第29話 その時、猫は夜の戦場を舞った
その夜、札幌に佇む一棟の廃ビルで、骨の軋む音共に鮮血が飛び交っていた。
「マジ……かよ?」
体に羽織ったブレザーをギュッと握り、
一方で、その縮こまった彼女の隣で立ち尽くしていた紅音はというと、何故か誇らしげな表情を浮かべていた。
「流石は我が盟友の一人、この程度の雑魚など相手にはならんか」
「何でお前がデカい顔して言ってんだよ……」
真逆の反応を浮かべる二人。
彼女達の眼に映っていたのは、普通ならドラマや映画でしか見た事のないような地獄絵図だった。
ほんの1メートル先に、口と鼻から血を流し、白目を剥きながら倒れている男が居る。
更にその先には、同じような状態で床に臥している男達が、十人以上散在していた。
その
「アイツ、一体何者なんだ……?」
震えた声に乗せられた疑問に、紅音は「何をぬかしている」と応えた後。
「奴は私の……――いや、我々の大事な盟友、ブラックキャットだろう」
そう言って、戦場という舞台を駆ける一匹の黒猫の姿を、その眼の奥に焼き付けた。
――14……。
対峙した鼠が気を失うと同時、猫丸の脳内にカウントが新しく刻み込まれる。
殺してはいない。ここで彼等の喉を縊るのは簡単だが、それだと祭に殺人の瞬間を見せてしまう事になる。
たとえ殺したとしても、彼女にあるその瞬間の記憶を消してしまえば済む話だが、出来れば
――まったく、殺さない程度に加減してやってるんだから、感謝して欲しいものなんだが……。
叶わぬ願いを胸にしまい、猫丸は今夜も見えない努力に励んでいく。
バタッという音が側に聞こえると、今度は鉄パイプを握り締めた男が前から走り掛かって来た。
「うおォォォォォ‼」
咆哮を続けながら死にに来る憐れな鼠。猫丸はその姿を認知すると、瞬く間に鼠の目と鼻の先まで距離を詰め、鉄パイプを握った両手を左手で掴んだ後、空いた右手で敵の顎を殴り飛ばす。
目の前の鼠が綺麗な弧を描きながら宙を舞ったその直後、背後からもう一匹の鼠が鉄パイプを振り下ろしてきた。
だが、その軌跡に猫丸の姿はなく、既に知っていたかのように余裕で躱した猫丸は、その鉄パイプを踏むや否や、腕を旋回させ、拳で鼠の頰を殴りつける。
――15、16……。
更にカウントが刻まれる。
鼻血を出し、吐血を散らしながら、男が
「な、何をやってるのアンタ達!早く、早くあの男を潰しなさい‼」
小刻みに振動を繰り返す指で猫丸を差し、悲鳴の混ざった声で命令を叫んだ。
が、その惨状を眼にしていたのは彼女だけではない。
既に半分以上の仲間がやられたという現実に、亜実の周りに居た男達も震えながら後退りする中。
一人の大柄な男が前に出た。
「
「俺が行きます。
曇り掛かった亜実の表情が、一気に光を取り戻していく。
その小野という名の男が近付いてきた時、猫丸の眼光も徐々に鋭さを増していった。
――デカいな……。
身長だけではない。男と女という壁を象徴するかのように、体重や筋肉も祭のそれとは比べ物にならないことを、その体躯が教えていた。
「小野さん!やっちまってください!」
「そんな奴、小野さんなら一捻りッスよ!」
奥に潜む他の男達が声援を送っている。
否、向こうだけではない。
「ブラックキャット!征けェェェェェ‼」
「が、頑張れ……!黒木‼」
こちらにだって、仲間は居るのだから。
互いの距離が縮まり、とうとう互いの拳が届く間合いまで接近した後、二人は互いに目を合わせる。
「済まねぇな。うちの頭が、そっちのもんに手ぇ出しちまって」
