「オムカレー」――京都市上京区
「おひるごはん、どうする?」
今日も同僚の茅場とふたりで、担当エリアの営業周りをしている。スポーツ向けエナジーゼリーやサプリメントを販売するわたしたちは、新商品の試食品を携えて京都市は西陣の界隈までやってきた。今出川大宮のバス停で駅まで戻るバスの時刻を調べていると、目当てのバスが接近していることを示すマークが灯った。
「今から会社に戻ったら、昼飯食えるの遅くなるし、この辺で食って行こうぜ」
確かに、今から出町柳駅へ出て京阪電車で北浜の営業所まで戻ったら、おひるごはんにありつけるのは三時くらいになってしまう。
「じゃあこの辺で食べるとして、茅場の嗅覚はなんて言ってるの?」
「マスクしたままじゃわかんねえや。ちょっと外す」
今年の初めごろから世界で猛威を振るい始めた新型ウイルスによる感染症の波は、わたしたちの生活を大きく変えた。一時期と比べると、この国では落ち着いたように見え、こうしてわたしたちも営業まわりを再開した。
マスクが手放せない生活。いつまで続くのだろう。
この時期のマスクは暑くて蒸れるし、マスクの縁にファンデーションがついて手洗いを余儀なくされるし、何よりも「いつ終わるのだろう」という不安な心で落ち着かない。
「そういえば、吉田のそのマスクって自分で作ったもんなの?」
「ああ、これね。うちの弟が急に作ったやつをもらった。ミシンの使い方なんて知らないくせによく頑張ったよ」
「姉弟が仲良いのは良いことだ。うちとは大違い」
「甘やかされて育った弟だけどね。で、茅場の嗅覚レーダーはなんだって?」
彼は一本の通りを指さす。大宮通り。茅場はまっすぐと良い姿勢で北を示した。
この通りのこれより北へは、取引先がないので行ったことがない。何か飲食店があるようにも見えない。たぶん、取引先がないから行ったことがないわけではない。わたしの行動における原動力は、美味しいごはん。
「本当にこっちにあるの? 飲食店のあるような通りに見えないよ、北行きの一方通行だし」
「間違いない。俺の嗅覚がそう言っている」
鼻が何かを言う、というのはなんだか妙な表現だ。
こんなところで時間を食われてごはんが食べられないくらいなら、バスで出町柳駅まで出て何かを食べたらいいのではないかという提案をわたしが口にする前に茅場はずんずんと進み始めてしまった。
大宮通を上がり始めて、すぐ。
「な、あったやろ」
「うん、あった。いい匂い」
昭和レトロな建物に、浅黄色の暖簾がかかる。扉も窓も閉じられているのに、絶え間なく漏れ出す珈琲の香り。
こういう喫茶店のランチが美味しい。
けれど。
喫茶店のランチは総じて物足りない!
