第9話 悪魔の涙 その三
指輪の処理を受付の女性に任せて、龍郎はヴィラに帰った。完全に周囲から隔絶された一棟だ。部屋のなかには青蘭しかいないはずなのに、話し声が聞こえる。
「……いいのか? 青蘭。龍郎に言わなくて」
「だって……」
「とても大事なことだぞ?」
「わかってるけど」
あのしわがれた低音の声は、アンドロマリウスだ。
龍郎がアンドロマリウスと話せるのは、青蘭が失神したり眠っているときなど、意識がないときにかぎられている。が、青蘭自身は両者の心の距離さえ近ければ自由に会話できるらしい。これまでにも何度もそういう場面に出くわした。
(やっぱり、青蘭はおれに隠しごとしてるんだ)
忘れかけていた胸の痛みがジクジクと蘇る。
青蘭はフレデリック神父と何かあったのだろうか?
そう言えば、神父は青蘭に気があるようなのだが……。
考えられるとしたら、この前、青蘭がティンダロスにさらわれたときか。龍郎が青蘭を見つける前に、神父がそばにいた。
龍郎は思わず室内にかけこみ、青蘭の腕をつかんだ。青蘭が緊張したおももちで見あげる。
「青蘭」
おれに隠してることがあるなら言えよ——と言いかけた。
が、そこへトントンとドアをノックする音が響く。
しかたないので、龍郎は青蘭の手を離し、ドアをあけた。ホテルの制服を着た女が立っている。受付にいたあの人だ。龍郎の渡した指輪を見て涙を流していた。
「すみません。お話したいことがあります。入ってもよろしいですか?」
龍郎は青蘭をうかがった。
青蘭はうつむいて龍郎を見ないようにしている。
嘆息しながら、龍郎はうなずく。
「いいですよ。どうぞ。すわってください」
リビングルームのソファに女性をすわらせた。彼女は英語のほか、かんたんな日本語なら話すことができると言い、アグン・アングレアニと名のった。イニシャルはAAだ。
(アグンか。英雄さんと同じだな。てことは、この人も先祖が武士か王族なんだな)
考えていると、アングレアニが話しだす。おそらく勤務中なので時間がないのだろう。早口の英語で聞きとるのに少し苦労した。
「じつは、この指輪、わたしがある人にあげたものなんです。浜辺でひろったとおっしゃいましたよね? 近くに男性がいませんでしたか?」
「いえ。男性なんていませんでしたよ。まわりに人影はありませんでした」
「そうですか……」
ガッカリしたようすで、アングレアニは立ちあがる。
「失礼しました。お客さまのお時間をさいていただき、ありがとうございました」
去ろうとするので、龍郎は呼びとめた。
あの指輪はどう見ても婚約指輪か結婚指輪だった。つまり配偶者かそれに近い男性の指輪だ。指輪の持ちぬしを探しているということは、配偶者が行方不明になったということではないだろうか?
「待ってください。婚約者を探しているんですよね? よければ事情を話してもらえませんか? おれたちは日本のバリアンなんです。もしかしたら力になれるかもしれない」
占い師を信用するかしないかは、バリ人のあいだでもそれぞれなのだろうが、彼女は信頼したようだ。あるいは、すぐにいなくなる観光客だからこそ相談しやすかったのかもしれない。
しばらくためらったのち、アングレアニは重い口をひらいた。
「相手の男性はカデック・クルニアワンです。わたしたち、両親に結婚を反対されていました。でも、愛しあっていたのです。それなのに、とつぜん、いなくなってしまって……」
「なぜ、結婚を反対されたんですか?」
「それは……」
両親に喜ばれない結婚。
身分違いだと龍郎は悟った。アグンもそうだったが、女性のほうが男性より身分が高いと、古いしきたりでは結婚できない決まりになっている。
「あなたはサトリアですね? カデックさんは?」
「……スードラです」
やはり、思ったとおりだ。
スードラはバリ・ヒンドゥーの最下層だ。
「女性のほうが身分が高いと、そんなに困るんですか?」
「はい。バリでは誰かが亡くなったとき、多くの人に祈りを捧げてもらうことで、功徳がつまれると考えられています。でも、故人の身分が自分より低いとき、お祈りしてはいけない決まりです。わたしがスードラの家庭に嫁ぐと、わたしや、わたしの子どもは、夫や夫の両親に祈りを捧げられません。それはとても悲しいことです」
「そうなんですね」
だからこそ、ウブドのアグンも駆け落ちするしか方法がないと言っていたのだ。
「カデックさんがいなくなった原因がわかりますか?」
たずねると、アングレアニは一瞬、口ごもる。ためらうようすが見えた。
「…………」
「言いたくなければかまいませんよ」
ムリ強いはしたくなかったので断ると、逆にそれが決心させたようだ。アングレアニは口重く語る。
「カデックにはニョマン・リタ・マレッタという同じスードラの幼なじみがいます。その女といっしょにジャカルタで暮らしていると手紙が来ました。だから、自分のことは忘れてほしいと……」
つまり、結婚の約束をしたものの、身分の違いから断念して、手軽な幼なじみといっしょになった。面目ないので恋人の前から姿を消した——ということではなかろうか。
なんと答えたものか困っていると、アングレアニは龍郎の表情から察したようだ。
「違います! クルニアはそんな不実な人ではありません。たしかに身分の差はあります。わたしと結婚することをあきらめたとしても、だからと言って、こんなにもすぐに別の人といっしょになるなんて、そんなことするわけありません!」
「…………」
本人の人柄を知らないから、龍郎にはなんとも言えない。
だが、今の自分と青蘭の関係を思うと、なんとなく
やはり、愛は永遠ではないということか?
愛しあっていると思っていても、ひそかに秘密はできてしまう。
それが愛というもの……。
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