白花豆

糸川まる

白花豆

 


 白花豆しろはなまめ、いる?


 バイト先で、急にそんなことを言われて、反射的にはいと答えてしまう。大将はニカッと笑って、地元の親戚から届いてよお、俺あんま好きじゃねえんだ、と袋ごと差し出した。透明な袋に、碁石のように真っ白で、平たく、親指の腹ほどもある大きな豆が詰まっている。食べ物というよりも、きれいな石みたいだ。袋越しでも、その端正な白い豆の、おしろいでもはたいたようなすべらかな触り心地を想像できるようだった。私はお礼を言ってそれを受け取る。腕のなかで、じゃらりと心もとなく崩れる感覚に、慌ててもう片方の手を添えた。


 自転車の籠にそれを入れて、少し考える。万が一、揺れの衝撃で袋が破れたら悲惨だ。かといってバイト先には財布と携帯電話しか持っていかないから鞄はない。仕方なく上着を脱いで、豆の袋をくるみなおす。上着を緩衝材にして、それは思いのほかしっくりと籠に収まった。自転車が道路の段差を越えるたび、じゃらり、と崩れる感覚が伝わってくる。自転車を転がしている間に小雨が降り始める。上着のフードでやり過ごそうと思ったが、あいにく上着は豆を守っているので、私はペダルをこぐ足を速めた。


 家の鍵を急いであけて、まず濡れた服を洗濯機へ投げ入れる。湯舟に栓をして湯張ゆはりボタンを押す。手持ち無沙汰になったので、湯がたまるまでのあいだに豆の世話でもすることにした。

 まずは味見程度に、小鍋で煮えるだけの豆をあける。がらがらと小気味よい音に、豆の質のよさを感じる。しっかりと詰まって、粒の大きないい豆だ。表面を均して平らにする。ゆっくりと水をそそぐ。じわじわと、豆の間に水が行きわたり、隙間から小さな空気の粒が上がってくる。豆はまるで生きているみたいに、水をそそぐわずかな振動にふよふよと動く。大粒で真っ白の白花豆は、煮つける前のこの姿が一番愛らしいと思う。ひたひたになるまで水をそそいで、そのままにしておく。そして私はあくびをしながら自身も湯にかるべく、キッチンを出た。


 湯に鼻まで浸かって目を閉じると、眉村まゆむら君の顔が浮かんできた。背が高くてほっそりして色白で天然パーマ、おっとりとしてちょっと前歯が大きなところがかわいい。アニメオタクで、スマホのホーム画面に見たこともない女の子のキャラクターを設定しているところもかわいい。


「趣味、変わってるねえ」


 そんな話をいつも私に聞かされる麻衣子まいこは、呆れたように言っていた。でも私は、眉村君が一年生のときからずっと麻衣子のことが好きなのを、知っている。サークル同期のみんなで行った免許合宿で、眉村君が麻衣子に告白しようとしていたのを私だけは知っている。

 麻衣子と私は同室で、眉村君は何度か私たちの部屋を訪ねた。訪ねては、麻衣子が一人ではないことを確認して去っていくのを三回ほど繰り返した。眉村君のことが気になってしかたがなくなったのは、それに気づいたときだ。それからずっと眉村君のことを目で追っている。麻衣子を目で追う、眉村君のことを追っている。「眉村君は私の推しだから」と、麻衣子を牽制することも忘れずに。


 ぶくぶく、と湯の中でため息をついた。でもそれにもいいかげん、飽きてきたな。麻衣子が、二年生の秋ごろから眉村君に押し切られ、メッセージのやり取りを始めたことを知っていた。メッセージのラリーがなんとなく続いていることも知っていた。そのころからあまり、麻衣子に眉村君の話をしなくなった。麻衣子と私はいつでも一緒にいるのに、眉村君の目に私はまるで映らない。


 風呂から上がって、キッチンに戻る。けっぱなしの蛍光灯の下に、誰かが立っている。えっ、と私は理解が追い付かずに硬直した。


「えっ、て、あんたがもどしたんじゃない」


 その人は首をぐりんと曲げて振り返ると、不機嫌に言った。


「も、戻す?」


 私はドアの前で固まったまま、おうむ返しに呟く。


「そうよ」


 その人は、小鍋を指さした。あんたが戻したのよ。せっかく寝ていたのに。少し高慢な口調で、小柄な女の子は言った。確かに、白花豆のような色白の肌をしている。ぽたり、と彼女の髪の毛から水が落ちる。


「あっ、ちょっと!」


 私はそこで、彼女の立っているあたりが水浸しであることに気づいた。慌てて乾いたタオルを二枚持ってくる。一枚を彼女に渡して、もう一枚で床を拭く。足元の水を拭きながら、彼女のことを下から眺めた。足の指、くるぶしの骨。ふくらはぎ、白いワンピース、背中の黒いファスナーライン。


 要は、私が水につけていた白花豆のうちの一粒なのだろう。そういうのが混ざっていることがある、というのは噂に聞いたことはあったけれど、実際に目にしたのは初めてだった。