そんじょそこらのヘルシー志向な小食小動物系あざと女子ならまだしも、わたしは滝汗を流して足で稼ぐような肉体派女子。唐揚げ、餃子、ラーメン万歳。食生活が男子大学生と言われるようなわたしの胃袋満足させられるようなメニューがあるとは思えない。
「ねえ茅場。喫茶店ランチってくちじゃない。汗もかいたし、がっつりいきたいんだけれど」
「吉田、お前気付かないのか。かすかに、スパイシーな香りが漏れ出してきているだろ」
マスクをしているとわからないので、はずす。外してもわからない。けれど、スパイシーと言われると急激に胃袋が動き始めた。
そのまま入店。奥のテーブル席に通された。
壁には無数のレコード。流れているのはビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」。ポコポコとしたサイフォンの音と相まって、落ち着く空間。
手際よくサイフォンを操る坊主頭のマスターと、若い女性スタッフが一人。
「なあ、あれって親子かな」
「やめて、指ささないの。わたしも、マスターと店員さんの顔が似ているなあとは思ったけれど、たぶん違うでしょ」
茅場の指さし癖をなんとかしないと、なんだかいつか恥をかきそう。
店内をぐるぐると見まわしながらメニュー表を開いたわたしたちは、開いた瞬間に示し合わせたように注文を決めた。
運ばれてきたソレから立ち上る湯気を、余すことなく吸い込みたい。胃袋が急激に動いて、唾液が一気に分泌されて顎がキュっとする。
「オムライスとカレーをいっぺんに食べられるなんて、すげえよ。どっちも俺の一番好きな料理」
「茅場って、何食べても一番好きって言ってない?」
「全部同率で一位」
「女ったらしみたい」
なんてごちゃごちゃ言っている時間がもったいない。こうしている間にも、食欲をそそる湯気は、絶えることなく湧き出ている。
わたしたちが頼んだのは、オムライスにカレーがかかった、好きな物の融合体。ずるい組み合わせ。
まずはルーをすする。
さらっとしているのに、肉や野菜の旨味がそこにいる。固形の具なんてほとんどないのに、具たちが主張してくる。辛すぎることなく、辛いものが苦手な茅場でも食べられるカレーだ。スパイスの爽やかな辛さで、さらさらと口に運びたくなる。カレーって、本当に飲み物かもしれない。
わたしがルーを飲み進めている最中、茅場はあろうことかオムライスとカレーの瀬戸際から一口目を頬張った。
「すげー、なんだこれ、うめえ、このオムライス、なんだ、うめえ」
「美味しいのはわかったから、口に入れたまま喋らないでよ」
「吉田もはやく食えって、うめえから」
「口を開けるな、黙って食え」
茅場が黙ったところで、わたしも波打ち際にスプーンを突き立てた。外はしっかり目、中は柔らかい卵が切り離され、ライスに向けてカレーが流れ込む。
たっぷりカレーを付けて、改めての一口目を頂く。
「え!」
「なんやねん、吉田だって口に入れたまま喋ってるやん」
違う、違うんだ茅場、という想いで右手のひらを茅場の眼前に、左手のひらを自身の口にかざした。
「これ、普通のオムライスじゃないよ」
「ああ、なんか入ってるよな」
入っている、というよりも、これはピラフだ。ピラフのオムライスにカレーをかけるなんて、贅沢すぎる。
今までやったことがないような組み合わせ。これぞ、まさに。
「マリアージュ」
いやいや、待った。オムライスをピラフにした時点できっとそれはマリアージュなので、そこにカレーをかけたら、それは三角関係になっちゃうんじゃないか。それはちょっとドロドロと複雑な気もするけれど、料理は美味しいことが正義。美味しければ、それでいい。
ピラフとカレーだけ掬って食べたり、卵とカレーだけ口にしてみたり、偏った食べ方をしてみた。もう全ての組み合わせが絶妙に感じられ、これは相当こじらせた三角関係らしい。
料理の三角関係の味を知ったわたしは、こんなに贅沢な組み合わせで、一体いくらなんだろうとメニューを開いて見てみた。オムカレー八五〇円のそばに、大切なことが書いてあった。
「ピラフのオムライスって書いてあった」
「そうなんや、メニュー表見たの一瞬過ぎてわからなかった」
メニューを見たのも一瞬、食べ終わるまでも一瞬。
喫茶店ランチと侮ることなかれ。大きな皿に「でん!」と横たえたオムライスやカレー、ピラフの織り成すボリューム感。がっつり食べたい系女子(まだ自分のことを女子って言う)のわたしだってお腹いっぱいになれた。
今日も満足のおひるごはん。八五〇円で買える、幸せと仕事へのモチベーション。これだから外出できる営業部署はやめられない。明日も取引先へ行く予定がある。次のおひるごはんは、どうしよう。明日は何を食べられるかしら。
わたしたちは食後にサイフォンで淹れた珈琲を嗜んで、職場への帰路についた。
◇
「ところで、茅場の中でピラフは何番目?」
「一位だな」
「あっそ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます