「シチュー」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」

 わたしは三条名店街のアーケードを歩きながら、隣を歩く同僚の茅場に尋ねた。茅場センサーが反応しているらしく、彼は「ついてこい」と言わんばかりにずんずんと進む。

「こっちだ」

 茅場は素っ気なく言う。

 彼もわたしも、大阪にある企業で営業の仕事をしている。京都市内がわたしたち二人の担当のエリアだったが、取引先の増加に伴い、最近になって京都駅より北に限定された。

 アーケードもそろそろ終わりに差し掛かる。巨大なカニが現れる。あんまりに大きなカニは、人間に食われるのではなく、逆に人間を食いそうな目でわたしたちを見下ろしているようだ。きっと、道楽で人を喰らうに違いない。

 なおも彼は無言で進む。いつもなら、わたしが聞いていようがいまいが、無駄話を満開にするというのに。今日は朝からちょっと素っ気ない。だけど、怒っているというわけではなさそうで、きっとこじらせた風邪がつらくなってきた頃なのだと思う。

「ねえ、茅場、どっか入っちゃわない?」

「もう着く」

 彼はずびーっと鼻をすすりながら答えた。音が不快なので、ポケットティッシュをあげたら、目まぐるしく消費していった。ちなみに、彼は彼で、箱ティッシュをカバンに常備しているらしい。なら、返せ。

 彼が「もう着く」と言ってから、そこそこ歩いた。わたしと彼の「もう着く」の感覚は一致していないらしい。一致しているのは、食の趣味くらい。

 そうして到着した店は、町屋を改築した飲食店だ。入り口には「ランチはじめました」と墨書きされていた。

 店内はお座敷になっていて、靴を脱いであがる。

 いつもならパンツスーツスタイルのわたし。服装よりもランチにお金をかけたいわたしは、パンツスーツは二着しか持っていない。一着をクリーニングに出しているタイミングでもう一着のスーツにカレーをこぼしてしまい、今日は仕方なく学生時代に使っていたスカートで出勤した。

 スカートの時のお座敷は座りにくいんだよなあ、茅場は気が利かないなあと思っていたが、着席して安心した。

 ここは全席、掘りごたつなのだ。

 これなら気にせず座れる。

 意外と気が利くのか、それとも、ただの偶然か。答えは茅場のみぞ知る。

 メニューに目を通す。ランチメニューは潔い。店の外の墨書きでも「名物」と謳われていた「シチューランチ」を頼もうとして、止まった。

 一八〇〇円。

 これは、審議が必要だ。ランチは一〇〇〇円未満で済ませたい。「安い」「うまい」「おなかいっぱい」が、ランチの満足度に直結する。一つ目の「安い」を諦めずに一〇〇〇円未満に済ませるなら、もう一つの九〇〇円のランチか。

 だけど、それじゃあ「名物」のシチューが食べられないじゃない。

 ぐぬぬ。

「吉田も同じのでいいよな?」

「待って、同じのって、茅場は何を頼むの?」

「シチューランチ。一択だろ」

 彼ははっきりと言い切った。シチューランチの一択。ならば、わたしも、シチューランチにしよう。何日間か、夜のビールを我慢すればいいだけだもの。

 それにしても、ここはなんだか。

「OL、多いね」

「吉田だってOLっちゃあ、OLだろ」

 そうなのだけど、なんとなく毛色の違いを感じる。いつかにカフェランチで感じた「キラキラOL」の洗礼のようだ。わたしのような「ラーメン定食ごはん大盛でおなかいっぱいにしたい」というガッツリ系女子とは、住む世界が違う生き物ばかり。

「だけど、ほらあの人も、あの人も、なんかわたしとは違うタイプのOLじゃない」

「おい、吉田、指さすなよ。いつも俺に言ってるくせに」

 わたしとしたことが、あんまりにも居心地が悪くて、他のお客さんを指さししてしまった。失礼しました。

 OLの多さに落ち着かず、店内をぐるぐると見回す。天井が高くて、ロフト空間が見える。時々、ちらっと人が覗いていた。店内の張り紙によれば、あの空間は二十名から貸し切りが利用ができるらしい。ランチがこんなに高価なお店の貸し切りとは、一体何を行うのだろうか。誕生日パーティ、とかかな。

