが、たまには労いの言葉でも手向けて欲しいものだ。

「美味い?」

「……んー? ま、普通じゃない?」

 そうですか。普通ですか。明日はトースト一枚にしてやろうかな。

 心の隅っこでそんなことを呟く。

 しばらくして朝食と洗い物を手早く済ませると、お気に入りの音楽プレーヤーをポケットに突っ込み、いつも通り家を後にした。


 自分たちが住む団地を出ると、通りには、見慣れた三人が待っていた。

「おはよう。吉祥君」

「おっすーきちじょー。毎日計ったような時間に出てくるねー」

「よっ」

 クラスは違うが同じ二年生の伊吹乙姫、クラスメイトの柊玲奈、三年生の都乃衣悠一先輩。

 毛色の違う表情を見せる三人が並んでいる。

 春休み明けで久しぶりに見る顔ぶれだったが、さして変化は見当たらなかった。

 またこの四人で新年度を過ごすかと思うと、楽しみ半分不安も湧いてくる。

 その不安の原因の大部分に当たる柊が話を続ける。

「もしかしてきちじょーってさ、家を出る時間までスケジュールを立ててるの? さっすがウチの学年の優良生徒だよねー。感心しちゃうよ」

「あの……馬鹿にしているようにしか聞こえないんだけど」

「私は素直に感動してるんだよ。まさか優良生徒のお二人と、一緒に登校できるとは思わないじゃん」

「……」

 言われて赤面したのは伊吹だった。

 春休み前、アスカ高校一年生としての一年が終わる修了式のあの日、俺は男子代表として、伊吹は女子代表として、その学年の優良生徒として、校長から直々に表彰されたのである。

 優良生徒とは、勉学の面もそうだが、高校生らしい正しい振る舞いをできていた者が表彰されるものらしい。遅刻欠席は一切なく、体育祭や文化祭などのイベントも率先して盛り上げ、学校外でも目を見張るような功績を残している――そんな生徒を優良生徒と呼称するらしい。自分で『優良』とか言っていてなんだか恥ずかしく感じるが、そういうものである以上胸は張っておきたい。

 柊はそのことを思い出したのか、はたまた春休み中ずっと心に決めていたのか、朝からイジリに使ってきたのだ。

「その辺にしとけよ。伊吹までからかうなよ」

「やっぱりかわいいなぁ姫は。んもう、ホントおしとやかなお姫様みたい」

「やめてよ、玲奈……」

「お前たちは朝から楽しそうでいいよな」

 都乃衣先輩はそんな俺たちを、傍観するようだけど、自身も楽しそうに見つめていた。


 改めて先頭から順に紹介するとこうなる。

 鞄を片手で肩の後方に持ち歩き、絵に描いたような風格を醸し出すのが都乃衣先輩。

 服装が我が道を行くといった感じで、動くたびにそれがわさわさと揺れているのが柊。

 名前の通り、そして先述の柊の通り、お姫様のようにかわいい可憐なのが伊吹。

 あとは中肉中背のどこにでもいそうな、だが優良生徒の証を持つのが俺こと吉祥。

 おそらく趣味趣向も全く違うであろう男女四人組。

 俺たちはいつもこんな感じで、他愛のないことを話しながら、アスカ高校への通学路を共にしている。というのも、俺たち全員が所属する同好会の部長――その人がそういうルールを設けたからだ。

『放課後を楽しく遊んで過ごそうの会』通称、放遊会。

 去年の四月、柊と都乃衣先輩により創部された同好会に伊吹が勧誘され、その伊吹に俺が勧誘され、そんなこんなで一年が経っていた。

 部長である柊の自由奔放さに振り回されながらも、これまたいつも通り、俺たちは学校へと足を進めた。


   2


 放課後、図らずとも一緒になった伊吹と進路資料室にやって来た。

「おーおーお前らラブラブだな。二人で来たのかよ」

「お疲れさーん。遅かったねー」

 二つの長机と四つのパイプ椅子が部屋には置かれている。

 教室にはすでに二人のメンバーが揃っていた。

 正面から見て左側に、進路資料室ということもあって、資料に目を通している都乃衣先輩。一方でそれを覗き込む柊。邪険そうにしているが、柊はお構いなしのようだ。

「都乃衣先輩だって、柊とイチャついてたんじゃないですか?」

「は? なわけないだろうが」

 急に目つきが鋭くなり何も言い返せなくなる。

 しまった。都乃衣先輩相手にこういうノリはやめた方がいいんだったな。

 見たままの感想ということもあり、つい、対柊や伊吹の反応をしてしまう。

「何してたの? 来ないかと思ってたよ」

「先生に捕まって、ちょっとだけ手伝いをしてきたんだ。待たせちゃった?」

「まあちょっとくらいだし、待ってたってほどではないけど。にしても手伝いねぇ……ほーほー、熱心なことですなぁ」

 伊吹の返事を受けて腕を組む柊。『何様ですかお前は』と言ってやりたい。

「吉祥も手伝ってたってことだろ。やっぱりラブラブじゃないか」

「都乃衣先輩、それ以上はさすがに勘弁してくださいよ。なあ、伊吹も困るだろ?」

「私は別に……」

 ……へ? そうなの?

 今朝のように赤面する伊吹の反応が予想外で動揺する。今のやりとりに赤面するような要素があったのだろうか。女心は難しいものである。

「おい、ひっつくな。資料が読みにくいだろ!」

「えー、いーじゃん。春休みの間は一緒にいる時間が少なくなってたし」

「毎日遊びに来たくせによく言うぜ……」

 進路資料室に出向いたばかりの俺たちを捨て置くと、二人は毎度のように夫婦漫才を展開した。

 まさに正反対の二人がこうも仲が良さそうに見えるのは、二人が幼馴染ということに尽きるんだろう。家族ぐるみの付き合いもあると聞いたし、そんなフィクションみたいな幼馴染の関係って実際にあるんだなと一年のころはコレを見るたびに痛感していた。