「謝罪なら鬼頭に言ってくれ。というか、謝る気があるということは、俺達が来なくてもお前が止めてくれたのか?」
「……いや、無理だな。あの人に逆らうのは怖ぇから」
「そうか……」
軽く話を交えた後、小野は拳を構えた。
重心を低くし、左右の足を前後に置くと。
「それじゃ、そろそろ行くぞ」
「ああ、いつでも来い」
奥の方にあった右足で、空気を切り裂くような廻し蹴りをしてきた。
素早くしゃがみ込み、紙一重で躱す猫丸。
勢いのあまり、目の前の鼠が背を向けていたので、瞬時に攻撃へ移行しようとしたその時、今度は左足を蹴り上げてきた。
踵が顎を直撃しようとする時、すんでのところで猫丸が一歩下がり、何とか掠める程度に治まる。
「やるな」
「…………」
手応えならぬ足応えが無かった事に感銘を受け、小野が目の前の敵を褒める一方、猫丸も密かに目の前の鼠を称賛していた。
――この男、そこらに転がっているただの鼠とは違う……。
武術でも噛んでいるのか。どんな遭遇の形といえ、表社会にもちゃんとした戦闘訓練を受けている者が存在するという事実に、猫丸の関心は増幅するばかり。
成程、世の中にはこんな鼠も居るのか。
と、そんな事を考えていた頃、
「オイ、小野さんがあの化物相手してる間に、あの女共ふんだくんぞ」
「お、おう!」
他の男達の陰に隠れていた二人組が、紅音と祭に近付いていった。
気配に勘付き、紅音が猫丸からその二人の方に視線を移すと。
「何だ貴様等!我々と殺り合う気か⁉」
咄嗟に祭を守る体制へと移り変わり、空気を読まずに叫び上げた。
慌てふためく男達。当然、猫丸も二人の存在に気付いており、小野の相手を一旦辞め、先にその二人を潰そうかと考えた矢先、
――……待てよ?
その選択肢はすぐに投棄した。
そうだ、今この場に居て戦えるのは自分だけではない。
あの
良い機会だ。今ここで、あの伝説の殺し屋の動きを見る事が出来る。
更に言えば、
こんなチャンスは滅多に訪れないだろう。
先程、祭には殺すところを見て欲しくないと述べていたが、こうなってしまえば話は別。
記憶を消す処置も致し方ない。
猫丸は自分が手助けに行けない事を演出する為、小野の流れるように繰り出される拳をギリギリで躱す演技をしながら紅音達の方を一瞥する。
その頃、怯える祭を背に、紅音は何やら不敵な笑みを浮かべ、
「フフフ、愚かな奴等よ。この私と一戦を交えようとするとはな。いいだろう、望み通り、このレッドドラゴンの
そう言って、右の袖口を捲り、腕に巻かれた包帯を解こうとした――その瞬間だった。
「!!??」
「オイ、どうした?さっきから全然攻撃してこねぇじゃねぇか。もっと楽しもう……――ゼェッ⁉」
拳を振り翳そうとした小野の顔に、猫丸は空気を切り裂く――否、切り裂かれたことに空気が気付けないくらいのスピードで一撃をお見舞いする。
完全に意識が飛び、小野が白目を剥いたまま膝を突いた――その一秒後。今度は紅音達に近付いていた二人組を、突風の如く強烈な廻し蹴りで共に遠くの壁までブッ飛ばした。
「な、なんですって……⁉」
「小野さんが……やられちまった!」
「ううう、嘘だろ⁉小野さんは空手の有段者だぞ!それを一瞬で……」
主戦力が倒れるという事態に、亜実側の陣営が揃って焦り、慌てふためく中。
「何をやってるんだ貴様は!!!!」
一番激しく焦っていたのは、猫丸だった。
息を荒くし、全身にとめどない冷や汗を掻いている。
救われたかと思えば、突然激昂を喰らっている事に、紅音は訳が解らなくなっていると。
「な、何って、今から戦闘を開始しようと……」
「そういう事を訊いてるんじゃない!
