月と明滅に溶ける

QAZ

どこか見覚えのある道で

(帰り道。)


(そう、僕は帰り道にいた。)

(いた筈だ。いる筈だ。)


(家まで帰らなくては。とにかく...)


 頭がぼうっとする...思考が定まらない。目の前には僕の身長ほどの塀に挟まれた狭い路地。塀に肩を預け、重たい腿を引き摺って行く。ぼやけた視界の外から明滅する電灯の光が路地と僕を照らす。電灯が消える度、僕の身体の輪郭が闇に溶けて消え、奈落の底まで突き落とされているような気がする。電灯が付く度に、僕はやっとのことで現世に引き戻され、再び蛞蝓なめくじのように這いずり回るのだ。路地はどこまでも続いているように思えるほど長ったらしく、視界の中に僅か見える先の方で時折、明滅が塀を照らしているのが見える以外には、そこ彼処かしこに広がる真っ黒な闇が全ての物体の輪郭を飲み込んで、まるでここが巨大な平原か、もしくは鼻先ほどの先に巨大な壁がそびえ立つかのような錯覚を与えてくる。

 不意に、頬に液体が伝う。液体は項垂うなだれた僕の顔を不快に舐め回し、鼻筋を通って滴った。それに続く様に額からぼたぼたと雫が落ちた。口の中に入ってきたそれで、汗だと気が付いた。背中や、首筋や、頭から湯気でも発しているのではないかと思うほどここは暑かった。季節は夏だっただろうか、それともどこか熱帯にでも来ていたんだったか、さっぱり思い出せないが、とにかく身体中から吹き出す汗で、服が纏わりついてくる。一歩踏み出す毎により一層身体は重く感じられ、噴き出す汗がより粘着質ねばねばになっていく様に思われた。もし今後ろを振り返ったら、蛞蝓ねばねばのあいつの這いずった跡が僕の足元まで続いていたかも知れない。

 暑さと疲れのせいで、耳の奥からごおおっという雑音が聞こえてくる。強烈な風音のようだ。風も無いのに、全ての音が飲み込まれていく。視線を空に向けると真っ赤に燃える満月が爛爛らんらんと輝いていた。月が赤くなる理由は何だったか、水平線に近いと青い光が届かなくなるからだったか。ならあの月は僕の近くにまで来ているのか。月のことを考えていると、僕の視界いっぱいに赤い月が広がっていく。僕が月に近づいているのか、月が僕に近づいているのか、単に疲れで視野が狭くなっているのか。立ち止まって、ぼうっとしていると暑さと汗と蒸気で身体の感覚が無くなってきた。手も足もどろどろに溶けて無くなってしまったかの様だ。だんだん僕の目の中にある月もどろどろと溶け出した。もしかすると僕の目がどろどろに溶けているのかもしれないが、とにかく目に映る月は溶け出して、その溶けた粘着質な雫が、少しずつだがどろどろと零れ流れ出して地面に吸い込まれていった。

 視線を路地に戻すと、相変わらず明滅する光だけが、僅かに闇の帷幄いあくを引き剥がす。塀が、地面が、電灯が、月と同じように、ぐにゃぐにゃと歪み、溶け出した。暑さのせいか、僕の頭が狂ったのか、どちらもなのか。景色が混ざりあったり、元に戻ろうとしたり、拍動しているようだった。地面が波打つようにうごめくものだから、僕はもう立っていられなくて、そのうごめきの中に潜り込むしか無かった。何かの生物の消化管かのように、暗闇の路地が蠕動ぜんどうする。僕はもうぴくりとも動いてはいなかったが、仰向けに横たわった身体が地面や塀に押し出されて先へと進んでいた。空を見上げた視界の中、相変わらず明滅が常夜の闇を照らしていたが、ふとその中に黒い塊が時折いる事に気が付いてしまった。僕は驚いて、どろどろに疲れ果てた身体を起こしてぐにゃぐにゃとうごめく地面に立った。黒い塊は暗闇の中にあって更に黒い、漆黒の何かだ。どろどろに溶けて流れ出る月が、明滅の暗闇でも僅かにその黒い異物に存在を与えている。獣だ。直感でそう思った。黒い獣。よく見ると身体が膨らんだり縮んだりしている。呼吸に合わせて、きらきらと微かに光沢のある細い線の反射が僕を刺す。毛皮は硬く、触れたもの全てを突き刺しそうに感じられた。獣は僕をじっと見つめている。黒より黒い身体に、黒より黒い目が二つは付いている。少なくとも二つだ。目があったのが分かる。どこについているかもわからない二つの目と視線が合ったのだ。獣は何をするでも無く、ただ待っている。僕がこのあとどうなるか、おそらくこの獣は知っている。その何かを待っているのだ。路地の蠕動運動ぜんどううんどうで、僕はまた地面に転がった。視界の端に映る塀から、ぐにゃり、ぐにゃり、と黒い獣が生まれてくる。奴らは全員、大人しく僕がどうにかなるのを待っていた。


 突然、音が止んだ。汗が止まった。地面の蠢きが止まった。100匹の黒い獣たちが呼吸を止めて、僕を見つめている。


(あ。違う)


 止まったのは世界では無くて僕の方だった。止まった僕自身に気がついた時、僕の腰と肩の辺りから、急に聞いた事もないような音が聞こえてくる。じゃり、ぐきゅ、ばち、ぶち、ぐきり、ぎししゃしり、ごっ、ばっ、ぶちゅ、ばしゃばしゃ。首がグルグルと回転して止まる。視界に僕の捻れた身体が映る。骨は砕け散り柔らかな皮膚と脂肪だけが、なんとか捻じ切れるのを防いでいるだけの身体。行き場を失った肝臓が、膵臓が、胃や腸が、ばっばばっ、ぶりゅっ、と素っ頓狂な音を出しながら、膨れ切った腹の皮膚を突き破って飛び出した。ばちゃっばしゃっと地面に何かの液体と共に打ち付けられて、僕の中身が飛び跳ねる。遂には皮膚ももう耐えきれずに、関節から次々と捻じ切れて、僕は地面にぼとぼとと落とされた。死んだと確信したが、何故か生きていた。地面に投げ出された心臓がびくんびくんと飛び跳ねて、血液を未だ全身に送らんとしていた。あり得ない量の血飛沫が、千切れた僕たちから噴水のように噴き出している。痛みは無く意識ははっきりしていた。これは夢なのかもしれなかったが、獣たちが僕の内臓や腹を弄る感触はとても夢とは思えないほど生々しい。奴らは僕の身体がバラバラに砕け散るのを待っていたようだった。僕の四肢を、内臓を、顔を、目玉を、脳みそを、黒い獣たちが食い散らかす。ぐちゃぐちゃ、くちゃくちゃと、柔らかい肉の水音が静かに響く。僕はもう視界というものを持たなかったが、まるで離れ離れになった臓物たちが、神経だけはまだ繋がっているかのように、100匹の獣たちに喰われている感触を魂で感じていた。地面に残されたのは僅かな血潮と、肉、数本の髪の毛くらいなものだった。変わり果てた僕は路地の蠕動運動ぜんどううんどうで先に送られ続けるんだろう。もはや獣たちは1匹も残っていなかった。


(これは夢だ。)

(夢に違いない。)

(家に帰るだけなんだから...)


 そうは思ってみたものの、僕にはこの永遠とも感じさせる路地の終着点が、いつ来るのか皆目見当も付かなかった。ただ溶け出した月と明滅だけが、僕がここにいる事をほんの僅かに、時折証明してくれるのみだった。

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