「はじめてのおひるごはん~」――京都市中京区
「おひるごはん、どうする?」
隣を歩く同僚から声をかけられた。先週、東京の営業所から大阪の本社へ異動してきたばかりのわたしは、この界隈で何を食べればいいのかなんてわからない。東京の営業所にいた時は、先輩に連れられて入った店で受身的に昼食をとっていた。一人で食べることもあったけれど、そんな時はコンビニで買った総菜パンを運河沿いのベンチでかじる、とか、寝ぐせも直さずにメイクもそこそこで握ったわかめおにぎりをオフィスで頬張る、とかそんな感じだった。
「なんでもいい、です」
「なんでもええって言われるのが、一番困る。それに」
わたしより三十センチほど背の高い彼は、マスクのせいで曇った眼鏡越しにちらっとわたしを睨んだ。どうも今年の花粉は手ごわいらしく、例年の十倍も飛んでいるらしい。
「俺たち、同期。同い年。敬語、やめよう」
「ワタシタチ、ドウキ。ケイゴ、ヤメル」
「それでええ」
「じゃあさ、なんて呼んだらいい?」
彼はぶっきらぼうに言った。
「普通に。茅場でええって」
「茅場ね。わたしのことは吉田でいいよ」
「吉田でいいよって、俺は吉田って呼んでるやんか」
この人は、どういう人なんだろう。
入社三年目になったわたしは、東京営業所から大阪本社へ異動になった。向こうの営業所では「本社異動は出世のレールに乗った」とか言われたけれど、出世にはそんなに興味がない。というより、よくわからない。
ここまで二年間、がむしゃらに先輩にくっついて仕事をしていた。楽しいとか、やりがいとかは感じずに、目の前の仕事をこなしていた。二年間はあっという間だった。
大阪本社へ異動になって、京都市が担当になった。もともと、京都市内は先輩と茅場が担当していたのだが、先輩が別部署に異動になるに伴ってわたしが引き継ぐことになったのだ。一週間かけて引継ぎを行い、今日は茅場と二人で働く初めての日。
担当変更の挨拶として、大きな取引先をまわった。
午前中はみっちり歩き回って、ようやくおひるごはん。まだ半日なのに、ひどく長く感じたなあ。履き慣れたはずのパンプスなのに、靴擦れをしている。
初めて会う人に挨拶をするのはそれなりに気持ちが疲れるし、それが何件もあれば気持ちの疲れは蓄積する。
しかも、隣にいるのは同期なのだ。わたしと同じ入社三年目。同じ一九九〇年生まれ。
今までは先輩がいたから安心していた。責任の配分が違ったのだ。圧倒的に、先輩に重い責任がのしかかっていた。
それがこの春からは同期と二人。入社三年目なんて、新人に毛が生えたくらいなものだと思う。それも、産毛みたいなものだ。
隣を歩く同期は、頼りがいがありそうな見た目ではあるけれど、中身はどうだかわからない。全責任をわたしに押し付けるクソ野郎かもしれないし、いざという時に泣いて逃げ出すぽんこつかもしれないし、表面だけうまく取り繕う極悪人の可能性だってある。
本性、なんてものはすぐには見えないだろうから、せめて仕事をするのに差し支えない程度に相手を知っておきたい。
「なあ、吉田」
「ん、なに」
「普段の昼飯ってどうしてた?」
「ぱっと済ませてた。コンビニでおにぎりとか買ってさ」
「つまんねえなあ、それ」
また、さっきのぶっきらぼうな言い方をした。眼鏡とマスクで顔がほとんど見えない。わたしは花粉症じゃないからわからないけれど、なんとなく苦しそうに見える。
「なによ、それ。忙しいんだから仕方ないでしょ。今日だって、午後に回るお店さんのアポ取ってるし、さっと食べられるものにしよう」
「そんなにせかせかしてたら、死ぬぜ。昼飯ぐらいゆっくり食べよう。ここでええか」
「なんでもいい」
「それ、禁止な。なんでもええが一番困る」
そうして、わたしたちは新京極通りからはずれた半地下のラーメン店に入った。床はぬめぬめしているし、椅子は固定されていて座りにくいし、しかも隣の茅場との距離が近くて不快だ。
店内は全体的にもわっとしていて、茅場の曇った眼鏡は、さらに白さを増した。何も見えていないであろうレンズ越しにメニューを眺めている。
「ここ、天下一おいしいから。俺、カラテイコッテリオオモリかな」
「なにそれ」
「唐揚げ定食の、こってりの、大盛」
「チョットナニイッテルカワカンナイ」
「いいから頼め」
「わたしは、普通のラーメンでいいや」
「こってり? あっさり?」
「あっさり」
眼鏡が印象的な店員さんに注文を告げて、改めて店内を見る。わたしが一人暮らししている部屋くらいしかない。壁も、なんとなくべたべたしていそうに見える。
意外なことに、わたしと同じくらいの女性のお客さんもいた。
「吉田、あそこにも女性いるな」
「ちょっと、指ささないでよ、こっち睨んでるじゃない」
慌てて視線を逸らし、話題も逸らす。
「茅場は休みの日、何してんの」
「まあ、いろいろかな。吉田は?」
「わたしは、パジャマでお酒飲んでる」
「おっさんやな」
「レディに向かって酷いこと言うね」
「じゃあ、自分でどう思う?」
「おっさんだと思う」
「自覚あるのかよ。ほら、来たし、食おう」
わたしの前に差し出されたそれは、なんだか普通のラーメンって感じ。飲んだあとの〆にもサクッと食べられて、染み渡りそうな味をしている。美味しいんだけれど、茅場が言う「天下一おいしいラーメン」って感じじゃない。
食べ始めてから、お腹が空いていたことに気が付いた。食べているそばから、胃袋が処理をしているかのように動いていた。
ずるずると食べると、口がはふはふなって、胃がぎゅるぎゅる言って、こころがほくほくする。
なんだか緊張がほぐれてきた。それだけ、午前中は気が張っていたみたい。ラーメンのスープが指先までじんわりと行き渡るように、こわばっていた全身がほどけていく。
ラーメン一杯じゃ足りなかった。一度動き出した胃袋は、次を求めて蠕動をしている。
隣の茅場はというと。
「え、なに、お腹いっぱいなの?」
「今日はいけると思ったんやけどな」
呆れたことに、ラーメンもごはんも半分ずつくらい残していた。唐揚げはきれいになくなっていた。
「今日はいけるって、普段はどうなのよ」
「調子が良ければ」
「茅場ってさ、そのでかい身体で小食なの?」
彼は小さく頷いた。呆れた。
けれど、動き出した胃袋が本能的に訴えた。
茅場が注文した「こってり」が気になると。お腹いっぱいになるまで食べたいと。
「じゃあ、わたしもらう」
茅場が水をすすりながら片手で合図したのを確認して、こってりラーメンに手を付ける。
まずはスープをすすってみた。口の中に残るようなどろどろ。口に入れた瞬間はガツンと濃いスープには、奥から野菜のような甘さが広がる。見た目や舌ざわりの強さと比べて、優しさをはらんだ後味をしていた。
あっさりラーメンより、こっちのが好きだ。麺がすすむ。柔らかく炊かれたごはんの甘さともマッチしている。あっさりラーメン以上に、どんどん進む。
「これ、入れてみ?」
茅場から小さな壺形の調味料入れを渡された。
中には、緑色の……なにこれ?
「それ、壺ニラ。ニラの辛い漬物」
言われるままにラーメンに落としてみた。ごま油とニラの香りが立った。白く濁ったスープに豆板醤が浮いた。
その、濃い辺りをレンゲで掬ってみた。ニラも一緒に口にする。
「え、すごい……」
先ほどまでのこってりまったりした味わいは、急にハードロックのような過激な味に変貌した。そのままごはんを掻き込む。濃厚スープと強烈壺ニラとやわやわあまあまの白米、これは運命の出会い。まるで、結婚のよう。
これは、もしかして。
マリアージュ
茅場の食べ残しをあっという間に完食した。汁も飲み干した。それを見て、茅場は唖然とした顔をする。
「吉田って、けっこう食うんだな」
「茅場が食べなさすぎ。あと、眼鏡曇りすぎ」
「せやねん、見てこれ、やばない? めっちゃ曇る」
「なに子供みたいなこと言ってんの。さ、行こう。次の取引先さん近いんでしょ?」
「なあ、吉田」
「なによ、まじまじこっち見て」
「なんでもない。行こうぜ」
揃って席を立つ。ぬめぬめとした床にも、愛想の無い店員さんにも、べたついた壁にも、扉から外に出ないと入れない狭いトイレにも、動かない椅子にも、なんだかめんどくさい性格の同期にもすぐに慣れると思う。だから、
「茅場、明日もここでおひるごはん食べよう」
「まあ、ええけど。吉田さ、今めっちゃニラの臭いするし、臭い消すやつ買った方がええで」
「アンタが勧めたんでしょ。明日もニラ食べるし、買うけどさ」
◇
悔しいけれど、茅場と一緒に食べたごはんが美味しくて、その日の午後も乗り切れた。東京にいた頃、そして、こちらへ異動になってずっと張ったままだった緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がする。
今まで、本当に我武者羅に仕事をして、仕事の楽しさなんてよくわからずに過ごした。これからも仕事の楽しさがわかることはないかもしれない。けれど、仕事の合間に食べるおひるごはんが楽しみの一つになるなら、それでいいのかもしれない。
これが、わたしと茅場のはじめてのおひるごはん。
この日から、わたしと茅場のおひるごはんライフが始まった。
たぶん、何年経っても忘れないと思う。
なお、ここから九回連続で同じおひるごはんを食べたことは内緒です。
おひるごはん、どうする? もり ひろ @mori_hero
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