ノーアトゥーン宇宙駅経由、地球行き

深上鴻一:DISCORD文芸部

ノーアトゥーン宇宙駅経由、地球行き

#01

 どこまでも青い海、どこまでも白い砂浜。

 まばゆい太陽と、巨大な入道雲。

 熱い空気。潮の匂い。

 赤いビキニの上に白いローブをはおった白人女性が、砂浜の上に立っている。大きな麦わら帽子をかぶり、丸いサングラスをかけて、真っ赤な唇で口笛を吹いている。

 手をつないでいる痩せた少年が鼻をすすった。それで彼女は口笛を止めた。

「何が気に入らないって言うの?」

 握った手に力を込める。

「こんなに素敵なビーチじゃない」

 茶色のハーフパンツをはいた長めの金髪の少年は、青いビーチサンダルをはいた足の先で砂浜を掘った。

「だって、だって」

 少年は顔を上げて、緑色の濡れた瞳で青い空を睨んで言う。

「こんなのニセモノじゃないか」



#02

 どこまでも青い海、どこまでも白い砂浜。

 まばゆい太陽と、巨大な入道雲。

 熱い空気。潮の匂い。

 全裸で白いビーチベッドに寝ていた彼は、優しい呼び出し音で目を覚ました。しばらくぼーっとしていたが、立ち上がって身体に茶色のハーフパンツと白いローブを出現させる。そしてチャンネルを開いた。

「待たせたな」

 目の前の白い砂浜の上に、軍服を思わせる黒いスーツ姿の女性が現れた。赤いパイピングの入った上着は丈が長く、下は細身のスラックスだった。同じく黒い革靴を履いている。

「お休みのところ、起こして申し訳ないわね」

 驚くほど若く、驚くほど美しい女性だった。ウロボロス機構の金の紋章が付いた制帽の縁をつかみ、軽く持ち上げて挨拶する。

「ノーアトゥーン宇宙駅駅長のバエルナド・フォルトムトです」

 茶色い肌に、黄色い瞳。複雑に編んだ黒髪を両肩から、ふくよかな胸の前に垂らしている。

「ヒューン・タルジアだ。よろしく。美人だね。おっぱいも大きくて素敵だ」

 彼のその挨拶を、彼女はまともに聞いていなかった。関心は黒い尖った靴の先で砂浜を掘ることに向けられている。

「良くできてるプライベート・ビーチだわ。高いんでしょう?」

「正直に言えば、かなり。海の波、砂の飛び散り方、雲の発生具合に多くのリソースを使っている。体感温度と潮の香りにも。一緒に泳ぐかい?」

 美女は肩をすくめた。

「遠慮しとくわ。私にもプライベート・ビーチはあるし」

 彼は驚いた。この銀河系に、自分の誘いを断る女性がいるとは思わなかった。

「俺が誰だか知ってるよな? 音楽に興味が無くても、ニュースぐらいは見てるだろう?」

「あなたがあの有名なミュージシャン、ヒューン・“スターロード”・タルジアだとはもちろん知ってるわよ。うちの部下にあなたの熱狂的なファンがいて、仕事も手につかないようで迷惑してる」

「女性ならその反応は当然だと思うけどね」

「そうかしら?」

 美女は前に立てた左手の人差し指を、くるくると回転させて見せた。今まで見たことはなかったが、馬鹿にしているジェスチャーだと彼は感じた。

「私はあなたに、性的な興味はまったくない」

「へえ? もしかして糞同性愛者?」

「糞両性愛者です。あなたに魅力を感じないだけ」

「変わってるね。趣味が悪い。で、気持ち良く寝ていた俺を、叩き起こせるほどの要件ってなんだよ」

「そうそう、そうだった」

 彼女は優しい笑顔のまま、ゆっくりと要件を語り出した。

「あなたはこのシャトルに乗る前、ギターの検疫を拒否したわね。私の可愛い部下たちを怒鳴りつけて、ギターケースを開けさせなかった」

「当然だ。地球で作られた現存する7本のうちの1本なんだぞ。その価値もわからないマヌケどもに、指一本だってさわらせてたまるか」

 ふふん、と彼女は鼻で笑った。

「マヌケはどっち? シャトルに乗るすべてのものは検疫を受けねばならない。それが規則なのよ。もし、そのギターに有害なウイルスが付着していたらどうなる? 私は、私の管理する宇宙駅をすべての危険から守る義務があるの」