 こっちまで気疲れしそうなので、同じ心境であろう伊吹に逃げる。

「とりあえず座るか、伊吹」

「……うん、そうだね」

 伊吹の苦笑いが痛いほどよくわかる。

 俺たちがいつもの席に着くと、柊は頬を紅潮させた。

「やっぱさ……こういうのってなんかいいよね。部活動してるっていうかさ……全員が集まるとこう……部長としては壮観なわけよ」

「同好会だけどな」

 俺の突っ込みを聞き入れることはなく、柊は自己満足そうに頷きながら独自の世界に酔いしれる。すると前触れもなくカッと目を見開き、

「――うっし、おっけーわかった! それじゃー、今日の活動内容を発表するよー!」

 急に声を張り上げた。

新人ならちょっとビックリしそうな声量ではあるが、俺たちはもう慣れている。

「唐突だな。で、内容は?」

「内容はぁっ……!」

「溜めんな」

 都乃衣先輩、同感です。

「今日の放遊会の活動内容は……デートでーっす!」

「……あはははは、玲奈らしいね」

「デートねぇ……。一応聞いておこうか。それに決まった理由は?」

 放遊会はまさにその名の通り、放課後を楽しく遊んで過ごすための同好会なのだが、その自由奔放さ故か、柊はたまにこういう頓狂なことを口にする。

 俺の質問に対して、柊は部長っぽい口調で説明を返した。

「いいかい諸君? 私たち放遊会は、今年で二年目を迎えることになります! まー、始業式である程度顔は合わせましたが、みなさんと集まるのは春休みを挟んで二週間ぶりです。そうすると、放遊会としての団結力が欠けている可能性があります。それを元に戻すために! いや、さらに強めるために!」

「だから……デートだって?」

「その通りだ! きちじょー君!」

 だんだん喋り方がおかしくなってないか? 君って、どこかの教授でもあるまい。

 どうせ都乃衣先輩と二人きりになりたいだけだろうな。

「別にいいんじゃないか。俺は賛成だ」

「珍しいですね。先輩なら真っ先に拒否しそうなのに」

「今年度に入って諦めたからな。お前たちもいずれ悟りを開くときが来るだろうさ」

「ペアで好きなところに行くんだよ! 面白そうなところを見つけたら後日報告で!」

「どうせ俺とペアを組むって言うんだ。なら、さっさと行くか」

 都乃衣先輩は立ち上がって、パンフレットを棚に戻した。

「悠一! それなら早く行こーよ! 善は急げってゆーし! きちじょーと姫も、ごゆるりと楽しんできなー」

 手をひらひらと振りながら教室を出ていった。

 一番楽しんでいるのはお前の方だろうに。

 そんなことを思案しているうちに、進路資料室に残されたのは俺たちだけになった。

「吉祥君。で、私たちはどこに行こっか。私は別にどこでもいいよ」

「……どこでも、か……」

 やや面倒な問答に困る。

 言い方が悪くなってしまうが、選択権を他人に委ねるという投げやりな発言。伊吹は俺の意思を尊重しているんだろうけど、行くところなんて、そう簡単に思いつかないしな。

「……じゃ、ブルースカイツリーはどうだ?」 

 ここで時間を割くのもアレだし、ちょっと遠いけど無難なところがいいだろう。

 ブルースカイツリーはこの町のシンボルとも言えるタワーだ。

 役割はあくまで電波塔だが、一部が展望台で入場可能になっている。

「ブルースカイツリーか……。じゃ、そこにしよっか」

 伊吹は少し逡巡した様子を見せたかと思うと、あっさりと了承した。

「本当にいいのかよ」

「私は吉祥君と一緒なら基本どこでもいいよ」

 急に嬉しくなるようなことを言うなよ。勘違いを起こすだろうが。

「たださ、私からも一つ提案があるんだけど、行くならもう少し遅くなってからにしない? ブルースカイツリーって夜もやってるよね。せっかくなら夜景を見てみたいな」

「……まあ俺は構わないけど。伊吹は帰りが遅くなっても平気なのか?」

「去年も何回か夜遅くに帰ってたもん。ウチはそこまで厳しくないよ」

「それもそうか」

 ということは、俺は家のことをもろもろやってから出ることになるのか。

 それはそれで、面倒を先に済ませられるから有難いとも言える。

「じゃ、今はここで解散ってことで。集合場所と時間はあとで連絡するよ」

「一緒に帰らないの?」

「ちょっと帰りに寄るところができてさ。各々準備する感じにしよう」

「わかった。じゃ、あとでね」

 肩を弾ませながら進路資料室を出て行く伊吹。

 俺も心なしか、自身の胸が躍っているのを感じるのだった。


   3


「そういうの、デートって言うんだよ」

 進路資料室にて、スマホのメッセージで逢河に召集をくらい、WPO本部へと直行。エントラスホール端にある会議用の円卓に、逢河と結香の姿を見つけ着席。そうして矢継ぎ早に、結香に何をしていたのかを聞かれ、直近の出来事を伝えると、そんなことを言われた。

