第9話 悪魔の涙 終章
バリ島のホテルに帰ってきた。
東洋と西洋の豪奢が溶けあった、ヴィラの一室。
ニョマンは警察に引き渡され、アングレアニは泣きぬれていたものの、そのおもてには、どこか清々しいものがあった。恋人がすでに亡くなっていたことは悲しいが、二人の愛が本物だったという事実が彼女の胸に残ったからだろう。
「あの指輪が、わたしを呼んでいたんだと思います。きっと、クルニアワンの魂が宿っていたのでしょう」
そう言って、アングレアニは去っていった。
恋人を信じ続けた彼女は、なんて強いのだろうと龍郎は思う。
「不思議な事件だったね。ホテルの庭で、思い出の場所に行ってくれと伝言を頼んだ男は、最初に波間で見た霊と同じ顔だった。だから、クルニアワンが生きていないことはわかっていたんだけど。あの崖、地元では『レインボー・クリフ』って呼ぶんだって。呼び名が違うと、ずいぶん印象が変わるな」
ホテルの部屋に入ると、青蘭は神妙な顔つきで龍郎を見つめてきた。
「龍郎さん」
「うん。何?」
「僕、龍郎さんに言っとかないといけないことがある」
もちろん、青蘭は隠していることを打ちあけるつもりなのだ。
それは、わかる。
しかし、真剣な面持ちでそんなふうに切りだされると、別れ話なのかと勘ぐってしまう。ドキドキしながら待っていると、青蘭は口をひらいた。
「フレデリック神父が……」
ああ、やっぱり神父か。
神父と何があったんだ?
「苦痛の玉のカケラを持ってるんだ」
「えっ?」
それはあまりにも予想外の内容だったので、龍郎はしばらく認知機能が停止した。神父とキスをしたとか、神父が気になるとか、神父とつきあうことにしたとか、そんなことを告白されると覚悟を決めていたのに。
「フレデリック神父が?」
「うん」
「苦痛の玉のカケラを?」
「うん」
「どこに持ってるの?」
「左手のなか。龍郎さんみたいに手のひらに埋没してる」
「おれにナイショにしてたのって、そのこと?」
「そうだけど?」
龍郎は吐息をついた。
「……なんで、言わなかったの?」
すると、ふいに青蘭の瞳がうるむ。
泣きだしそうな目で龍郎を見るので、胸が痛んだ。
「責めてないよ。秘密にしとくようなことじゃないと思ってさ」
「だって……苦痛の玉が全部そろったら、快楽の玉と一つになるんだよ? 僕か、龍郎さんが消えてしまうんだ。そんなの、イヤだ。ずっと龍郎さんといっしょにいたい」
「青蘭……」
なんてことだろう。
青蘭は龍郎を裏切ってなどいなかった。それどころか、こんなにも深く龍郎を愛してくれている。
(ああ、クソッ)
青蘭の浮気を疑うなんて、自分をなぐってやりたい。
「ごめん。青蘭」
「なんで龍郎さんが謝るの?」
「…………」
龍郎が信用してなかったなんて言ったら、青蘭はひどく傷つくだろう。
申しわけなさでいっぱいだ。
もう二度と青蘭を疑うことはしない。何があっても絶対に信じると、龍郎はひそかに誓った。
「なんでもないよ。それより、苦痛の玉のカケラか。あと二つあるんだよな。そのうちの一方をフレデリックさんが……」
「どうするの?」
「青蘭のお父さんの星流さんもカケラを持ってた。おれがそれを継承するとき、たがいに相手を受け入れる気があったから、できたんだと思う。たぶん、むりやり奪いとることはできないよ。フレデリックさんがおれに譲るつもりなら、とっくにそうしてるはずだ」
悪魔退治の力は強くしたい。
しかし、そうすることによって、青蘭との今の時間が失われていく。
なんとか解決法はないのだろうか?
それにしても、カケラの一つを神父が所持しているのなら、残る一つはどこにあるのだろう。
もうすぐ、快楽の玉は満たされ、青蘭の全身が契約のもとアンドロマリウスのものになるという。
まもなく、そのときが来ると。
苦痛の玉も、じょじょにではあるが行方がわかってきた。
あるいはすべて集まる日が近いのかもしれない。
そして、大きなうねりが押しよせる。
それはもう間近に……。
*
翌日。
ウルワツ寺院へ向かった。
清美のお待ちかねの観光地だ。
ホテルで現地のツアーを予約して、送迎車に来てもらって移動した。
かなり早めに到着したため、あたりをウロウロする。寺院を見物したり、土産物屋をのぞいたり。
「青蘭。ルドラクシャだ。記念に買おう」
「おそろい?」
「おそろい」
「じゃあ、買う」
ルドラクシャは菩提樹の種のことだ。本来は
ケオンもルドラクシャも幸運のお守りである。
「ああ、至福。眼福です! もっとイチャラブしてもらいたいです。でも、急いでください。五時すぎました。いい席とらないと! ウルワツに来たら、ケチャックダンスを見ないとですよ。ガイドさんがチケット買ってきてくれました」
騒々しい清美にひっぱられて、寺院の広場へ急ぐ。大勢の観光客がみんな一方向に突進していく。すごい熱気だ。
ケチャは六時から開演だというが、ずいぶん早くから陣取り合戦が始まっていた。幸いにして時間が早かったので、中央舞台と海を正面に見渡せる最良の席がとれた。
ゆっくりと日が傾く。
金色に海が輝く。
そのなかで、ケチャックダンスは始まった。
四方をかこむ観客席はすべて人で埋めつくされ、数百人が密集している。
中央舞台には上半身裸の男たちが現れ、車座になって歌いだす。
ケチャケチャケチャ、チャチャチャと独特のリズムが人の口から紡がれる。
ウブドで聞いたガムランの音も中世的で印象深かったが、これも素晴らしい。
やがて、仮面をつけ華やかな衣装をまとったダンサーが登場し、男たちのまんなかで妖しく舞いおどる。
刻一刻と暮れる大海原。
漆黒の闇がおとずれる。
舞台に火が焚かれ、オレンジ色に夜を染めた。
なんだか胸が苦しい。
今ここで青蘭と手をとりあい、愛をささやきあうことは、決して永久ではないのかもしれない。
だが、この一瞬は、たしかに二人——
第八部 完
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