 その黄色い瞳が、サディスティックな色を帯びて煌めいた。

「シャトルの運行を乱す寸前だった業務威力妨害としての罰金と、検疫員たちへの謝罪金を払っていただきます。そして検疫にかけられなかったギターは没収、焼却処分とします。以上」

 彼は間抜けな顔をして立ち尽くした。彼女はもう一度、右手を制帽の縁に添えて言う。

「では。私の愛するノーアトゥーン宇宙駅まで、良い旅をお過ごしください」



#03

 シャトルの個室に備え付けられたユニットバスに彼はいた。洗面台に立ち、蛇口から流れる水で手を冷やしている。水はぬるく、ボタンを押してもすぐに止まるのが腹立たしい。

 彼はバーチャル空間である小箱組織から外に出ていた。ニセモノのギターを弾くのも、ニセモノの酒を飲むのも、ニセモノのセックスをするのもうんざりだったからだ。

 ユニットバスを出て、ベッドに座る。味は最悪だがウイスキーも買えた。彼はそれをロックにして、紙コップで飲んだ。

 子供時代の部屋よりも、この個室は狭苦しい。たぶんストレスに耐えきれず、結局、小箱組織に接続してしまうだろう。宇宙駅に到着するまで、ゲートを利用してもまだ4週間もあるのだ。

 ノーアトゥーン宇宙駅経由、地球行き。

 それが彼の購入したチケットだった。地球に行くにはノーアトゥーン宇宙駅を経由するしかない。

 小型シャトルにそこで乗り換えて、ゲートをくぐって地球の小型ステーションへと向かう。地球に軌道エレベーターはないので、地表と往復できる人数は極めて限られていた。そして重量制限もあった。私物で許されるのはひとり当たり5キロまで。

 彼は大きく紙コップを傾けた。転がって口に入ってきた氷を、奥歯で噛み砕く。空になった紙コップを、壁に投げつけた。

 彼の今回の旅の目的は、地球で曲を作ることだった。彼の愛用のストラトキャスターは約3.5キロ。つまり地球に持って行くことができるのだ。地球製のギターだし、地球への作曲旅行にはぴったりだと彼は思っていた。これを握って地球の砂浜に立てば、きっと名曲が生まれるだろう。青い空と青い海が、素晴らしいインスピレーションを与えてくれるだろう。もうウイルスのために誰も住んでいない、母なる星が。

 それなのに! あのギターを燃やしてしまうだって? 糞アマ! 裁判だ! クビにして路頭に迷わせてやるからな!

 酔いと怒りのせいで熱くなった顔を洗おうと、再びユニットバスに入った。ボタンを押しても水は出ない。ボタンを連打する。それでやっと細い水が出た。

 今のところの最後のアルバムを発表したとき以来に、彼は腹を立てていた。喝采を持って迎えられるはずだったのに、伝説になるどころか家賃代にさえならなかった10曲。

「なあ、ヒューン」

 彼のマネージャー兼プロデューサーのゴルチアは言った。

「昔のキャッチーな路線に戻すんだ。歌詞も明るい青春時代の恋愛ものに。誰が中年男性の元妻たちへの恨み辛みなんて聴きたがると思う?」

 それで彼はゴルチアを殴った。そして一切の連絡ができないようにした。

 濡れた顔を上げる。顔からぽたぽたと水滴が落ちる。タオルに手は伸ばせなかった。そのままの姿勢で彼は固まっていた。

 鏡に女が写っている。背後の壁に背を預けて、女は腕組みをして立っている。

「まったく。あんたは身体は大きくなったけど、中身はちっちゃな子供のままなんだから」

「うるさい。消えろ」

 Tシャツにジーンズ姿の女は、短く口笛を吹いた。彼は鏡越しに睨む。

「母親にその口の効き方はなに? 誰のおっぱい吸って大きくなったと思ってるの? サリー? メルチナ? それともハンザ?」

「黙れ。俺はお前なんか怖くない」

 ははっ、と彼女は笑った。

「あんな淫売たちが、あんたのお世話をできる訳がないのよ。離婚して正解。あんたを本当に愛しているのはママだけ。ママだけ。ママだけ」

 彼は目を閉じた。女の声はいっそう大きくなる。

「ママだけ、ママだけ、ママ、ママ、ママ」

「止めろ!」

 大声で叫び振り返ると、そこには誰もいなかった。



#04

 4週間後、シャトルはノーアトゥーン宇宙駅にドッキングした。惑星ニョルズの赤道上に立つ宇宙エレベーターの静止軌道に、この巨大な宇宙駅は浮かんでいる。

 ヒューンは荷物の受け取り所で、本当にギターケースがないことに驚愕した。宇宙駅に何度チャンネルを繋いでも、バエルナド駅長に取り次いではくれなかった。これは悪趣味なお仕置きで、ギターは返されるものだと思っていた。第一、小娘にそんなだいそれたことができるわけがない、そう思っていた。

 彼は暴れた。そして駅員に取り押さえられた。バエルナド駅長に彼が面会できたのは、本来なら優雅なディナーの後に、手頃な女性とラウンジで酒を乾杯しているぐらいの時間だった。

 駅長は自分で椅子を持って来て小さな独房の前に置き、優雅に足を組んで腰掛けた。

「私の愛する駅で、暴力は良くないわね。しかも私の可愛い部下相手に」

 冷たい床に座り壁に寄りかかっていた彼は、今では立ち上がり鉄格子を両手で握っている。

「糞食らえだ。俺のギターはどうした? まさか本当に燃やしたんじゃないだろうな! あれの価値、わかってるんだよな? 地球遺産のひとつだぞ。もう作ることはできないんだぞ。あれはただの楽器じゃないんだ!」

「ただの『死んだ木』よ。私にとっては」

 彼はその言葉に、あんぐりと口を開けた。そして、ゆっくりと首を振る。

「あんた、カート・コバーンを知ってるのか」

「まあ、少し」

 まだ人類が宇宙に進出する前、地球で人気があったバンド『ニルヴァーナ』のギター兼ボーカリストのカート・コバーンは、「あなたにとってギターとは何ですか?」というインタビューに『死んだ木』とこたえている。1994年4月5日、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺。

「だったら、あんたにもギターの価値がわかるだろ? あれを燃やすなんて、音楽に対する冒涜だぞ!」

「ジミ・ヘンドリックスだって燃やしてるわよ。たいしたことじゃないわ」

「おいおい、おいおい」

 彼は鉄格子から手を離して、狭い独房の中をぐるぐると回った。ジミ・ヘンドリックスとは地球時代にナンバーワンと言われた伝説の天才ギタリストだ。1970年9月18日に睡眠中の嘔吐で窒息死。酒と睡眠薬の飲み過ぎだった。

「冗談だろ? カートにジミ? そんな名前を知っている人間なんて、今ではごくわずかだぞ」

 歩いている彼の姿を、面白そうに彼女は見つめていた。

「みんな歴史に埋もれてしまったわね」

「ああ、どれも最高級の地球遺産なのに」

 彼はもう一度鉄格子をつかみ、その隙間から顔を出した。

「なあ、本当のことを言ってくれよ。今なら許す。燃やしたのか、燃やしてないのか」

「良く燃えたわ」

「糞! どうしてだ? お前には音楽がわかるはずだ! あのギターにどんな価値があるかわかってたはずだ!」

「わかってなかったのは、あなた」

 彼女も立ちあがった。

「ノーアトゥーン宇宙駅駅長、そしてこの銀河系を支配するウロボロス機構の一員として、私はあなたに最悪の処罰をくだす必要があった。今後、検疫を拒否する馬鹿が二度と現れないように」

 彼は呻いた。

「弁護士を呼ばせてくれよ」

「必要ない。あなたの弁護士はもう決定している。身元引受人であるゴルチア・シャオシン氏が選任した人物よ」

 そうなるだろうとは、すでに予想していた。

「あなたのご両親はお亡くなりになってるし、三人の元妻も引き受けを拒否した。あなたが所属するレコード会社に連絡するしかなかった。シャオシン氏から聞いたわ。あなた、彼を殴ったんですって? 暴力が好きなの?」

 うつむき、床を睨んだまま彼は言う。

「うるさいぞ、淫売」

「到着するのは4週間後。シャオシン氏は、引き渡しまでこの宇宙駅でおとなしく待つのなら通報はしないと言っている」

 ゴルチアは、このひとり旅を見逃してくれていた。やろうと思えばいつだって銀河警察に通報できたのだ。

「もっともそれは民事のことなので、我々ウロボロス機構には何の関係もない。1週間後の地球行きシャトルが発進するまで、この宇宙駅でおとなしく過ごすと約束するなら、明日の朝には釈放してもいい。どうする?」

 もしここで諦めたら、もう二度と母なる星に降り立つチャンスはないだろう。レコード会社の監視が、それを許すはずがない。

 ゴルチアと弁護士のチャンネルは1週間無視することに彼は決めた。緑色の濡れた瞳で彼女を睨みつける。

「ギターの件は、必ず後悔させてやるからな。覚えておけよ、糞両性愛者」

 彼女は右手の親指を鼻に当てて、指をひらひらと動かした。

「それはそれは。楽しみにしてるわね」

 明らかに馬鹿にしているジェスチャーだった。



#05

 どこまでも青い海、どこまでも白い砂浜。

 まばゆい太陽と、巨大な入道雲。

 熱い空気。潮の匂い。

 彼は砂浜に立った赤い椅子に座り、ギターを弾いていた。だが立ち上がり、ギターを海に放り投げた。水しぶきが上がる。

 彼は小箱組織から外に出た。

「もういいの?」

 ベッドに寝ていた全裸の女、ミハルが言う。彼はベッドに戻った。女が抱きついてきた。

「こんなに荒々しいセックスは初めて。ねえ、小箱組織の中でもやろうよ。今度はもっとゆっくりとさ」

「悪い、パス。今日はもう小箱組織の中に入りたくない」

「へーえ」

 彼女は事務駅員、つまりバエルナドの部下だった。彼がノーアトゥーン宇宙駅に到着し拘留されたことを知っていて、拘留所から出てくる彼を追いかけてきたのだ。ふたりは一番近くにあったホテルにチェックインし、すぐにセックスに及んでいた。

「インタビューで見たけど、やっぱり小箱組織の中と外では、そんなにギターの音は違うもの?」

「違う。まったく違う」

「そんなこと言うミュージシャンはスターロードだけだよ。凄いね、さすが銀河一のギタリストだ」

「ありがとう」

 彼女は手を伸ばして、彼の性器を握った。

「前に友達が冗談で、私の全チャンネルをこっそり切断したことがあってさ」

 ぞくり、と彼の背中を冷たいものが走った。 

「ここが中か外かわかんなくなって、パニクったよ。それでどうしたと思う? 私、コップの水をこぼしたんだ。すると処理落ちして、ここが中だってわかったの。聞いてる?」

 聞いている。だが、その声がどこから聞こえてくるのかわからなくなっていた。汗が出た。めまいがした。身体が震えた。

 ママ、ママ。ここはどこ? 中なの? 外なの? まだ本当に中なの? ここは外じゃないよね?

「でもさあ、例えばだよ。もし将来、処理落ちしないだけのリソースが確保できたらどうなるんだろうね? 小箱組織の中にまた小箱組織、タマネギの皮みたいに何重にもなったら、あなただってーー」

「黙れ!」

 彼は叫んでいた。そして馬乗りになって、両手で女の顔を連続で殴った。

「黙れ! 黙れ! この淫売め! 俺にはわかる! わかるんだ!」

 女は悲鳴をあげている。彼の下でばたばたと暴れている。性器に爪を立てて、彼がひるんだところをやっと跳ね飛ばした。

「クソ! クソ! 最低! あんたの大ファンだったのに! マスコミの言う通り、女の扱いは最低だね! 必ず訴えてやるから!」

 彼女は服の山を掴むと、それを胸の前に抱えた。

「あんたとのセックスは最低だった! あんなの、ただの強姦だ!」

 女は部屋を出て行ったが、まだ彼の身体は震えていた。自分で自分の身体を抱きしめる。ぐえっという声と共に、酒と朝食を床にぶちまけた。

「可哀想に」

 ベッドの背後に座っている女が言った。

「あんな淫売、本当に殺しちゃえば良かったのに」



# 06

 翌日の昼過ぎ。

 ホテルを出た彼は、中央区画行きのリフトに乗った。ホテルがあった外周区画は宇宙駅の自転によって遠心力が働いているが、中央に向かうほどその力は弱くなる。だから中央区画は、シャトルの発着デッキが並ぶエリアだった。

 そのデッキ群の真ん中に、ウロボロス機構記念公園はある。主に観光客のために作られた無重力の球形エリアで、惑星ニョルズを真正面から眺めることができる。地球の北欧神話、豊饒の神の名を持つ星。

 彼は入り口でガス銃を借り、公園の中をゆっくりと進む。一面のガラスの向こうには、細い細いチューブが真っ直ぐに伸びていた。すぐに宇宙の闇の中に消えて見えなくなるが、それは約3万6千キロ伸びて緑の惑星ニョルズへと繋がっているのだ。

 自分の尾を咥える蛇、ウロボロス像の前で、彼はガス銃を数度使って勢いを止めた。近くにあったカラビナにロープをつなぐ。時計を見ると、約束の時間より20分も早かった。石像の解説チャンネルを開いて待つことにする。

 だいたい学校で習った通りだった。ウロボロス機構はゲート技術を発見した。そして空間に穴を開けては探査プローブを送り込んだ。パンデミックで地球を失い月に逃げ延びていた人類のために、やっと植民可能な惑星ニョルズを探し当てた。

 ウロボロス機構の偉大さを謳い始めたところで、チャンネルに呼び出しが入った。見ると顔が大きく腫れているものの、昨日の女、ミハルだった。裁判のことだろうかと思い、厄介に思いながらも出ることにした。

「何だ?」

「今晩、また会いたいの」

 小声で早口で、媚びた所はない。

「俺を訴えるとか言ってたよな」

「そんなのもう、どうでもいい」

「へえ?」

「お願い。聞いて欲しいことがある」

「いま話せよ」

「だめ。お願い」

「これから、ギターを持っているという男に会う約束をしてるんだ」

「こちらもギターに関わる話なの」

「ふーん?」

「仕事が終わったらすぐに行く。20時30分に、あなたの部屋で。じゃあ」

 チャンネルは一方的に切れてしまった。



#07

 彼は匿名で、ギター求むという広告をノーアトゥーン宇宙駅内のチャンネルに貼り付けていた。

 それに連絡してきた男に会うと、すぐに正体がばれた。彼の大ファンだと言い、感激していた。家にあるから現物を見ながらゆっくり商談しましょうと男は誘った。

 同意した彼は、外周区画にある家が雑多に積み重なるエリアに来た。そしてマンションの一室に入ると、そのリビングはめちゃくちゃに荒らされていた。

 男は青ざめた顔で、耳を澄ます。

「ちくしょう、地下にまだいる」

 男はチャンネルで通報すると、近くにあったゴルフクラブを握った。

「スターロードは避難してください」

「ここで待つ。すぐに構内警察が来るから。俺もゴルフクラブ借りるぞ」

 そして男は地下に下りて行った。すぐに格闘の音が聞こえた。それが止まると、彼を呼ぶ声がした。

「捕まえた! 手伝ってくれ!」

 彼も地下へ下りた。床に倒れている人物がいた。彼にギターを譲ると言った男だった。

 しまった、と思ったがもう遅い。顔にいきなりスプレーを吹き付けられた。

 おかしいな、声を聞き分けられなかったなんて、と彼は思った。

 倒れた彼は、すぐに気を失った。



# 08

 目を覚ますと、病室だと思われる白い部屋にいた。簡素なベッドに寝かされていた。頭がずきずきする。

「大丈夫? ひどい目に会ったわね」

 ベッド横の椅子に女が座っていた。大きな包丁でリンゴの皮を剥いている。

「やめろ」

 彼は言う。

 女は口笛を長めに吹いた。

「やめろですって? あなたのためにわざわざお見舞いに来たのに。他の女たちはどこ? やっぱり本当に愛してるのは私だけじゃない」

 やめろ、やめてくれ。彼はこの後どうなるか知っている。

「でも、あなたがいるここは小箱組織の中なのよ。頭がずきずきするのは脳の錯覚。痛みなんて嘘なの。ほら!」

 女は包丁を、自分の首に突き立てた。ぷしゅーっと吹き出る鮮血が彼の顔にかかる。白いベッドを赤く染める。

「痛くない痛くない。ここは小箱組織の中なんだから」

 女の顔が急速に青くなって行く。咳をすると口の端から血が垂れた。

「さあ、あなたもやってごらん。痛くない、痛くない。ママが手伝ってあげようか?」

 あああ! あああ!