 ホント女子というのは、決まってこういう反応をしてくる生き物だなと思う。

「違う。あくまで同好会の活動の一環だ。伊吹とは毎日二人きりで下校する仲だし、その延長線だよ」

「へぇ。夜の展望台に行くのは?」

「初めて、だけど……」

「ほら、やっぱりデートだ。叶真頑張りな。ちゃんと伊吹さんのことリードするんだよ」

 相変わらずグイグイ突っ込んでくる結香。

 前に蓮が『スイーツ』と皮肉っていたが、まさにこういう女を指すんだろうな。

 ようやくあいつの言いたいことがわかった気がする。

「じゃあもうデートでいいよ。柊もそういう風に宣言してたし」

「お、やっと認めたか。ぷくく、見に行こっかなー」

「いや来んなし。絶対に来んな」

 同好会の活動とはいえ、二人きりの時間になるんだ。気になって活動に集中できなくなるだろ。

「ねぇ、そろそろ任務についての話をしてもいいかな?」

 結香と締まりのないことを話していると、呆れたような声が別方向から飛んできた。

 頬杖まで突いている逢河が、二進も三進もいかない状況について、目で訴えてくる。

「あ……すまん逢河。で、何の話だっけ?」

 WPO本部に出向いたそもそもの理由を思い出す。

 逢河が招集を掛けたということは、やはり任務に関してだろう。

「まったく……仲良しなのはいいけど、ほどほどにね」

「なんなら美咲も話に入ればいいじゃん。たまにはゆとりも必要だよ」

「今はそういうことをするために集まったわけじゃないの。結構深刻な問題が起きたらしいの」

 『深刻な問題』という言葉を聞いて、周囲の空気が張り詰める。

 さすがの結香も、一瞬で大人しくなった。

「何があった? また異端能力者か?」

「うん、実はそうなんだ。しかも単独じゃなくて集団で、アスカ町を拠点に活動しているらしいの」

「異端能力者集団か……。久しぶりに出てきたと思ったら今度はアスカ町かよ」

 俺も機関の人間としては五年目に入ったわけだし、初めてというわけではなかったのだが、厄介な存在であることに変わりはなかった。

「アスカ町って言うと、叶真が住んでる町だよね」

「ああ。マージで異端能力者は面倒しか起こさねーよな。で、詳細な場所は?」

「まだわからないみたい。情報が入り次第、報告するとは言ってたけど。現状伝えられるのは、アスカ町を拠点にしていることだけだって」

 監視・対策班も死力を尽くしているわけだし、その異端能力者集団は、今のところは陰でコソコソしているんだろう。

「なるほどな。じゃ、まだ構えているだけしかできないわけか」

「そうなるかな」

「ま、もし異端能力者が暴れようもんなら、俺がすぐに捕まえれば済む話だ。そんなに気負うことはないだろ」

「叶真、油断は禁物だよ。いくら叶真でも、不意を突かれたら一瞬でおじゃんなんだからさ」

 急に結香が最もなことを言う。

 さっきまで俺をイジり倒して楽しんでいたくせにどの口が言うか。

「そのときは医療班にすぐに治療してもらうよ」

「そうならなきゃいいけどね」

「他に任務は?」結香との軽口を済ませ、逢河の方に視線を向ける。

「今はそれだけ。まあ任務って言っても、ホントに今はただの報告だけだからね」

「そうか。ならこれ以上はどうしようもないか」

 しばらく沈黙が続いたので、俺は話を切り上げた。

「よし、じゃあ俺は帰るよ。買い出しをしておかなくちゃいけないし、伊吹との約束もあるからさ」

「デート、だよね」

「おう、デートだ」

 結香がまた楽しそうに口を挟んで来るので、今度は堂々と開き直ってやった。

「ねぇ、吉祥の同好会ってさ、放遊会って名前の同好会だよね? 都乃衣さんも伊吹さんも真面目そうなのに、なんでいつもそういう活動ばかりやってるの?」

 任務についての話が済んだからか、逢河が素直な疑問をぶつけてくる。逢河も結香も、放遊会の他の面々との面識はあったので、一年も経てば当然の疑問だった。

「見たことあるだろ。部長が破天荒なんだよ」

「おっと叶真。その『破天荒』の意味、わかった上で使ってる?」

「わかってるし、しゃしゃってくんな。柊は本当に破天荒な奴なんだよ」

「ふーん。そんな凄い人なんだ。子供っぽい人っていうイメージだったけど」

「結香がそれを言うのか。お前も十分子供っぽいだろ。人のこと言えないぞ」

 そう――全体的なフォルムとか、主に胸部とかさ。

「は? どういう意味で言ってるそれ? 握り殺すよ?」

 独特の脅迫とともにガンを飛ばしてくる。

 ただ、まだ核心まで口に出してはいなかったので、すぐさま反対側に舵を取った。

「冗談だよ。目つきだけでも死にそうだからやめてくれ」

「吉祥が余計なこと言うのがいけないんだよ」

「はい、そうですね……。じゃ僕は帰りますよ?」

「うん、任務のこと忘れないでね」

 最後の最後で空気を悪くしてしまい、後悔の念が残る。

 冷静な逢河となんとか別れを告げ、すごすごと本部を去る俺だった。


 大通りの信号が青になると、歩行者はせき止められていた川の流れのように一斉に道路を横断し始めた。その中でも、老人が膝を折り、杖を突き、両手に大量のレジ袋を抱えて渡ろうとする姿は特に目立っていた。他の歩行者も気付いているはずなのに、手を煩わせたくないのか、声を掛けようとはしない。

