第9話 悪魔の涙 その四



 アングレアニは休憩時間が終わるからと言って帰っていった。


 時刻は午後の四時すぎ。

 何をするにも中途半端だ。


 部屋に二人でいると、また青蘭を問いつめてしまいそうになる。

 そうなると口論だ。

 ケンカをしたいわけではない。


(そうだ。青蘭から聞けないなら、神父を問いつめたらいい)


 とつぜん、龍郎は思いたった。

 神父は龍郎と青蘭を監視するために、ずっとホテル内にいるはずだ。神父は一人なので、ヴィラではなく本館のスイートルームをとっている。そこだって一泊数万ないし数十万はするだろうが、ことによると経費で落とせるのかもしれない。たとえそうでなくても、神父は高級とりだ。


「ちょっと出かけてくる」

「どこに行くの? 龍郎さん」

「えーと……散歩だよ。青蘭は休んでるといい」

「でも……」


 青蘭の泣きそうな目を見ると、心がゆらぐ。本来なら異国情緒たっぷりの豪奢な部屋から、二人で夕焼けを見るだけで幸福な気分になれただろうに。


 龍郎はふりきるようにヴィラを出た。庭のなかにある敷石された歩道を、本館にむかって歩いていく。


「あの、すいません」


 とつぜん、呼びとめられた。

 まわりに人がいると思っていなかったので、驚いてふりかえる。

 現地人らしき若い男が立っていた。特別ハンサムではないが、優しそうな目をしている。


「はい。なんですか?」

「あなたにお願いがあります」

「はい?」

「アングレアニに伝えてください。二人の思い出の場所で待っていると」

「えっ? アングレアニさんですか? もしかして、あなた——」


 行方不明の婚約者ではないかと、問いただそうとした。が、そのときには男の姿は樹間に消えていた。歩道をそれて探してみたが見あたらない。

 しかたなく、エントランスへ急ぎ、アングレアニにこのことを伝えた。


「どんな人でしたか?」


 龍郎は男の特徴を告げた。

 アングレアニが眉をひそめる。


「……それは、きっと、クルニアです。二人の思い出の場所と言ったのですね?」

「はい。たしかに。心あたりがありますか?」

「悪魔の涙です。結婚の約束をした場所です」

「悪魔の涙?」

「レンボンガン島にある絶壁です。わたし、明日は休みなので行ってみることにします」

「そうですか」


 恋人と再会できると思ったせいか、アングレアニは見るからにホッとしたようすで表情も明るい。


「それにしても、よくクルニアと話せましたね。彼はバリ語しかしゃべれないんですが」


 そう言われれば妙だ。

 日本語で呼びかけられたような気がしたのだが。


 龍郎は急に心配になった。

 さっきのあの男、あきらかに……。


「明日ですか。さしつかえなければ、おれたちもついていってかまいませんか? 遠くから見ているだけで、ジャマはしませんので」


 アングレアニは迷惑だったかもしれないが、いちおう了承してくれた。

 明日の朝、いっしょにレンボンガン島行きのフェリーに乗船する約束をして別れた。


 さて、そのあとは神父と対決だ。

 龍郎はエレベーターに乗りこむと、三階にある神父の部屋へ急いだ。

 廊下を迷っているあいだ、こんなところで自分は何をしているのだろうという自嘲的な気分におちいったものの、ほどなく神父の部屋を見つけた。


 ドアを叩くと神父が現れた。

 神父はテーブルセットの置かれたリビングルームに龍郎を招き入れる。ベッドは見えないから奥の部屋にあるのだろう。窓からは輝くような青い海が見渡せる。


「おやおや。どうした? ボーイ。血相変えて?」

「からかうのはよしてください。あなたに聞きたい。青蘭とあなたのあいだに何があったんですか?」

「何がって、何も?」

「そんなはずがない。食堂で青蘭に問いかけていたじゃないですか。言いかけてやめるなんてズルイですよ」


 だが、神父は龍郎の顔を見て笑いだす。


「青蘭に聞けなかったから私のところへ来たんだろ? 恋人を信用できないなんて、よくないな」

「…………」


 これは詰問してもムダだという気がした。神父には答える気がない。大人の余裕をかましてくれている。


「……フレデリックさんは星流せいるさんの恋人だったんですよね?」

「それが何か?」

「でも今は息子の青蘭に惹かれてる」

「うん。否定はしないよ」


 やっぱり、そうか。否定してもよかったのにと、龍郎は思う。


 青蘭が愛しているのは、おそらく、龍郎自身ではなく、“苦痛の玉の持ちぬし”だ。だから、青蘭が神父になびくとは思えないのだが、言いかえれば、それは龍郎が苦痛の玉をなくしたら、青蘭の気持ちも離れていくということ。神父にまったく可能性がないわけじゃない。


「でも、それは星流さんの面影を追ってるだけじゃないですか?」


 せめて一矢むくいてやろうとしたが、


「私に一生、死んだ人の墓を守れと?」


 返り討ちにあってしまった。

 たしかに、故人の思い出を大事に一人で生きるか、新たな恋を見つけるのかは当人の自由だ。


「……もういいです」


 口で勝てる気がしないので、龍郎はひきさがった。

 部屋を出るとき、背後から神父の声が届いた。


「龍郎くん。ウカウカしてると遠慮なくさらっていくよ? 後悔はするな?」

「…………」


 これは忠告なのか。

 はたまた宣戦布告なのか。

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