「インディアン」――京都市中京区

「おひるごはん、どうする?」

 わたしは、同僚の茅場と二人で寒風が吹き抜ける河原町の界隈を歩いていた。本社がある大阪・北浜とは比べ物にならない寒さ。悪名高い京都の盆地的気候には、まだ慣れない。このエリア担当になってから、幾度も洛中の冬を経験してきたのに、次の冬にはその感覚を身体が簡単に忘れてしまう。

 今日は、いくつかの取引先への新年の挨拶も済ませたところ。茅場と二人で京都市内のエリア担当になってから、多くの取引先を得た。挨拶周りをするだけでも、恐ろしいくらいの日数を要する。午後からは新規顧客への訪問予定がある。先方から取引の相談を持ち掛けられての商談なので、確定と思っていいだろうけれど、ここは腹ごしらえをする必要がある。商談とは戦いなのだ。腹が減ってはなんとか、って言うじゃない?

「久しぶりに、あれ、行ってみないか? 吉田、あれ好きだったろ」

 あれ、と言われても、頭の中には無数のアレが出てくる。わたしが思いつくようなアレは、四条烏丸のアレだって、出町柳のアレだって、西陣のアレだってそう。この界隈だって、キラメくチキンスープのアレも、汚ねえ店構えなのに美味しいアレもある。一体、茅場はどの『アレ』のことを指しているのだろう。

 彼とコンビでこのエリアを担当するようになって久しい。平日はほとんど毎日、ともに昼食をとっている。お互いの食べ方も好き嫌いも把握しているというのに、今は無数のアレが頭に浮かぶ。本音を言うと、どれもわたしが食べたいと思っているものたち。

「俺があれって言えば、これしかないやろ」

 茅場が指さした先には、地下に降りる階段。

 場所は、寺町通り商店街の、四条通り側の入り口。そこに地下へ通ずる道があると知らなければ、気づかずに商店街へと足を踏み入れてしまいかねない。それゆえ、知る人ぞ知る名店。以前、友人にこの店を教えてあげたところ、迷ってしまったと言っていたので『迷店』かも?

 狭い階段を通って地下へ降り、店の扉を開ける。暖かな印象のある照明に包まれた店内で、奥の席へ通されて着席。レトロで落ち着いた店構えとは対照的に、客足が途絶えず、混み合って賑やかだった。寒い屋外からここへ踏み入り、その温かさに身体がふやけそう。外との寒暖差で茅場の眼鏡が曇っていて、そのことに触れて欲しいという顔をしているので絶対にその話はしない。間違っても「曇っているよ」なんて言わない。

 この店でのお目当ては、一つしかない。

「インディアンオムライス、二つで」

 悩むことなく、注文した。メニュー表なんて、見る必要がない。

 店員は、調理をする中年男性と、注文を取ったり下膳をしたりする中年の女性が一人。昼食時で満席に近い店を二人で切り盛りしていた。

「なあ、吉田。あの二人って、夫婦なんかな?」

「指ささないの」

 彼が店員さん二人を見てそう言うので、すかさず彼の指をへし折ってやった。本当に折れてしまっては傷害事件になるので、痛いという顔をしたら解放してあげた。ちなみに、彼の眼鏡はまだ曇っている。わたしは、触れない。

 混んでいるので、提供までにそこそこの時間を要する。この待ち時間。待ち遠しい。「旅行は準備している時間が楽しい」とか「恋愛は追っている間が幸せ」なんて言う人がいるけれど、おひるごはんはそんなことない。待っている時間は、ただただ待ち遠しく、食べている時間が一番幸福なのだ。

 この街の冬の寒さを身体が忘れてしまっても、美味しい店のことは身体とこころが覚えている。空腹も相まって、うずうずと、無意味に身体を揺らしてしまう。小学生の頃の遠足前夜だって、こんなにこころが躍ったことはなかったと思う。

