いつもどおりに振る舞えたら

 今日は、ミケはお休みの日曜日。タマは仕事に出かける。

 ミケはタマが起きる1時間前に目を覚ました。


 顔を洗い、薄く化粧をして、キッチンに立つ。

 髪のセットはしない。タマが出かけたら、もう一度、夢の中へ戻る予定なのだ。

 1DKの部屋なので、物音をなるべく立てないように、静かに動く。

 炊飯器のスイッチを入れ、卵を焼く。昨夜下ごしらえをした唐揚げを揚げる。

 ミケがお休みの日に、タマが仕事に出かける日曜日の、いつもの朝だ。

 朝ごはんと、お弁当の用意ができたら、最後にお湯を沸かしてコーヒーを淹れる。


「おはよう。朝だよ。」

 ふたりのベッドの間に置いてあるローテーブルにコーヒーが入ったカップを置きながら、タマを起こす。

「おはよう。もう朝なのね。」

 タマがコーヒーを飲んでいる間に、ミケは朝食をテーブルの上に並べる。

 のんびりと食べている時間は無い。朝ごはんを食べ終わったら、タマが顔を洗っている間にミケは大急ぎで皿洗いを済ませて、洗面所をのぞきに行く。


「髪、やってあげる。」

 顔を出すと、タマもヘアアイロンを温めながらミケを待っている。メイクをして、目尻が上がった顔でタマが笑う。

「ありがとう。」

 ミケよりも少し暗い色の茶髪の根元が黒い。ずいぶん長いこと、美容室に行けてない気がする。

 張りのある長い髪にスタイリング剤をなじませて、まとめ上げる。

 タマはミケに髪を触られている間、気持ちよさそうに目を細めている。

「一日、崩れませんように。」

 ミケは、魔法をかけるような手つきでスプレーをかけた。

「崩れたこと、ないよ。」

「それは良かった。」

 ふたりは笑い合った。


 タマを見送ると、ミケは大あくびをした。

 何でもないふりをしていても、今は、やっぱり、とってもたいへんな時期。

 自分のベッドに倒れこんだ。

 ふたりが住んでいる地域でも、ついに陽性が出た。

 緊急事態宣言は全国に広がり、職場の感染症対策は、通常業務を圧迫している。

 タマの職場では、家庭のある女性職員が2人もやめてしまった。

 私の職場では、まだ、スタッフの数は減っていないけれど、規模が大きい分だけ、「密を避ける」ための仕事が増えた。

 シフトどおりに上がることは絶対にできなくなった。どんなに忙しく働いても、超過してしまう。仕事が終わるころにはくたくたに疲れていて、すぐに帰ってシャワーを浴びて眠ってしまいたいと思う。

 なのに、家に帰りつくと、なんだか頭がさわがしくて、床に座り込んでぼんやりテレビを眺めてしまう。早く休まなきゃ、そう思うあまり、お酒を飲む量が増えた。自炊をする気力が出なくて、濃い味付けの物ばかり欲しくなる。


「美容室に寄ってから帰ります。夜ご飯は食べません。」

 夕方、タマからメッセージが届いた。

 こんなときに、美容室?

 ミケの頭を疑問がよぎったけれど、ミケは何も言わなかった。疲れすぎているときは、なぜかまっすぐに帰れない心情を、ミケも経験しているから。

「連絡ありがとう。」

 と返信した。

 コンビニで買ったフルーツのお酒とカップラーメンで夜ご飯を済ませて、そのまま動かずに時間を過ごしているうちに、タマが帰ってきた。

 ミケは重い腰を上げて、玄関に急いだ。

「おかえりなさい……。」

 ミケは絶句した。

 タマが、長い髪をばっさり切ってしまっていたのだ。

「ただいま。」

「切っちゃったの。」

「うん。なんか、もう、どうしようもなくて。」

「そっか。」

 ミケがタマの髪をお手入れすることは、ふたりの楽しみだと思っていたミケのショックは並みのものではなかった。だけど、我慢して言った。

「うん。短いのも似合うね。」

「何だ、気に入らないのね。」

 タマはミケの前を通り過ぎた。

「そんなことない。ねえ、それより、お弁当どうだった。」

 話を変えようと、ミケは努めて明るく振る舞った。

 それが、タマをさらに怒らせた。

「お弁当なんて、食べる時間ないの!」

 ミケは、なおも笑顔を取り繕おうと、あふれ出る涙をそのままに、頬に力を入れた。

「わたし、疲れてるから、もう、寝ちゃうね。」


 シャワーを終えたタマは、冷蔵庫から取り出したビールをぐびぐびと飲んだ。

 缶をローテーブルに置いて、ベッドに腰かけると、向こうを向いて布団にくるまるミケの頼りない背中が目に入る。

 今日は自分を嫌いになる日だ。

 タマは深く落ち込んで、髪をぐしゃぐしゃにした。

 専門学校で、先生が言っていた。「資格を取るということは、責任が生じるということ。でも、同時に、制度に守られるということです。」

 今、私たちは守られているだろうか。

 一生懸命にお世話をしても、一度せき込んだだけで、「うつさないで」と言ったあの人の気持ちには寄り添えない。マスクとフェイスシールドで、ストレスを感じながらもいつも通りの対応を心掛けていたのに。

 相手の耳が遠いからと、「うるせえな」とつぶやいた自分の心は、悪魔に支配されていくのだろうか。


「ミケ。」

 呼びかけると、肩が少し動いた。

「ミケ、起きてるよね。」

 ミケの肩が、もう少し動いた。

「そっちに、行っていい?」

 返事はなかった。

 タマはミケのベッドのそばに歩み寄って、布団の上に手を置いた。

「うん。」

 ミケのかわいい声を聞いたタマは、ミケの眠る布団の中にもぐりこんだ。

 タマはミケの細い体を抱きしめた。そして、声を上げて泣き出した。

 ミケも、タマの方を向いて、一層痩せたタマの体を抱きしめた。

 天使のようなミケのやわらかい髪の毛、消えてしまいそうに細い腰にしがみついて、泣いた。

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