 そのせいでおばあさんのことが心配になってしまった俺は、横断した道路を引き返し、青が点滅する中、まだ中腹にいるおばあさんの元まで戻った。

「急がないと赤になっちゃいますよ。僕が荷物を持つんで、まずは道路を渡っちゃいましょう」

 できるだけ急かさないように、それでいてのんびりするのもダメだという意味を込めて、最善の言葉を選んで声を掛ける。

「まあまあ、どうもありがとうね」

「気にしなくていいですよ。ただのお節介ですから」

 おばあさんから荷物を手渡される。

 うおっ、結構重いな……これだけの量を一人で持っていたのか。

「さ、行きましょう」

 すでに歩行者用の信号は赤となり、車は発進できずにあぐねている。ドライバーに対し、俺が手を挙げて頭を下げると、状況を理解してくれたのか、優しい笑みを返してくれた。

 日本も捨てたもんじゃないなと思わせる光景だ。

「よし……ここまで来れば大丈夫ですね」

「本当にありがとうね。助かったわ」

 横断歩道を渡り切り、俺が預かっていた荷物を受け取ろうとするおばあさん。

 俺はお節介だと思いつつも、一つの提案をしてみた。

「あの、おばあさん、せっかくならこのまま家まで荷物を運びましょうか? 一人で持つんじゃ大変でしょう?」

「あら、そこまでやってくれるの? でも平気よ。ここさえ渡れば、あとは少し歩けば着くからねぇ」

「だったら尚更付いて行きますよ。近くなら寄り道程度なわけですし」

「本当に平気だから。改めて礼を言うわ。ありがとうね」

 有無を言わせぬ笑顔を振りまきながら、俺が持つ荷物に再び手を伸ばす。

 まあ、そこまで言うならこれ以上言い合うことはないか。強引にするのも問題だしな。

「わかりました。でも、気を付けて下さいね」

「ええ。じゃあ、私はここで……」

 そう言っておばあさんは、俺が向かっている方向とは別の道に足を向けた。

 遠のいていく小さな背中を見ていると、良い感情が湧いてくるのがわかる。

 俺はやっぱり善いことをするのが好きなんだと、改めて実感した。


   4


 音楽プレーヤーで曲を堪能しつつ道を歩いていくと、見慣れた建物が視界に入った。

 入口まで移動し、そこに掲げられた広告を仰ぎ見る。

『格安の殿堂入り ドン・クライホーテ』

 ドンクの愛称でも親しまれているここ『ドン・クライホーテ』を、通学路で通るということもあり、俺はよく利用していた。早速中に入り、戦利品を集めることにする。

 パン、卵、肉、油、カット野菜、冷凍食品――。今日は食品系を中心に集める日だ。

「これだけあれば十分かな」

 パンパンになったカゴを片手に抱え、さらに奥の方へと歩みを進める。

 ひと段落したし、ついでにバラエティコーナーでも見て行くか。

 ドンクに赴いた以上、少しだけでも目を通しておきたい気持ちは昔から変わらない。

 むしろバラエティコーナーこそがドンクの象徴と言っても過言ではないので、そういう意味でもやはり目を通しておきたかった。

 階段を上がってすぐの広めのエリアが見えてくると同時に、覚えのある長髪の女の子が、グッズを物色しているのが目についた。

「おー伊吹じゃんか。お前も来てたのか」

 俺の声を背中に受けるや否や、電気が走ったかのようにぶるっと震える。

 何かを選んでいたのだろうか。

 伊吹は俺に見えないように体を影にしつつ、グッズの前であたふたする。

 広告のようなものを隠してたように見えたが、まあ変に気にしないでおこう。

「や、やぁ、吉祥君。こんなところで会うなんて奇遇だね」

 ぎこちない挙動でこちらに振り向く。

 俺が伊吹を意識していると誤解されるのも嫌なので、なるだけ気さくでいるようにした。

「俺はいつも通り買い出しに来てたんだよ。伊吹も何か買いに来たのか?」

「まあ、そんなところ……」

 相変わらず怪しさ満点の挙動で、今度は直前まで見ていたグッズまで隠そうとする。

「ミサンガか……。これを買いに来たのか?」

 俺は構わずに脇をすり抜け、ミサンガを一つ手に取ってみる。

 白と黒の糸を螺旋状に捻じったシンプルなデザインだ。陳列――というか、それらが放り込まれた箱の中にも様々な配色のものが存在している。どれも二色の糸を捻じったものだというのは同じだが、赤と白、青と黄緑、黄色と黒など、バリエーションは多くあった。

「……う、うん。どの色にしようか悩んでて……」

「へぇ。ミサンガってあれだろ? お守りとかそういう、おまじないで付けるものだよな。伊吹がこういうのを好きだっていうのは初めて知ったよ」

「えへへ……もしかして引く?」

「いや、そんなことはないよ。俺だって、朝の星座占いくらいは見てるしな。しらみつぶしに馬鹿にするようなことはしないって」

 ウソではないという意味も込めて、積極的にミサンガを腕に付けてみる。

「おお。こうして付けてみると案外オシャレかもな。その上でご利益があるとなれば、願ったりかなったりだな」

 個人的にはこの白黒のミサンガがストライクゾーンに入っている。他の色を試したら考えが変わりそうであるが、俺の性格上、シンプルな色合いの方が好みだった。

「どうだ? 似合うか?」

「うん……いいと思う、よ。吉祥君、せっかくなら買ってみたらどうかな?」

「ミサンガを買う、ねぇ……。たしかにたまにはこういう買い物もアリなのかな。値札が見当たらないけど、いくらするんだこれ」

「千円だよ」

 千円だと!? この糸を捻じっただけの輪っかに、英世一人分の価値があるっていうのか。それだけ、このミサンガは相当な可能性を秘めているのか。

「さすがに高いな……。簡単に出せる額じゃないな……お」

 英世を生贄にするか悩んでいると、大量のミサンガの海の中に、俺のミサンガの双子を見つけた。

「同じ奴がもう一個あるじゃんか。そうだ、伊吹。じゃーさ、俺にこれを買わせようって言うなら、お前も同じものを付けるっていうのはどうだ?」

「え、本当にいいの!?」

 急に食い気味に顔を突き出してくる。

 目に見えてわかる火照った全身が、伊吹の興奮を主張しているようだった。

「いいのってどういう質問だ。むしろ俺がいいのか聞きたいんだけど」

「あーえーっと……そうじゃなくて……」

 優等生の伊吹らしからぬ、要領の得ない返答をする。

 どうもさっきから様子がおかしいな。

 伊吹は散らかった頭の中を整理すると、最後に唾をごくりと飲み込んだ。

「よし、そうしよう。私と吉祥君とで、同じものをお揃いで買おう」

「決まりだな。元々今日の活動はデートなんだしな。そう考えりゃ、ペアルックで買うっていうのはなんつーか、それらしいのかもな」

「うん、そうだね」

 伊吹が一輪の花を咲かせる。

 その無垢な笑顔は、俺の心に一瞬の揺らぎを生じさせた。

「他に買うものとかあるのか?」

「いや、特には。そもそも、なんとなく寄ってみただけだからね」

「そうか。じゃ、下に降りるか」

 そこから先、伊吹は口を開くたびに、今までにないくらいに上機嫌だった。


 ドンクを出てすぐに、俺は伊吹の分のミサンガを渡し、自分のものを改めて腕に付けた。

「納得いかないよ。私の分まで会計しちゃうなんて。今からでも千円払うよ」

 伊吹が鞄の中を探り始めたのでそれを制す。

「いいって。さっきも言ったろ。今日の活動はデートなんだ。つまり俺と伊吹は、『一日署長』ならぬ『一日カップル』なわけだ。彼氏が彼女のために何かを買うってのは、ごく自然なことだろ」