憤慨を続け、猫丸は袖から顕となった紅音の包帯塗れの右腕に指を差す。
当然、それだけでは何がなんなのか解らず、祭や亜実、取り巻きの男達、そして当の本人である紅音ですら、頭上に疑問符を浮かべていた。
しかし、猫丸の脳裏にはしっかりとそれが焼き付いている。
そう、紅音の両腕に眠る、彼女自身の口から発せられた
「私の右腕がどうしたというのだ?」
「まさか貴様……、その腕に秘められた
「「「「地球を半壊?」」」」
猫丸の告白に、彼以外の全員が口を揃えて反応した。
無論、その中には紅音自身も含まれている。
本人すら理解していないという衝撃の事実に、猫丸は愕然としながら説明を続けて。
「自分で言ってたじゃないか!左腕には半径500メートルを炎で包む
「なぁ黒木、お前一人で何バカな事言ってんだ?」
「鬼頭は黙ってろ!
猫丸の叫びを聞き、紅音はうーんと頭を動かす。すると、ポンッと腕を叩き鳴らし、「思い出した思い出した」と続けながら。
「そうだ言ってたな。うん、確かに言っていた。そういえばそうだった」
「オイ、嘘だろ……?本当に忘れていたとか言わないよな……?」
「わ、忘れてなどいないぞ!この私が、自分の能力について認知していない筈があるまい!ただ滅多に使う機会がないから、少し記憶から抜け落ちていただけだ!」
「いや、使う機会がどうこう以前に、右の方に関しては一回使っただけで全部終わりだろ。つーかお前も、なにそんな話真に受けて……」
アハハと笑いながら、自分の失態から目を背けようとする紅音と、呆れるようにツッコミを入れる祭。
そう、彼女の言う通り、普通に考えれば真に受けるような話では決してない。
遠くからその会話を聞いていた亜実達も、早い段階で全員有り得ないと割り切っていた。
ただそれでも、裏社会に流れる伝説がしがらみとなり、そんな簡単な事すら気付けないでいた猫丸は……。
――……いや違う。この女、俺の思惑に勘付き、俺を制御しようとしていたんだ‼
ここにきて、また更に勘違いを悪化させていた。
この女が忘れることなど有り得ない。あの時、
つまり、これはフリだ!
――この女は何一つ忘れてなどいない。それどころか、俺の僅かな殺気をいち早く察知し、鬼頭を人質にしたんだ!
いや、それだけではない。
祭は疎か、ここら一帯の住民……。地球そのものを道連れにしようと企んでいた!
何たる苛烈さ……。これが『
思わぬ腹黒さ、そしてまたしても自分が掌の上で踊らされていたという
その様子を見て、紅音は疲れているんじゃないかと思い、親切心で尋ねる。
「どうしたブラックキャット?もう限界を迎えたのか?無理もないか。あれ程に過激な戦闘を続けていたのだからな。仕方がない、ここは私が手伝って……」
「お前の助力など必要ない。俺一人で片付ける!」
拒否するなり、猫丸は今まで身に付けていたブレザーとネクタイをかなぐり捨て、両腕の袖口を捲り上げる。
その瞬間、猫丸の左腕が背後の窓から漏れる月光を反射し、薄っすらと煌めきを見せ始めた。
「ほう、ブラックキャットよ。貴様もそんな物を腕に仕込んでいたのか」
「黙れ。お前の超兵器と比べれば、おもちゃと一緒だ」
紅音からの言葉を一蹴すると、猫丸は腕から垂れ下がったピアノ線をゆっくりと解いていく。
――ピアノ線……?なんで彼がそんな物を?……まさか⁉
何かを察した亜美が額から止め処ない脂汗を流した。
ゆっくりとその場を後退り、取り巻きを置いて逃げることを試みる。
その眼前で、シャツの袖を引き千切るなり、それを何重にもナクロは手に巻き付けた後。
両手で握ったピアノ線をぴんと張り、耳触りの良い軽快な音を鳴らして。
「鼠共が……、一匹残らず喰い尽くしてやろう」
狩りの終演を迎える一言が、黒猫の口から伝えられた。
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