「スパイスカレー」――京都市上京区
「おひるごはん、どうする?」
と、いつもなら聞くところだけれど、今日は聞かずにこのお店に入っていた。
二条駅から千本通を北に十分ほど歩いただろうか。いつもならどうってことない距離を歩いたけれど、今日はいつもより足がしんどい。いつもならぺったんこなパンプスを履くわたしが、珍しくヒールの高い靴を履いていたからだ。向かいに座って、冬だと言うのに汗をかいている同僚の茅場からは「もしかして、今日は仕事終わりにデートか?」とバカにされたが、わたしにはデートに誘ってくれるような王子様なんていない。周囲にいる男性と言えば、目の前に座るこの男と、実家からわたしの家に転がり込んで陶芸修行をする弟くらい。
わたしがハイヒールなんかを履いているのは、その後者のせい。高身長な弟が、あまりにもわたしの低身長を笑うものだから、むきになってハイヒールをネットで購入した。俗にいう「ポチった」というやつだ。見せつけるようにして履いて家を出たのだが、会社に着く前にはかかとに靴擦れが起きていた。
目の前の大男は冷水をおかわりして、新たな汗を生み出していた。食べる前から汗を噴くなんて、食べ始めたら一体どうなることやら。
茅場とわたしは、大阪にあるスポーツ向けのサプリメントを販売する会社で営業の仕事をしている。わたしたち二人の担当エリアは京都市の北半分(京都駅より北側全部だから、面積は半分以上かも)。昨年までは京都市全部だったけれど、取引先の急増に伴い南北に二分割された。おひるごはんに美味しいものを食べることを楽しみに足しげく営業まわりをした結果、業績が上がったので結果オーライ。
そんなこんなでわたしたち二人はほとんど毎日、昼食をともにしている。年間二四〇日くらいは一緒に食べている計算だ。その辺のカップルよりも多いんじゃないかな、嬉しくないけど。
それにしても茅場の背後にある絵は何なんだ。カラフルな……ゾウ?
「なんだ、吉田。俺のことまじまじ見て、俺に惚れたか」
「寝言は死んでから言って。あんたの後ろの絵が気になるの」
彼はぐいと上を向くようにして、背後の壁を見上げた。ガタイのわりに小さな喉仏が、きゅっと上がった。
「ゾウやな。カレー屋やし」
「そんな安直な」
なんて言ってみたけれど、理由はそれくらいしか思いつかないし、わたしもそういうことだと思っていた。
ここの店に入った理由は、店の外まで強烈なスパイスの香りが漏れ出していたことと、わたしの足が限界だったこと。
店内に辛い空気が漂い始めた。目に、鼻に、喉に沁みる。本格的なスパイスカレーが空気にまで滲んでいる。店の本気を感じているのだ。粘膜にカラシがへばりついたようだ。
「おい、吉田、見て見ろよ。あの人も目に沁みてるみたいだぜ」
「指ささないの。こんなに空気が辛いのに、茅場は平気なの?」
他人に指をさす癖がある彼は、どうやら粘膜が鈍感らしい。これだけの辛い空気の中でもケロっとしている。
それからほどなくして出てきたカレーは、茅場の背後に描かれた絵画のようにカラフルだ。
カレーの茶、サフランライスの黄は当たり前のカレーの色。散らされた香草の緑、レッドオニオンの紫、刻みネギの萌葱色、白ゴマの金、ピクルスの赤、卵黄のオレンジ。
まず一口。カレーをすする。見た目よりもさらっとしたカレーは数多のスパイスの刺激の中に、どこか懐かしい、優しさがあった。
「うお、うめえ、うめえ」
そういう味覚の繊細さを持たない茅場は、語彙力を失いながら飲むようにカレーを平らげていく。
わたしは、冷静に美味しさの分析をした。この優しい甘さのような奥深さは、和食に通ずる。きっと出汁の風味だ。
自分が持っていたカレーに対するイメージがぶっ壊された。本格的なスパイスカレーを今まで何度も食べてきたつもりなのに、こんなに衝撃を受けることなんてなかったのだ。 カレーと出汁の組み合わせは、カレーうどんの定番。だけれど、これだけの強烈なスパイスたちと出汁がこんなに合うなんて。こんなに共存できるなんて。種を越えた共存。この皿の中は、世界平和が実現されている。
香草を、ピクルスを、野菜やタマゴを少しずつ混ぜていく。混ぜて一口食べるたびに、衝撃を重ねていく。スパイスの刺激に出汁のまろやかさ、ピクルスの酸味と香草の独特な苦み、ゴマの香ばしさ、玉子のコク……。
これぞ、まさに。
「マリアージュ」
カレーの七変化。わたしはそれを満足いくまで味わった。美味しいものは、混じり合うことで一〇〇パーセント以上の力を発揮する。ここのカレーは、二四〇パーセントくらいのパワーでわたしを満足させてくれた。
そして、ここのお店に来る次のお目当てもできた。「本日のカレー三種がけ」を食べること。種の違うものどうしが交じり合って、そして生まれるハッピー。
◇
「なあ、吉田」
スパイスで汗だくになった茅場が、落ち着きのない口調になる。そんなに辛かったかな。
「なに?」
「たまには、夕飯も二人で食べないか?」
タイミング悪すぎ。わたしには断る理由があるっていうのに。
「ごめん、今日は足が痛いから却下」
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