「味噌カツ定食」――京都市左京区
「おひるごはん、どうする?」
わたしは隣を歩きながら小難しい顔をする同僚の茅場に問いかけた。彼は、ロングコートの襟周りを大げさなくらいボリューミーなマフラーで固め、顔が半分埋もれている。暑がりで汗っかきな彼は、二月の寒空だというのに額に汗を滲ませ、息も上がっていた。そんなに暑いなら、脱げばいいのに。
わたしと彼は大阪にある企業で営業の仕事をしている。スポーツ向けのサプリメントが主力商品で、主な営業先はスポーツ用品店やアウトドアショップだが、大手ドラッグストアチェーンでも取り扱ってもらっている。最近じゃ、サプリメント以外にも、エナジードリンクなんかも売り出し始めたものだから、営業部も忙しさで賑わっている。こんなに忙しいのに、京都市の北半分の担当がわたしたち二人だけって、ちょっとブラックよね。
彼も難しい顔をしているけれど、わたしだってちょっと悩んでいることがある。
「なに、食うか……」
京都市左京区の吉田といわれる界隈。わたしと茅場は二人、途方に暮れてしまった。今日のおひるごはん、何を選んだらいいのかわからなくなってしまったのだ!
いつもなら、彼の鼻を頼りに、奇跡的に店を発見してきた。(これを茅場センサーと呼びます)
しかし、この吉田界隈では彼のセンサーが混線を起こす。
そばに西日本の最高学府がそびえるこのエリアでは、学生向けの飲食店が数多あるのだ。それらが、こっちこっちとわたしたちを手招きする。手ぐすねを引いて、門戸を開け放って待っている。
だから、おひるごはんを決められずにいた。住宅街にひっそりと佇むにぼしのラーメンも、鳥皮バターライスも、たまに行く大学食堂も、人の名前みたいなチキン屋さんも、みんな魅力的なのだ。
「なあ、吉田は吉田で何食べたい?」
言うと思った。
この茅場って男は、吉田エリアに来るといつもやたらとわたしの名前を呼んで紛らわしい喋りをする。何が言いたいのかよくわからなくなる。それを不服だと伝えれば、
「吉田って苗字、変えればええやん」
と言うのだ。
生憎、わたしには苗字が変わる予定がないもので。
などと、憎たらしいやり取りをしているところで、たまたま一つの飲食店が気になった。今出川通から半地下に降りたところで扉を開いており、その向こうから聞こえた『美味しい』を茅場がキャッチしたのだ。(これを茅場アンテナと呼びます)
「これ以上悩んでも長引くだけだし、ここに賭けるのは?」
「吉田の言う通りやな、入ろか」
わたしたち二人の気持ちが変わらないうちに、という想いで階段を下った。
店内には多くの学生客がいて、スーツ姿のわたしたちはちょっと浮いている気がする。大学生は今頃、春休みの期間のはずだというのにこの店には賑わいがある。三〇歳を超えたわたしたちからすれば、なんともキラキラとした子たちだった。
唯一、空いていた二人掛けの席に着く。机の上にはなぜか、某有名立体パズルがあった。一面たりとも揃っていない。大きな窓の向こうは、コンクリートの外壁が見え、窓とその外壁の間には、恐竜のフィギュアが並んでおり、メダカの入った水鉢があり、世界観は混とんとしている。
レジ前に貼られたあらゆるサークルやアルバイトのチラシ等、気になることはたくさんあるけれど、まずは空腹を満たしたい。店選びに時間がかかったので、お腹はぺこぺこりんなのだ。
メニュー表に目を通す。定食屋と謳っているだけある。サバの味噌煮やら、バッファローチキンやら、てりたまハンバーグやら、角煮やら、とにかくメニューが多かった。
これまた選ぶのに時間がかかりそうだ。本音を言えば、それぞれを少しずつつつきたいところだけれど、定食屋さんではそうはいかない。どれか一つに決めなければならない。
「茅場はどうせ、唐揚げ定食でしょ」
「いや、今日は俺は違うやつにしようかと」
「ユーリンチー定食」
それって、結局……
「唐揚げじゃん!」
「いや、でもな、おろしポン酢の唐揚げと悩んでんねんて」