 そういえば、茅場の誕生日がいつなのか知らない。こんなに何年もコンビで仕事をしてきて、わたし茅場について知っていることって、食べ物の好き嫌いと、好きな異性のタイプくらいかも。

 それは茅場も同じだろうか。茅場はわたしの好き嫌いと、好きな俳優くらいしか知らないだろうか。どれくらい、わたしは自分のことを話していたのかわからないけれど、ほとんど食べ物の話しかしていない、と思う。それと、申し訳程度に、仕事の話。

 せっかく長らくコンビを組んでいるのだから、もう少しお互いのことを知ってもいいんじゃないかしら。こんなに一緒にいる時間があるのに、何も知らないなんて、少し寂しい気がする。別に、茅場のことなんて、なんとも思っていないけれど。

「茅場、お前の誕生日は……」

 と、聞きかけたところで注文していた定食が来た。

 並べられたものを見て「さすが千八百円……」と頷く。

 例のシチュー、ハンバーグ、鶏のグリル焼き、ポテトサラダ、それとごはん。シチューにパンを浸して食べるのがオススメらしいのに、ごはんをセレクトしたわたし。ブレていないでしょ?

 真っ先にシチューを食べたい気持ちを押し殺して、先に鶏のグリル焼きに手を付けた。楽しみは後に取っておくタイプ。

 鶏にかかったマスタードソースは甘めで、マスタードの独特の香りが爽やか。鼻に抜ける味わいが心地よい。小さく頷く。

 ポテトサラダの味付けはくどくなくて、さっぱりと食べられる。がっつりめのハンバーグとのバランスが取れた組み合わせは◎

 現状で、シチューがなくても充分に美味しい定食が完成している。これだけで白ごはんが進むけれど、食べきるわけにはいかない。

 お待ちかねの、シチューに手を付ける。スプーンですくうと、どろっとしているが、真っ茶色というわけではなく、やや白みがかって見える。濃厚過ぎて、スプーンですくうとずっしりとした重ささえも感じる。

 ここまで、大本命を待ちに待っていた気持ちが抑えきれず、大口を開けた。たったの一口で口の中を満たす濃厚なシチューの味。感じるのは牛の旨味と甘み。野菜を感じる舌ざわり。これを、これだけで食べるなんてもったいない。

 周りのOLもやっているかどうかなんて、関係ない。わたしは、人の目も気にせず、白いごはんにシチューをぶっかけた。白いキャンバスを染める茶色いシチュー。スプーンで一緒にすくって頬張る。

 これこれ。全ての旨味が調和する瞬間。シチューを煮込んだ時間は嘘をつかない。凝縮された旨味が、ごはんの甘みと混ざり合い、濁流となってわたしの味覚を刺激した。これぞ、まさに。


「マリアージュ」

 

 わたしは声を大にして、何度だって言う。「白いごはんは万能の食べ物だ」と。それは、隣にいる茅場とも共通の認識であり、彼も抑えきれない感情をごはんの上にぶちまけていた。周りのOLやカップルが、シチューをパンにちょんちょんつけて「美味しいね」なんて言い合っている中、わたしと茅場は無言でシチューをごはんにかけて胃袋へ流し込んでいく。

 わたしは茅場のことはほとんど知らないし、彼だってわたしのことを全然知らないはず。それでも、こうやって同じ感覚でおひるごはんを楽しめる仲間というのは、とっても貴重な存在。相手のことを知ろう知ろうとしなくても、いつの間にか知っていくだろうし、知らなくても馴染んでいくものです。

 それと、もう一つ。わたしが茅場について知っていることと言えば、大盛にしたくせに食べきれない、ということ。今日も、お残しをされた茅場の定食はわたしの胃袋の中。


   ◇


「ここは俺が払う」

 茅場は会計で、わたしが財布を出すのを制止した。二人分の三六〇〇円をまとめて払ってくれるらしい。

「なによ、今日はずいぶん太っ腹じゃない」

「だって、お前、今日が誕生日だろ」

 何年もコンビとして一緒に京都エリアを開拓してきた、いわば「戦友」である彼からの一言に思わず……。

 思わず、笑いが止まらなくなってしまった。

「わたしの誕生日、今日じゃないんだけど!」

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