 女はぎろりと血走った目で彼を睨んだ。首に刺さった包丁を抜き、振り上げる。叫ぶ。

「一緒に死にましょう!」

 彼は悲鳴をあげた。そして二回目の目を覚ました。



#09

「大丈夫よ。何も怖くない。誰もあなたを傷つけられない。力を抜いて」

 彼は涙を流し、荒い息を吐いている。その彼を病室のベッドの上で、バエルナド駅長が抱きしめている。

「ちくしょう、ちくしょう、もううんざりだ、いやだ、つらすぎる」

「そうね、当然だわ。あんな体験をしたんですもの」

 長い間、彼女は彼を両手で包み、その肌をこすっていた。背中をこすり、腕をこすった。その熱が彼のこわばった身体と心を温めた。抱きしめて頭を優しく撫で、頬を両手で挟んだ。

 彼の濡れた緑の瞳を、真正面から見つめて言う。

「落ち着いた?」

 彼は頷いた。

 彼の左横に彼女は腰掛けた。彼の頭は彼女の右肩に乗っている。彼女は右手で彼の肩を抱いている。

「あなたのことを調べさせてもらった。母親から虐待を受けて育ったのね。精神的に問題があった母親はあなたを小箱組織に閉じ込め、チャンネルを切断した。小箱組織を何重にも作成した。子供だったあなたは、何が現実なのかまったくわからなくなった。母親はあなたの前で自殺した」

 彼はぽつりと言った。

「ギターをくれよ」

「ギターがあれば、あなたはここが小箱組織の中なのか外なのかすぐわかる。極めて特殊な症例だわ」

「なくても日常は送れるようになった。小箱組織に入ることもできる。だが時々、ギターを弾いて確かめないと怖くなる」

「ごめんなさい。ギターはノーアトゥーン宇宙駅にはもう1本もない」

 それで彼は、彼女から身体を離した。

「ギターは壊されたのか?」

「まだ犯人は捕まえてないけど、時間の問題だと思ってる。恐らく怨恨」

「俺のファンは無事か?」

 彼女は微笑んだ。

「優しいのね。まだガスのせいで寝てるけど、命に別状はない」

 彼は立ち上がった。

「ちくしょう、ちくしょう。結局、地球にギターは持っていけないのか」

「キャンセルする?」

「たぶんな」

 ギターがなければ、地球で作曲はできない。ギター、ギター。彼は突然に思い出した。ギターに関わる問題。ミハル。腕時計を見ると、とっくに20時30分は過ぎていた。

「帰りたい」

「無理よ」

「送ってくれ」

「お医者様が許さないの。そして私が」

 彼女が、彼の身体をベッドに横にした。そして先ほどとは違う意味で抱き締めた。

「あなたは寝ているだけでいい。スローセックスの素晴らしさを教えてあげる」 



# 10

 目が覚めると、バエルナドはいなかった。彼は服を着て外に出た。廊下を真っ直ぐに歩いて行くと駅員とすれ違うようになった。さらに進むとオフィスや乗客窓口へ通じる十字路に出た。