「……そういうこと、女の子相手にさらっと言わない方がいいよ?」

 顔を赤くさせて、そっぽを向く伊吹。

「いいじゃんか。筋は通ってるだろ。こういうときは大人しく貰っておけばいいんだよ」

「……うん。ありがとうね、吉祥君」

「おうよ」


 しばらくして俺は、数分前の自分の発言を思い返し、羞恥心で苦しくなりそうだった。

「……」

「……」

 さっきの俺は、何を格好つけたことを言ってしまったんだ。

 一日カップルとか彼氏とか彼女とか、下手したら気持ち悪いとか思われかねないぞ。

 伊吹は依然として地面を見つめながら、俺の横に付いて歩いている。

 店の前で別れるのも味気ないため、ひとまず公園方面へと並んで向かって行くことになったはいいものの、先ほどから沈黙が拭えないでいた。

 どうしよう……。こんな空気にしたのって俺のせいなのか? カップルとか言っちゃった手前、俺が何か話題でも出して盛り上げないと……。

「吉祥君、今楽しい?」

 ふいに伊吹がそんなことを聞いてきた。

「私ね、今すっごく楽しいんだ。吉祥君とお揃いのミサンガを付けて、こうやって一緒に帰り道を歩いてさ。あとでブルースカイツリーの展望台に行く約束もしてるしね」

「一緒に歩くくらいなら、いつもやってるだろ。おかしなことを言う奴だな」

「ううん。こういう何気ない幸せを感じられるのが私は嬉しいの。だから吉祥君はどうなのかなって思ってね」

 ドラマや小説にありそうなセリフだったが、俺もたしかに同じ気持ちだった。

 だから一輪の花に対して、俺も渾身の笑顔で返す。

「ああ、俺も楽しいよ」

「そっか。ならよかった。これからもこんな毎日が続くといいね」


 高校一年生のころ、俺は新しい環境に若干戸惑っていた。

 学力の差や、将来の方向性、家庭の事情などによって、親しい友人は誰一人として、アスカ高校に進学していなかったからだ。

 そんな俺に声を掛けてくれたのが他でもない伊吹だった。

『吉祥君、だよね? わかる? 中学が同じだった伊吹って言うの』

『伊吹? あー……いたな。ごめん、男友達とばっかり一緒にいたからあまり記憶になかったかも』

『別にいいよ。吉祥君ってさ、どこの部活に入るとか決めてあるの? まだだったら、紹介したい同好会があるんだ。放遊会って言うんだけど……』

『放遊会……? どんな同好会だよ?』

『うーん。まあ、ゆるーい同好会なんだけど、なんて言ったらいいのか……』

『……わかった、いいよ。どうせ暇だし』

『ホント!?』

『百聞は一見に如かずって言うもんな。それならまずは行ってみようかなって』

『うん! じゃあ放課後、進路資料室に一緒に行こうね』

『……ありがとな、気を使ってくれて』

それから今みたいな日々が始まった。

 柊や都乃衣先輩という、一癖も二癖もある人たちに慣れるのには時間が掛かったけれど、色々あって、どうにかこうにか一年を乗り切ることができた。

 それは伊吹が傍にいてくれたからと断言できる。

 本人に面と向かって言うのは気恥ずかしくてできないけど、いつか感謝の念を伝えることができたらいいなとも思う。

 俺が優良生徒と証されたのも、やはり伊吹の存在があったからだろう。


 伊吹の言う『何気ない幸せ』を与えてくれたのは、他でもない彼女だ。

「続くよ。ちょっとくらい嫌なことがあっても、俺がなんとかするさ」

「ふふっ、吉祥君なら心強いね」

 そしてそれがいつまでも続くように――。

 そんな祈りを込めて、俺たちは互いに笑い合った。

「――うっ……え?」

 急に伊吹が立ち止まり、短い呻き声を上げる。

「どうした? 伊吹」

 伊吹は自分の胸元に視線を落とす。そこには何もなかったが、体内で何か痛みでも感じたのだろうか。

 いや、そんな生易しい事態ではなかった。

「――かはっ」

 伊吹の胸元が赤黒く染まり――それが血だとようやく理解し――続けざまに伊吹が吐血する。

「かはっかはっ……。え、何これ……?」

 おそらく尋常でない痛みを伴っているのだろうと外見だけでもわかる風体の伊吹は、胸を抑えて後ろを振り返った。

 そこには、血で染まったナイフを握りしめる赤髪女の姿があった。

 女はおよそ人とは思えない態度で言う。

「あ・ん・た・さぁ~。それはズルくなぁ~い?」

「……え?」

 そして俺が止める暇もなく――直前に背中を刺されていた伊吹の――今度は腹部を――女はそのナイフで深く突き刺した。

「うぐっ。……ぐ、ぷはっ」

 伊吹は勢いのままに押し倒され、その上に女が覆い被さる。

「……」


 ……は?


 俺はどうにか現状を理解しようと頭を動かす。

「ぐぅうううう! やめて、よ……!」

 女はナイフを捻りながらさらに胸の奥へと押し込んだ。

「どけっ! 伊吹から離れろ!」

 ようやく事態が飲み込めてくる。

 見知らぬ女が伊吹を刺したのだ。いわゆる通り魔。

 それは理解できるが、何故『伊吹』なのかが理解できない。

 女は俺に道路の方へ突き飛ばされると、そのまま流れるように建物の影に姿を消した。

 これは比喩でもなんでもなく、肉体が液体として溶けるかのように――地面に広がる黒い影と同化するかのように――その身を一切残らず消してしまったのだ。

 この異常とも言える現象を説明するのに、適当な解答がすぐに脳裏をよぎった。

「異端能力者か……」

 奥歯に力が入る。

 異端能力者の多くは独自の考えで行動を起こしている。狂人、異常者、サイコパス。揶揄するための表現なんていくらでも思いつくほどの、あってはならない存在だ。

 よりによって俺の身内の、伊吹に手を出してくるなんて……!

「吉祥、君……」

 伊吹は口内から赤い液体を溢れさせつつも、胸を抑えて痛みに耐えていた。

「無理に喋るな……。意識をしっかり保ってくれ……」

 周囲では野次馬が騒ぎ出し、心配の声を掛けたり、救急車や警察を呼び始めたりしていた。だが俺は伊吹の安否だけを気遣うようにする。

 どうする……? 出血が多すぎる……。救急車なんて待っている場合じゃない。WPOの医療班を呼ぶか……? いや、ダメだ。それでもやっぱり間に合うかどうか……。せめて俺が、治癒系の能力でも持っていれば……!