「結局、唐揚げじゃん!」
ま、しょうがないよね。茅場の好きなもの第一位が唐揚げなのだもの。
それに、茅場が唐揚げ系を選んでくれれば、わたしの悩みは解決する。
「わたしは味噌カツ定食のご飯大盛」
「ごはん大盛って、たぶんアレだぜ」
「指ささないの」
と𠮟りつけつつも、指先を目で追ってしまう。なるほど、あのくらいなら、どんと来い。
注文後、運ばれてきた定食を見て、胃が疼いた。胃液が分泌されているのか、刺激が腹部にあった。
大きいお茶碗にマンガのようにごはんが盛られ、お味噌汁、サラダ、煮物、酢の物、そしてメインが並ぶ。一汁三菜のバランスがとれた定食だ。
トンカツは肉厚で、熱気のある脂っこい湯気が立ち上る。揚げ物の香りが鼻孔を直撃した。しっかりかかった味噌ダレの甘い香りも、空腹には刺激的だ。ごはんがいくらあっても足りない予感。
サラダにはキュウリが入っているので、茅場の小鉢からキュウリだけをもらってあげる。お味噌汁には茄子が入っているので、わたしのお椀から彼のもとへ、じゃぶんと沈めた。
サラダにはドレッシングがかかっていない。フロアの中央にあるセルフサービスコーナーへサラダ鉢を持っていくと、いくつかのドレッシングが並ぶ。どれも容器に種類と、小さな文字で「自家製」と書かれていた。そんな中、強い存在感を放つ「しょうがドレッシング」
どのドレッシングよりも大きな、強い文字で「自家製」と書きなぐられていた。
さぞかし自信がおありのようで。ならば、わたしはこのドレスをサラダにまとわせようではないか。相性はいかがかな。
着座したら、まずはお味噌汁。茄子の香り、居るなあ。遠くに、居るなあ。だけど、お味噌汁は美味しいです。
さて、さっそく例のドレッシングを頂いてみますか。
鼻から抜けるしょうがのさっぱりとした香り。特有の刺激。しっかりとしょうがを感じる醤油ベースのドレッシング。このドレッシングのためだけに、サラダをおかわりしたい気持ちにさせられた。あのボトルごと持って帰りたいけれど、生憎わたしは全く自炊をしない。生野菜を自宅で食べることはほとんどないので、使いどころは少なそうだ。
アッと言う間にサラダだけ食べきってしまった。
ようやく、大本命に手を付ける。
前述の通り、肉厚なカツ。肉厚、というか、分厚い、という言葉の方がニュアンスが正確だろうか。
そんな分厚さを感じさせないくらい、柔らかな食感。意外にも軽やかな衣。良い肉を使っているのかと思ったけれど、リーズナブルプライスなので、料理人の腕のなせる業かもしれない。
そして、何よりもタレ。特有の濃い甘さ。赤味噌の芳醇さ。重いタレと軽い衣が混ざり合う。白米がみるみるうちに減っていく。全てが一つになっていく。
これぞ、まさに。
「マリアージュ」
無心で食べ進む。時々、茅場のユーリンチーをつまみ食いする。箸が止まることなく、ケンケン、パーのリズムで味噌カツとユーリンチーで白米を掻き込んだ。
リーズナブルな価格でお腹いっぱい食べられるのは、学生街のいいところ。学生時代に戻りたいような気持ちにさせられながら、店をあとにした。次は、おろしポン酢の唐揚げ定食にしようかしら。
それにしても、茅場には言いたいことがある。
「あんたさあ、暑いならマフラー取れば?」
「うるせえ、バレンタインにもらったものをどう使おうとも、俺の勝手やろ」
まあ、喜んでくれているみたいだから、それでいいんだけれど。
◇
次にこの店を訪れた際には、すでに閉業していた。扉には、店主がアメリカへ渡るという旨の張り紙がなされていた。
海外に渡る、ということはどんなことだろうか。縁のない土地で過ごす。それは、そこが安全で、安心できる場所だからなせることで、それは世界が平和だから。
この平和が長く続いて、バカみたいな同僚が隣にいてくれて、美味しいものが食べられる日常が終わりませんように。
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