 彼は乗客窓口に向かった。ミハルに会い、ギターに関わる問題というのを聞こうと思ったのだ。

 カウンターで女性事務駅員に声をかける。

「美人さん、ミハルってお仲間を呼んでくれ」

 彼女の顔が険しくなった。彼を睨む。その目に涙が滲んだ。首をゆっくりと横に振る。

「反省している」

 自分でも驚くほど素直に言葉が出た。

「彼女の怪我の理由、知っているんだろう? 心から謝りたいと思ってる。お願いだ、呼んでくれ」

 彼女は人差し指を立て、天井を差した。

「上の階か? ありがとう」

 彼女の横にいた男性事務駅員が、小さな声で言った。

「上の上、最上階だよ。あんたも行ってみるといい」

「やめて」

 彼女は言う。だが男性は言葉を続けた。

「自殺したんだよ。あんたのせいで」

「何だって?」

 彼はめまいがして、よろめいた。

「構内警察があんたに事情聴取をするはずだ」

 別な男性事務駅員がやってきて、彼に蓋付きのタンブラーを突きつけた。彼の写真がプリントされているファングッズだった。ボタンを押すと曲も流れる仕様だ。

「彼女の私物はすべて構内警察が持って行った。これは俺が預かっていた品物だ。あんたがやってきたら、突き返してくれと昨日、帰る時に言ってた」

 女性事務駅員が言う。

「いつか直筆サインを書いて貰うんだって笑ってたのに。これを持ってさっさと消えるんだよ、スターロード」



#11

 彼を含めた6人を載せた着陸カプセルは、時速4万キロで大気圏に突入した。大型パラシュートを1回、2回目は小型パラシュートを3つ開いて減速し、時速30キロで北太平洋に着水する。これから船が迎えに来て回収してくれる手筈になっている。

「あなたの新曲、楽しみにしてるわ」

 彼がノーアトゥーン宇宙駅を出発するとき、バエルナドは見送りに来てくれた。そして情熱的なキスをしてくれた。

 地球行き小型シャトルの中では、すぐに小箱組織でブリーフィングが行われた。地球はウイルスに汚染された星で、野生動物などの危険も多い。行動できる範囲はきわめて限られていた。講習は地球軌道上に浮かぶ小型ステーションにドッキングするまで、毎日行われた。

 着水後、北太平洋で8時間、彼らは波に揺られた。それから嵐の夜の中で回収され、4日かけてアメリカ西海岸ティフアナに入港した。彼は申請した通りにビーチに向かった。そこで4日間ひとりで過ごすことになっている。

 彼は食料と水を詰めたリュックを背負って、ビーチ近くまできた。手には自分のサインを入れたタンブラーを持っている。ミハルのものだ。

 彼がホテルで蓋を開けると、中には小さなデータディスクが入っていた。開くと文書ファイルがひとつ保存されていた。プロテクトがかかっていたが、彼女が一番好きだった彼の曲のタイトルで開いた。

 ベッドの中で彼女は言っていた。

「私の世界への扉を開けたのは、あなたのあの名曲なの」

 もうすぐ海岸だった。緑の高台から青い海と白い砂浜が見えた。

「スターロード、よく聞いて欲しい。そしてできるなら確かめて欲しい。残念ながらギターは持って行けないだろうけど」

 海岸にたどり着いた。彼はリュックを下ろした。

「地球はもう失われているのだと思う。ウロボロス機構が実験に失敗し、ゲートの中に吸い込まれてしまった。あなたが行く地球はニセモノ。それは小箱組織の中に、膨大なリソースを使って作られたニセモノだと思う。断言はできないけれど」

 彼は砂浜にタンブラーを立てた。せめてもの供養に持って来たのだった。

「だからあなたはギターを持って行けない。ウロボロス機構が隠している秘密を暴いてしまうから。あなたが地球でギターを弾けば、きっとニセモノだとわかってしまうから」

 彼は靴の先で白い砂を蹴った。砂が散らばった。しゃがみ込み、両手で砂をすくった。さらさらした乾いた熱い砂が、指の間からこぼれた。

「私は怖い。殺されるかも知れない。すべての背後にいるのはバエルナド・フォルトムト。ノーアトゥーン宇宙駅、駅長。好奇心を出すんじゃなかった。あのチャンネルに侵入するんじゃなかった」

 彼は砂をすくうのをやめて立ち上がり、景色を眺めた。涙が溢れてきた。彼はそれを拭わない。立ち尽くす。

「何が気に入らないって言うの?」

 彼の手を強く握って女が言う。

「こんなに素敵なビーチじゃない」

 どこまでも青い海、どこまでも白い砂浜。

 まばゆい太陽と、巨大な入道雲。

 熱い空気。潮の匂い。

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