第9話 悪魔の涙 その六



 カフェを出ると、まもなく、龍郎は違和感をおぼえた。

 つけられている。


「青蘭、うしろ、誰かついてきてる?」

「わかんないよ。観光客が何人もいるから」


 バイクの運転に自信がないので、うしろを気にしてはいられない。

 しかたなく、神父のむかったほうへと急いだ。

 バリ島の人ごみにはスリや置き引きが多い。この場所は繁華街とは言えないが、ここにもそういった手合いがいるのかもしれない。


「わあっ、ゆれるね。龍郎さん」

「すごい悪路だなぁ。だまってないと舌かむぞ。青蘭」

「でも、アトラクションみたいで楽しい。思ったんだけど、僕たち、まだ遊園地に行ったことないんじゃない?」

「廃墟になったやつなら行ったけどね」


 大声で言いあううちに、背後の気配のことは忘れてしまった。相手が悪魔ではなさそうだったからだ。悪魔に特有の匂いを感じない。

 あまつさえ、龍郎があまりにも遅いので、数人が追いこしていった。彼らは尾行者ではないようだ。


 ゆるゆると進んでいくと、意外にもすぐに潮騒が聞こえてきた。

 ドリームビーチの駐車場から、ほんの数百メートルだ。これなら歩いてくることもできた。


「このへんで降りようか」

「うん。すごい音だね」

「波が激しいんだろうね」


 数台、バイクが停まっている。

 龍郎たちも路肩に停車して、歩いていった。


 おそらく、あれが悪魔の涙だろう。背の低い植物が遠慮がちに茂るあいだを、けっこう広い道が通っている。崖まで視界をさえぎるものがない。


 遠くのほうに立つ神父とアングレアニが見える。豆粒——とまでは言わないが、一寸法師くらいには小さい。それでも、長身で銀髪の西洋人は目立った。


(やっぱり、カッコイイよな。なんでもできるし、大人だし、いかにも頼れる男。だから、青蘭も……?)


 物思いにふけっていると、そっと青蘭が手をにぎってきた。

 青蘭が龍郎に甘えたいのは嘘じゃないだろう。

 でも、その真意におびえてしまう。

 このままではいけない。

 やはり、青蘭に聞いてみるべきだ。


「ねえ、青蘭……」


 君は何を隠してるの?

 いや、違う。

 ほんとに聞きたいのは、それじゃない。


 君が愛してるのは、おれ?

 それとも苦痛の玉の持ちぬし?


 龍郎を見つめる瑠璃色の瞳を見返すことができなかった。

 問いかけたいのに切りだせない。

 答えを聞くことが怖いからだ。


 視線を崖のほうに戻した龍郎は、ハッとした。神父たちのうしろから近よっていく女がいる。Tシャツにハーフパンツという観光客のような風態だが、態度がおかしい。あきらかに二人を狙っている。まっすぐに背中を見ながら、ぬき足さし足で忍びよっていく。


「青蘭、急ごう!」

「どうして?」

「フレデリックさんたちが危ない!」


 龍郎は青蘭の手をひいて走った。

 三十メートルほどの距離だ。

 でも、もう相手は神父たちの真うしろに迫っている。両手の平を胸の前で広げるそのポーズは、誰かをつきとばすときのソレだ。


「フレデリックさん! 危ない!」


 いや、神父じゃない。

 女の標的はアングレアニだ。


 なぜ、神父が気づかないのだろうかと考え、理解した。波音が強すぎて、ひそかな足音など聞こえないのだ。


 目に見えているのに、手の届かない圧倒的な距離感。

 もうまにあわない。


 龍郎は無意識に悪魔と戦うときのように、右手を高くかかげた。青い光が真昼の陽光さえ引き裂くように輝く。霊能力のない人には見えなかっただろう。が、女はひるんだ。他人を殺害しようとする邪な心が、浄化の光によって照らしだされたせいかもしれない。


 その光に反応するように、神父が龍郎のほうを見た。そして、背後に立つ女に気づく。

 神父は柔道の心得もあるらしい。きれいに一本とって、くるりと女を地面にひっくりかえす。


 直後、龍郎たちも断崖絶壁にたどりついた。

 なるほど。悪魔の涙だ。

 崖にかこまれて涙の形に切りとられた湾。涙は、怖いほど澄んだブルー。


「……よかった。フレデリックさんが気づいてくれて。この人がアングレアニさんをつきとばそうとしていました」


 女はジャワ語で何やらわめいている。

 よく見れば、ドリームビーチからここへ来るあいだに、バイクで龍郎たちを追いぬいていったうちの一人だ。つけてきていたのは、この女だったのだ。


「ここから落ちたら、ただじゃすまないな。以前にも何度か観光客が落下している。死亡者も出ているはずだ」と、神父が言う。


 たしかに、十数メートルか、それ以上はありそうな断崖だ。落下防止の柵はいっさいない。打ちつける波も高く、水しぶきが龍郎たちのところまで届くことさえある。落ちれば、よほどの水練でなければ助からない。


 神父が女に問いただした。

「なんのために彼女をつき落とそうとした?」


 女は罵声を浴びせるばかりだと、なんとなく語調から察した。

 だが、かわりに、青ざめて黙りこんでいたアングレアニがつぶやく。


「……ニョマン・リタ・マレッタです。この人がクルニアワンの幼なじみ。以前、クルニアと話しているのを一度だけ見たことがあります」


 名前も顔も知られていたことがショックだったのか、急にニョマンは泣きだした。早口に叫ぶのは弁解の言葉のようだ。

 あとでアングレアニに教えてもらったところによれば、こういうことだった。


 ニョマンは子どものころにクルニアワンと結婚の約束をしていた。が、成人したクルニアワンは別の人と婚約した。彼をあきらめきれなかったニョマンは、ドリームビーチにある自分が働いているカフェに、クルニアワンを呼びだした。


 同僚の目をさけて悪魔の涙で話すうちに口論となり、はずみでクルニアワンをつきおとしてしまった。彼は浮かんでこなかった。怖くなったニョマンは、クルニアワンが落としたスマホから偽装メールをアングレアニに送った。これでごまかせたと思っていたのに、今日になってアングレアニがやってきたので、自分の罪を暴かれると思い、殺害におよんだ。


 恋敵の告白を聞いて、アングレアニは涙をこぼした。


「そうじゃないかと思っていました。あの人がわたしに嘘をつくはずないから。わたし、クルニアワンを信じていました」


 その瞬間、きわだって高い波が岸壁でくだけた。水しぶきが舞いあがり、霧のなかに虹が浮かぶ。

 それはまるで、クルニアワンの天国からのメッセージのよう……。

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