 隣の席では、スーツを着たお一人様の男性がインディアンオムライスを頬張る。その向こうでは、大学生くらいのカップルがおしぼりアートをしているところに、インディアンオムライスが提供された。着々とまわりの席へ提供されていく無数のインディアンオムライス。甘美な響き、インディアンオムライス。

 ようやくわたしたちのインディアンオムライスが到着。普段はすぐに食べ始めてしまうのだけれど、久しぶりにこの店へ訪れた喜びで、思わず写真を撮ってしまった。別にSNSに投稿しようとか、そういうつもりはない。ランチ自慢するとか、「映え」を狙っているとか、そういう魂胆はわたしには皆無。なお、彼の眼鏡は、まだまだ曇っている。たぶん、意図的に曇らせている。だから、絶対にその話題にはしない。

 しっかり目で薄く焼かれたタマゴの上にさらっとかけられたデミグラスソース。センターに鎮座するタルタルソースがこの料理の個性を表している。

 これが、この店のオムライスです。

 いや、これだけではないのです。

 この料理の神髄は、一口食べればわかる。

 わたしは、すぐさま食べ始めた茅場に遅れてスプーンを手にする。いざ。

 見た目どおりの硬さのタマゴをスプーンで切り、デミグラスソースと一緒にすくって口に運ぶ。食べる瞬間には、鼻腔を刺激するスパイシーな刺激。口に入れてから広がるカレーの香り。

 そう、このオムライスの中身は、カレーピラフ。しかも、具だくさんで、ゴロッゴロ。人参や玉ねぎ、キノコだって入っている。食べ応え◎。タマゴとデミグラスソースとカレーピラフの絶妙な組み合わせ。甘さも辛さも、一つになって舌を転がる。一つ一つの味が個々で戦っているのではない、まじりあって一つになってわたしに幸せを与える。

 しかし、このオムライスの楽しみはこれだけではない。

 ちょうど半分まで食べたわたしは、次なる一手を打つ。

 センターに乗せられたタルタルソースを、タマゴの上でのばす。デミグラスソースとタルタルソースが不規則なマーブル模様を描く。今度はタルタルソースも一緒に頂くのだ。

 そうそう、これこれ。他では味わえない、魅惑のハーモニー。これぞ、まさに。


「マリアージュ」


 言わずにはいられなかった。

 甘さと辛さに足されるタルタルソースの酸味。一つになって口いっぱいに広がる。さっぱりとした味わいに変化し、いくらでも食べられるような気持にだってなる。それくらい、この上ない組み合わせなのだ。

 この変化を楽しむわたしとは対照的なのが、茅場の食べ方。

 彼は最初っからタルタルソースを全体に引き延ばして食べる。マーブル模様が消えて、完全に混ざり合うくらい、スプーンで撫で続けるのだ。マイルドな酸味が最後まで続く。このお皿の上では、わたしたちは自由なのだ。もちろん、向こうのカップルみたいに、彼女のタルタルソースを彼氏が全部食べてあげたっていいし、彼氏のキノコを彼女が食べてあげたっていい。

 今回は、珍しく茅場が先に食べきった。それもそのはず。「男性サイズ」をわたしが、「女性サイズ」を彼が食べていたのだから。見た目で判断されてしまいがちなわたしたち。女性だってたくさん食べるし、小食な男性だっています。誰がどれくらい食べるか、それも自由。見た目や性別に縛られないことも自由。

 でも、彼が大柄な男のくせに小食なおかげで、今日も満足のおひるごはん。これで六百円。コストパフォーマンスも◎。

 手作りのお弁当女子? いやいや。

 カフェでごはん食べたガール? いやいや。

 お手頃価格で満腹の幸せになれるおひるごはんを、明日も食べたい。

 幸せにくるみ込まれて、取引先へと向かった。


   ◇


「なあ、俺、さっきさ、めちゃくちゃ眼鏡曇ってなかった?」

 わたしが触れないでいると、自分から言ってくる。

 子供か!

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