「せっかくなら男の子の家がよかった」と、高飛車な口調で白花豆は言う。けれど、ぽってりした唇は、どんなに憎たらしい言葉をこぼしても許してしまいそうなくらいかわいらしい。麻衣子に似ているな、と思った。麻衣子のほうが背が高いけれど。


「今どき、家で豆を戻す男の子なんているわけないじゃん」


「それもそう」


 白花豆は、さして興味もないふうに返す。そして、それ、と私が食卓に放ったままの袋を指さした。


「ちゃんとふう、して。乾燥も湿気もだめ。野菜室に入れて」


 今、やって。そう命じられて、私はしぶしぶそれを野菜室にしまう。別に、あとでちゃんとやろうと思ってたのに。そんな顔をしていたのだろう、白花豆は少しだけ目を吊り上げて、すぐやらないとだめなの。梅雨なんだから。


「もう、いい? 私眠たいんだけど」


「あたしだって眠たかったのに、戻したのはあんたよ」


 ちょっとくらい付き合いなさいよ、とのたまう。しかたない、確かに戻してしまったのは私だ。冷蔵庫から牛乳を出してグラスにそそぐ。その丸い味の液体を口の中で転がしながら飲み干す。座れば、と言ってみたら、白花豆はおとなしく食卓の椅子についた。彼女はまだぐっしょり濡れていたけれど、しかたがない。きっと乾かしたらだめなのだろう。


 ちらちら、と蛍光灯がまたたく。この部屋を借りて三年目、備え付けのまま替えていなかったのだがそろそろ寿命かもしれない。


「あんたの悩み、当ててやろうか」と、白花豆は唐突に言った。


「当ててみなよ。その代わり外れたら寝かせてもらうよ」


「いいわよ」


 そして私の顔をゆびさす。


「肌荒れ」


「……正解」


「お見通しよ」


 正確には、高校生のころにできたきり放置したにきびの跡と、二十歳すぎても鎮静することのない膿をはらんだ吹き出物だ。にきびの跡はへこみになってしまっている。こうなったらもう、化粧品や保険内治療ではどうにもならないとインターネットに書いてあった。


「あんたはいいね。すべすべでさ」


 私の投げやりな言葉に、白花豆は頬杖をついて私の顔をじっと見つめると、「あんたがうらやましいのは、あたしの顔のすべすべじゃないでしょ」と言って笑った。その顔が、みるみるうちに麻衣子に似ていく。似ていく、というより麻衣子の顔になる。このすべすべでしょう、と白花豆は続けた。声まで麻衣子を真似ている。


「別にうらやましくなんかないよ」嘘、ちょっとはうらやましい。


「へえ、そう? じゃあ、好き? この人のこと。それとも嫌い?」


 白花豆は、麻衣子の声色そのもので言う。好き、と嫌い、しかないと思っているのか、こいつは。豆だからか。


「――あんた、」


 私は、それ以上白花豆と喋りたくなくなって、わざと意地悪な口調を作って言った。


「戻す前のほうが可愛かったね。うまくごまかしてたね」


 その途端、白花豆は顔をゆがめた。どうせ私は規格外きかくがいよ。そう呟いて立ち上がる。


「あんたたちはいいわね。あんたみたいな不細工でもはじかれないから」


 言いながら、石のような、均一な肌の上を涙のつぶがころころと転がっていく。いつのまにか白花豆は最初の顔に戻っている。言い過ぎた、私はとっさに謝る。けれど白花豆はぽろぽろと涙をこぼすのを止めない。そんなに泣いたら乾いてしまうよ、せっかく戻したのに、と声をかけてみるが、それでも止めない。彼女はいつのまにか膝を抱え込んでうずくまって泣いている。ぽたりぽたりと床に涙の落ちる音が響く。いやに響く。そしてコロン、と彼女は豆に戻った。戻す前の豆に。私はそれを拾う。彼女は他の豆の半分ほどの大きさしかなかった。


 彼女が消えても、ぽたりぽたりと涙の音は止まない。私が泣いているのかと思ったけれど、なんのことはない、キッチンの端に据えられた換気窓を雨が打っているのだった。梅雨なんだから、という彼女の声が蘇ってきたが、なぜかそれは麻衣子の声で再生される。


 鍋を覗き込むと、まだ硬いままの豆たちが、しん、と底に沈んでいた。未熟粒だったから浮かんでしまったのかしら。私はしばらく彼女を指につまんで逡巡したが、結局それをゴミ箱に捨てた。鍋に戻してまた彼女が出てきても、困るし。


 明日、ちゃんと豆が戻っていたら、甘く煮て麻衣子と食べようと思った。久しぶりに眉村君の話でもしよう。パチン、とキッチンの蛍光灯を消すと、あかりの消える一瞬、鍋の中に波紋が広がったような気がした。一袋に、あんなのが何粒も混じってるなんてないよね? 急に不安になって、意味があるかないかわからないけれど、とりあえず鍋にふたをかぶせる。カコン、という軽い音の向こうに、豆たちはすっかり沈黙する。


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