 しかしながら悔やんでも仕方ないことだった。俺の能力は『重力の支配』で、空関系に特化した能力だ。それが俺の適正であった以上、どうしようもない。

 伊吹がどうにか息を整えようと必死になっているさなか、俺は急いでスマホを取り出し、逢河の名前をタップした。どうせいつものように本部内にいるはずだ。

『どうしたの吉祥?』

「逢河、マズイことになった。伊吹が異端能力者に襲われた。出血が酷い。すぐに医療班を寄こしてくれ。場所はドン・クライホーテアスカ店の近くだ」

『わかった。すぐ手配する。異端能力者がどこに行ったかわかる?』

「方角に関しては予想がついてる。俺はそっちを追う。伊吹のことはお前に任せるぞ!」

 殆ど捲し立てるようにして通話を切った。この会話をしている時間すら惜しかったのだ。

『影の中を移動する能力者』っていうなら、あの女は影が伸びている方向に逃げたはず。絶対に逃がさねぇ……捕まえて罪を償わせるんだ。

 俺の固い意志が足を弾こうかというとき、伊吹が俺に手を伸ばしてきた。

「ねぇ吉祥君、言いたいことがあるの……」

「大丈夫。犯人を捕まえたらゆっくり聞くよ」


 俺は溢れ出そうな涙を袖で押し込め、影使いの能力者の後を追いかけた。


   5


「止まれ」

 方角的にまさかとは思っていたが、『小さな公園』にやって来ると、不審なオーラを纏う女が佇んでいた。時間は夜を回っており、灯りの点いていない公園だが、目で認識できないレベルではない。

「な、なんでしょう、か……」

 女がゆっくりとこちらに振り向くと、案の定衣服は赤黒く汚れており、血塗れのナイフも握っていた。

「お前、異端能力者だよな? さっきそのナイフで伊吹を刺したよな」

「ナイフ……? ち、違います! 私はそんなことやってません!」

 女は手元に視線を落としたかと思うと、演技ではなく本心といった感じで、誤解を解こうとナイフを捨ててアピールした。

 どうも態度がまるで違っていて不思議に思ってしまう。女が伊吹を刺したときはまさに狂人という成りをしていたのに、今目の前に立っているのは、あくまで普通の成人女性だ。

 顔も服装も同じなのに人格そのものがすり替わっているような……。

「じゃあ誰がやったって言うんだよ。その格好で言い訳が通用すると思ってるのか?」

「いえ、たしかに私と言えば私なんですけど……今の私ではなくて……」

 何を言っているんだこの女は? 訳のわからないことを言って誤魔化そうとしているのか。あるいは単に頭がおかしいのか。

「その、もう一人の私が……」

「もう一人って……。じゃあなんですか? あなたは多重人格者で、今の人格ではなく、別人格が伊吹を手に掛けたと言うんですか?」

「そ、そういうことです……」

話にならない。俺を馬鹿にしているのか。もっとマシな言い訳をして欲しいものだ。

「いい加減にしろよ。自分が何したのかわかってるのかよ……?」

「信じてくれないってことですか?」

「信じるも何も、俺はお前が伊吹を刺したところを見てるんだ! 機関の人間として、お前を確保させてもらう」

 俺は周囲の重力を横向きにし、一気に女へと間合いを詰めた。

 女の華奢な腕を掴む。この腕で伊吹を刺したのか疑問を抱いてしまうほどに、もろくて簡単に折れそうだった。

「……ぐっ! 放してください! あなたまで傷つけてしまうかもしれないんですよ!」

「そう思うなら大人しく投降しろ。これ以上被害を増やすわけにはいかないんだ」

 必死に抵抗する女。

 そのとき、弾みで女の額から何かが落ちる。

「こういうときはぁ……あたしに代わっておけばいいんだってぇ……」

 急に女の声色に変化が生じる。見ると、どうもメガネが外れたらしく、女は人とは思えない目つきで俺を見据えていた。

「あんたも放せって言ってるんだから、放してやりなさいよ……ったく!」

 力強く腕を振りほどかれる。女は薄っすらと笑みを浮かべていた。

「あたしに話があるんでしょ? ねぇ? WPO様?」

 ねめつくような声を出しながら、挑発的な言葉を投げかけてくる。

 その様相は、直前の女とは全くの別物だった。メガネの有無で変わるものなのか。

「本当、なのか……?」

「もう一人のあたしがちゃんと説明してくれてたでしょ。実際に見ないと信じないタイプなのかしら」

 これが本物の多重人格って奴なのか? 未だに納得できない点はあるが、もう一度質問をすれば、すべてがはっきりする。

「お前がやったのか?」

「見たまんまでしょ。ていうか、それが何だって言うのよ。わざわざ追ってくるなんて、あんた、あの子の彼氏なの?」

 鼻で笑いながら肯定するのが癪に障るが、冷静に努める。

「どうしてだ? なんで関係ない伊吹を巻き込んだ?」

「うーん。うざかったから」

「うざかった?」

「あたしの近くで幸せそうにしている奴を見ると虫唾が走るのよね。特にカップルは腹が立つ。だからつい、ね。こうサクッと……。今思い出してみても、中々の快感だったわよ」

「たったそれだけの理由で?」

 そんな嫉妬も甚だしい理由が認められると思ってるのか。

「十分じゃない。そもそも、あたしにとっての殺しっていうのは、もっと簡単なものなの。あんただって、家の中にゴキブリや蚊が出たら平気で殺すでしょ。そんな感じなのよ」

「ふざけるなよ! そんな理屈が通るわけないだろ!」

「理屈とか言われてもね、それはあんたらの世界の話でしょ? あたしたちと機関の人間を一緒にしないでくれる?」

「『たち』……? お前まさか、逢河が言ってた異端能力者集団の一人か?」

「へぇ、さすがWPO。もう知ってたんだ。で、どうすんのよ。彼女の敵討ちでもするの?」

「黙れ」

 過重力を発生させて、女の周囲の空間もろとも押し潰す。

「減らず口を叩くのはもう終わりだ。お前は機関に連れていく」

「ついでに能力と記憶も消去するのよね。うーん、機関も中々エグいことするわよね」

「お前はまだそうやって……!」

「いいわねぇ……その顔。そうやって必死になっている顔を見ると、ホントそそられるのよ……フフフ」

 女は闇に同化するかのように、影に溶けた。

「チッ! そういや影を操る能力だったな!」

『フフ、そういうこと』

「うぐっ!」

 ナイフを回収したのか刃物で足を切られる。声がしたと思ったら一瞬だった。

『察しがいいようだけど残念ね。この闇が埋め尽くす中であたしに勝てると思ってるの?』

 それがなんだ。絶対に捕まえてやるんだ。罪を償わせてやる。

 今の俺がすべきことはこいつを倒すことなんだ。

「……っ!」

 俺はスマホを取り出し、バックライトで周囲を照らした。

 相手を捕捉できなければ、勝つための算段がつけられない。

 影の中から声がする。

『それで抵抗しているつもり? 笑わせないで』

 背後から襲い掛かる女に対抗する。

 しかしながら不意打ちでワンテンポ遅れしまい、隙を誤魔化すために後ろに倒れた。

『ねぇ、あたしをどうしたいの? 殺したい? それとも捕まえてメチャクチャにしたい? 言ってみなさいよ。あんたの回答次第では、見逃してやってもいいのよ』

 黙れ……。その汚い口を閉じやがれ……。

「……WPOとして捕まえるだけだ」

『クールなのね。やっぱりゾクゾクしてきちゃう』

 刺し殺そうとする女の勢いと、それに抗う俺の勢いとが、ナイフ一本でぶつかり合う。

 少しでも力を緩めれば死ぬ。

 ナイフの刃先が目の前で揺れていた。

『ほらもっと頑張ってよ。このまま気持ちよく首を刺してあげよっか。知ってるかしら。死って極上のエクスタシーなのよ? あの子もきっと今ごろ――』

「黙れって言ってんだろ!」

 女に重力を発動し、五体を引きはがす。

『うっ!』

 だが木にぶつかると同時に、女は再び影の中に溶け込んだ。

 今度は引力を使い、零れ落ちたナイフを引き寄せる。

 ダメだ。冷静になるんだ。相手のペースに飲まれたら一気にやられてしまう。

『勝負はまだこれからよ』

 言い終えるや否や、影の中で蠢く闇が、俺の体を這いずり上がってくる。

 すかさず女の次の一手が下されたのだ。

「なんだこれっ……?」

 それは瞬く間に全身を巡っていく。

「ううっ! なんだ? ……身動きがっ、とれないっ!」

 一瞬のうちに、俺の全ては拘束された。

 頭と腕と足はおろか、指先まで満足に動かすことができず、可能なのは呼吸のみ。

『どう? あたしの能力はこんなこともできるのよ?』

 今度は耳元で声がする。

『あんたの全身を影で覆った。この瞬間からあんたの体は、完全にあたしの手に落ちたの』

「なんだとっ……?」

 つまりこれは能力を応用したもの。

 俺の全身の影へと移動し操ることで、肉体を乗っ取ってみせたわけだ。

『じゃあね。最後は自分の手で死になさい』

「……なにっ!?」

 自分の意思とは関係なく両手が動く。

 刃先が狙うのは俺の腹だった。

 すべて女が俺にそうさせているのだ。

「……うう! うぐぅっ!!」

 なんだこの力!

 いくらなんでも、男の方が腕力は上なはずなのに、それほどまでに掌握できるのか。

『抵抗したって無駄よ。どうせ悪あがきに過ぎないんだから』

 全神経を集中させて自分の体に抗うと、カタカタと小刻みに全身が震えた。

 だったら悪あがきで終わらせないようにするまでだ。

 周囲を見渡して打開策を探る。

 その行動はすぐに実った。

 そうか! 公園の街灯で照らせば、女は姿を現すはずだ!

 たしかこの公園の街灯は六時になったら点くようになっている。

 今までも『小さな公園』には何度か出向いていたため、その辺の事情は知っていた。

 時計を確認すると、まだ数分は掛かりそうだった。

 だったら今は耐えるしかない。

 何としてでも、反撃のチャンスが来るときまで。

『いい加減諦めたらどうなのよ!?』

 一層力が強まる。

 ついに本気を出してきた感じだ。

 まだだ。俺はまだ死ぬわけにはいかない。

「くっ!」

 俺は咄嗟に思いついた考えをすぐに実行した。

 周囲の重力を横向きに変化させ、自身の体もろとも植え込みの方へ突っ込む。

『ちょっと! あんた正気!?』

 衝撃に若干の恐怖はあったが、それではこの危機を乗り越えることはできない。

「――っ!」

 横移動とはいえ、三階の高さから落ちたのと同じくらいの距離を移動していたこともあり、植え込み程度では吸収しきれない激痛が襲う。

 拘束を解いた女は離れたところに佇んでいた。

「馬鹿なのあんた? 自爆でどうにかなると思ったの?」

 思ってるからした。

 何もしないよりかは遥かにマシだ。

「ここまで必死にアプローチされると清々しいわ。面白いわね、あんた」

 女はオモチャを見つけたかのように続ける。

「どう? あたしたちの仲間にならない?」

「お前、本気で言ってるのか? 俺はWPOなんだぞ?」

「何もおかしくないじゃない。異端能力者は、全員がWPOから逸脱した存在なのよ? 他者のためにこの力を使うのではなく、私利私欲のために使った方が利口だと思わない?」

