第5話 駅前にて

 少し冷たい風が、薄い夜霧をやさしく吹き抜ける。それが熱した季節には心地よかった。

「・・・」

 世界は何も変わっていないはずなのに、僕はなんだか世界が変わったような気がしていた。正直嬉しかった。素直に嬉しかった。僕の人生の中で、誰かに何かに誘われることなんてほとんどなかった。そして、バンドは僕の夢だった。

 何が何やら分からないまま、しかし、それでも、僕は戸惑いながら心の深いところに何か温かい喜びを感じていた。そして、確たる何かがあるわけでもないのに、何かが変わる、変われる予感を感じていた。自分の未来が切り開かれていくような、そんな明るい光りの広がりを感じていた。

 引きこもりで友達のいない僕にバンドなんて、果てしない遥か彼方の夢どころか、幻でしかなかった。いや、絶対ありえないファンタジーの世界だった。

「・・・」

 しかし、それがなんか知らんが突然、その夢が叶った。これを夢が叶ったと言っていいのか分からなかったが・・。でも、やはり正直うれしかった。一緒にやるのが、訳の分からん外人だったが、それでもやっぱり嬉しかった。本当に訳は分からなかったが・・・。

「・・・」

 僕とジェフは夜の駅前に立っていた。というか、突っ立っていた。

「ねえ、やめようよ」

 僕はすでに駅前の人混みに怯えていた。ただでさえ僕は引きこもり。人が怖い。特に人混み。

 しかし、ジェフは微笑みながら、なんだか楽しそうに人の流れる光景を見つめている。

「ねえ」

 僕が執拗に声をかけるが、ジェフはまったく聞く耳を持っていない。

「よしっ、やるぞ」

 ジェフは言った。

「ほんとにやるの」

「当たり前だのクラッカー」

 ジェフは駅前の広場の中央にある噴水の縁の上に立った。

「なんでそんな言葉知ってんだよ」

 ジェフは外人の癖に、なぜか妙な日本語を知っている。

「ところでジェフ、君は人前で歌ったことあるの」

「ない」

 ジェフは自信満々に断言した。

「・・・」

 僕の不安はますます増していく。昨日、ジェフが突然、駅前で歌うと言い出した時に、止めておくべきだった。僕は思いっきり後悔した。しかし、後悔先に立たず・・。目の前に立つジェフはやる気満々の満々に、目をランランと輝かせている。

「・・・」

 僕は、重い手さばきで、安物のアコーステックギターをギターケースから取り出した。中学生の時、まだエレキギターを買えなくて、確かリサイクルショップで三千円くらいで買ったやつだ。買った当初すでにボロボロで廃棄物寸前だったが、その後の、ギター熱に燃えていた若かりし僕の猛練習でさらにボロボロになっていた。

 パチンッ

 僕がギターを構えると、ジェフが指を鳴らした。それを合図に、昨日即席で練習したベン・E・キングのスタンドバイミーの最初のコード進行を押さえ、恐る恐る右手指先に持ったピックを六本並んだ弦に振り下ろした。

 ジャラ~ン

 想像以上に、アコースティックギターの音は広場に響いた。そして、最初の音と同時に、当然だが広場を行きかう人たちが一斉にこちらを見た。

「わわっ」

 自分で目立つことをしておきながら、いざ目立つとビビるという情けない反応をし、僕は目を伏せた。緊張し、指が硬直して簡単なコード進行に指が追いつかない。何とも情けない音の、が鳴りが平和な噴水広場の平安を壊すように流れる。

「早く帰りたい」

 僕は心の底から思った。またあの安全で、僕のことを傷つける何の敵もいないぬくぬくとした部屋に引きこもり、また、辛い現実から逃げて逃げて逃げて、とりあえずの安穏に浸りたい。

 その時、前奏の終わった僕の酷いギターに合わせ、ジェフが歌い出した。

「!」

 僕は思わずジェフを見た。その声は、かすれただみ声であったが、なぜかその中に妙な清涼感と心地よい揺らぎがあった。そして、腹の底から出る圧倒的声量の音圧が、駅前のだだっ広い空間に、迫力をもって力強く響いた。

「・・・」

 それは何か別次元のエネルギーと光に溢れていた。

「・・・」

 僕はその声量と歌声に何か人と違う力を感じた。それは歌が上手いとか美しいとかそういったものとは違う、人を惹きつけるもっと深い何かだった。

 その歌声に通行人の中にも、少し立ち止まり、見入る人もいた。僕も、思わずジェフの歌に聞き入った。

 しかし、歌い出した瞬間こそ、驚き振り返った人々も、すぐに顔を背け足早に去って行った。そして、現代社会の冷たさが、その場を支配した。いわゆる無視という奴だ。

 しかし、僕は逆に安心した。それほど関心を持たれない。ただ危ない奴らと思われているだけなのかもしれないが、こちらを無視してくれるのは、僕にはありがたかった。僕は少し落ち着いてギターを弾けるようになった。

「ん?」 

 その時、ふと視線を感じ、僕は顔を上げた。見ると、閑古鳥が鳴くような寒々しい空気を、自分たちの局所的周囲に発している痛々しい僕らを、少し離れた植込みの端に座り込み、いつからか真正面からじっと見つめている女の子がいた。その子は、何が楽しいのか、完全に周囲から浮き上がっている僕らを、じっとその丸い目で見つめている。

「・・・」

 なぜ僕らを見る・・。その少女は全く立ち去る気配すらなく、その場に根が生えたが如くしゃがみ込んでいる。

「くそっ、見るなよ」

 僕は自ら人から見られるようなことをしながら、心の中でキレた。

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