 どう考えたらそういう思考に行きつくのか理解できない。人の考えをしらみつぶしに否定するのは好きではないが、到底理解の敵わない範疇だった。

「人数が多いに越したことはないしね。どう?」

「戦国武将気取りの狂った集団か。異端能力者の考え方は相変わらず意味不明だ」

「でも理に適ってるのよね。まずはアスカ町を支配下に置き、そこから日本全国まで勢力を広げていくの。『あたしたちの強さを知らしめれば』、必ず能力者は付いてくるのよ」

 未来のあんたもね、と女は笑った。

「それとあたし、あんたみたいなクールな男、結構好きよ。あんな女より、あたしがいい思いさせてあげるから。……ね? それでどう?」

「断る」

 伊吹のことを愚弄する奴の仲間になるほど、俺は愚かじゃない。それにここで簡単に籠絡するような器の人間だったら、五年も機関の人間としていられなかったはずだ。

「俺はお前みたいな女が嫌いだ」

「はあ? この期に及んで、自分に選択肢があると思ってんの?」

「お前は言ったな。強さで圧倒すれば能力者は付いてくるって。だけど俺は、まだ負けてない」

 女の嘲笑に動揺が混ざる。

「何言ってんのよ。この闇がある限り、あんたに勝ち目はないのよ」

「つまり、灯りがあればいいんだろ?」

 俺の言葉でようやく女は冷静になる。

 影として一緒に植え込みに移動したことが何に繋がるのか理解する。

 でも、もう遅い。

 機は熟した。

「俺の勝ちだ」

 公園にあるすべての街灯が一斉に光を齎す。

 そして女の周囲も、一切の淀みなく照らされた。

「まさか、そんなことって! ――うぐっ!」

 逃走を図る前に、重圧で地面に縛り付ける。

 何度でも言うさ。絶対に逃がさねぇ。

「影がなければ抵抗すらできないか? ちょっと痛いけど我慢しろよ!」

「うううううう!!」

 初めて女が正常ではない顔を覗かせる。

 それはようやく戦いが終わろうということを示していた。

「そのまま大人しく寝てるんだな」

「く……う……う……助け、て……誰、か……」

「助けて、か。そういうのはな、お前みたいな人間が言っていい台詞じゃないんだよ」

 疼いた心を押し殺す。若干力が強くなっていたようだが、誅としては丁度よかった。

 女の無力化に成功し、真っ先に逢河に電話をかける。

「逢河、異端能力者はなんとか確保したよ。そっちはどうなってる?」

『ケガはしてない?』

「俺も対象も致命傷はないよ。ちょっと手こずったけどなんとかって感じだ」

 海岸に打ち上げられたアザラシのように動かなくなった女には、さっきまでのひょうきんな面影が微塵も残っていなかった。だけど命までは奪っていない。

『そっか……。よかった』

「伊吹はどうしてる?」

『……』

「逢河? 聞こえてるか? 伊吹はどうなったのか聞いてるんだよ」

『あのね吉祥、落ち着いて聞いて欲しいんだ』

「……なんだよ急に改まって」

『お願い。誓って。これから私が何を言っても取り乱さないで欲しいの』

「取り乱すって……。変な言い回しすんなよ……」

『……大丈夫?』

「言ってくれ……」

『伊吹さんは亡くなった』


   6


 『小さな公園』のベンチに座り、俺は項垂れていた。

 直前に逢河から告げられた事実を受け入れることができずに、ひたすらに、それを捻じ曲げるための解法を探していた。

 どれくらい地面を見つめていたのだろう。

 帰ろうという気持ちが湧いたころになって、ようやく雨が降っていることに気付いた。

 俺の涙は、頬を伝う雫に混ざっていた。

 先ほどから影使いの能力者付近で作業をしていた二人組がゆっくりこちらに歩み寄る。

 双子の姉弟。よく見れば顔の各パーツが似ていることがわかるが、立ち振る舞いや性格などは、全く違う性質を持っていた。

 俺は二人の視線を浴びたくなくて、雨でぐちゃぐちゃになっている地面を見つめ続ける。

「吉祥叶真さん。僕たち処理班の任務は完了しました。異端能力者の能力消去及び能力者であったときの記憶の改ざんの完了を確認。対象は元の生活に問題なく復帰できます」

「周囲の破損箇所の修復と異端能力者のケガの応急処置も済ませたわ。あんた、まあまあ派手にやったわね。荷物はあっちに置きっ放しだったから持ってきておいたわよ」

「……」

 俺が沈黙を語ったからか、二人は顔を見合せたようだ。実際に見えてなくても、街灯に反射した影でわかる。さっさとどこかに行って欲しかった。

「ひとまず彼女は僕たちが本部に連れて行きます」

「あんたも、風邪ひかないように早く帰りなよ」

「……」

 泥を踏みしめる足音が遠のいていく。

 後に残ったのは、すべてを埋め尽くす雨音だけだった。


『ねぇ吉祥君、言いたいことがあるの……』

『大丈夫。犯人を捕まえたらゆっくり聞くよ』

『待って……。私ね、吉祥君のこと大好きだよ……。中学のころから一緒だったんだもん。吉祥君の優しいところとか、みんなを引っ張っていくところとか、凄くいいなあってずっと思ってた。吉祥君は私のこと好き?』

『ああ……俺も伊吹のことが好きだよ。俺だって、お前と一緒に、何気ない幸せを感じられて……嬉しいってそう思うよ』

『よかった……。そっか……』

『ダメだよ……伊吹。なんでここでお別れになるんだよ……。楽しい毎日を、お前ともっと過ごしたかったのに……勝手に一人で離れたところに行くなよ……』

『なら……もっと早く……告白すれば……よかったのかな……』


 最後にそうとだけ言い残して、伊吹は俺の腕の中で静かに息を引き取った。

 微かに残っていた生命の源を、微塵も感じられないほどに失わせて。

 さながら、事切れてしまった糸人形のようだった。

 これが、死。俺は初めて死を感じた。

 いくら待っても、伊吹が目を覚ますことはない。

 明日も学校に行く。放遊会として、また柊の馬鹿に付き合わされていく。

 そうやって、純粋に毎日を過ごしていくだけなのに。

 もはやそれは、過去の産物になってしまった。

 せめて、これは夢なんだって、仕組まれた冗談なんだって、放遊会一同してのドッキリなんだって、少し遅めのエイプリルフールなんだって、そうやって誰か笑ってくれたら。

 少なくとも、もう少し楽な気持ちでいられた。

 俺は溢れ出そうな涙を袖で押し込め、影使いの能力者の後を追いかけた。


「いや……続くよ」

 俺はこの闇を振り払う唯一の解法を見つけた。

「俺とお前の楽しい日々は続く」

 それが狂気とわかっていても、あいつとの約束を守りたかった。

「帰ろう。明日になったら、またあいつと登校するんだ……」

 そうさ――俺の中で、あいつは生き続ける。

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