第9話 悪魔の涙 その二
たまたま波の形が人のように見えたのだろうか?
それにしては、くっきりと顔立ちまで見てとれたのだが。
しかし、いないものはいない。
龍郎は気をとりなおして、見つめている青蘭に笑いかけた。
「ごめん。見間違いだった。そろそろお昼時だよ。昼食にしよう。ホテルのなかのレストランでいいかな?」
「うん」
ホテルに帰り、レストランに入る。
ちょうど昼食の時間帯だから、フレデリック神父も来ていた。
「やあ」と声をかけてくる。
「こんにちは」と返すものの、できれば今日は会いたくなかった。青蘭と二人きりの気分を満喫したかった。
だが、向こうは手招きをしてくる。しかたないので相席した。
神父はかなり食事が進んでいて、すでに食後のコーヒーを飲んでいる。
「もう青蘭からは聞いたかな?」
いきなり謎をかけてくる。
「何をですか?」
「ふうん?」
神父は答えず、まじまじと青蘭を見つめる。
青蘭が少しうろたえた。
なんだろうか?
二人のあいだに何かあったのか?
「いや、それならいいんだ。では、どこかへ出かけるときは知らせてくれ。君たちを見張っていなきゃいけないのでね」
そう言って席を立ち、神父は青蘭の耳元に唇をよせる。何事かささやいたようだ。
なんだか、不愉快だ。
胸の奥が真っ黒になった目玉焼きのようにガリガリに焦げつく。
妬いてるなと自分でもわかる。
そのあと、神父のいた席でシェフお任せの昼食を食べた。本来は舌鼓を打つほど美味なはずなのに、ちっとも味がわからない。
「……龍郎さん。怒ってる?」
「えっ? 怒ってないよ」
「そう?」
「うん」
味気ない食事を終え、いったん部屋に帰った。ほんとうはこのあとも室内でゆっくりしているつもりだった。二人だけの時間をすごせると思っていたのだが……。
(ダメだなぁ。今のおれ。青蘭がおれの顔色うかがってる)
好きな人に気をつかわせている。
こんなことでは楽しめない。
腹立たしいのは、青蘭の挙動があきらかに怪しいところだ。龍郎に何かを隠しているように見える。
今は二人でいることが、むしろ苦痛に感じられた。
「……海水浴しようか。この前、清美さんにつきあって水着、買ったろ?」
「僕、泳げないよ」
「おれが教えるからさ」
「……うん」
気をまぎらわすために、泳ぐことにした。部屋で水着に着替えてから、ふたたびビーチへ出ていく。青蘭は水着の上にTシャツを、龍郎はパーカーをはおった。プライベートビーチだから観光客に出会うことはないが、ホテルの客には会うかもしれない。
ビーチサンダルをはいて庭に出ていくと、ハイビスカスの赤い花や、宝石のような海の色が、チクチクする胸の痛みを静めてくれた。
「キレイだなぁ。おれは山育ちだけど、親戚の家が海沿いの町にあってさ。夏休みにはよく遊びに行ったんだ。実家の近所の川じゃ、毎日みたいに泳いだし、安心して頼っていいから」
「うん……」
最初は不安そうだった青蘭も、浅瀬で龍郎に支えられ、プカプカ浮かんでいるうちに、心から楽しそうにハシャギだす。薄いTシャツが波のイタズラでめくれあがり、素肌が密着する。
龍郎は胸がドキドキしてきた。さっきのチクチクとは違いすぎる心地よさ。小さなことで悩んでいることがバカらしくなる。
「うまいぞ。青蘭。力をぬいて」
「こう?」
「そうそう。手、離すよ? ここまで泳いできてごらん」
「遠いよ。そんなとこまで行けない」
「大丈夫。もう泳げる。あとは息継ぎだけできるようになればいい」
「そうかな?」
「おれを信じて」
小さな波がよせては返す。
青や黄色やシマシマの色あざやかな魚がたくさん群れていた。ホテルの客が餌づけでもするのか、意外なほど近くを通りすぎる。
「あっ、今、何かが足をかすったよ。魚かな?」
「人なつっこい魚だな」
しだいに龍郎の支えなしで、一人で波とたわむれる青蘭。
愛しさで胸がいっぱいになっていた。
が、とつぜん、波間に青蘭の姿が飲みこまれる。浅瀬だから安全だと思っていたが、急に深くなったところでもあったのだろうか?
龍郎はあわてて水中にもぐった。
一瞬、青蘭の足に何かがからんでいるように見えた。
海藻? それとも魚だろうか?
なんだか人間の手のように見えて薄気味悪い。しかし、青蘭がもがいて海底の砂が舞いあがっていたため、明瞭には見えなかった。
青蘭の脇の下に両手を入れ、水上にひきあげる。
「大丈夫? 水飲んだ?」
「……苦しい」
「ごめん。やっぱり、まだ早かった」
青蘭の腰に腕をまわし、砂浜へつれていく。しばらく青蘭はせきこんでいたが、水はたいした量ではなかったようだ。
「フロントに頼んで医者に診てもらう?」
「もう平気。でも、疲れた」
「そうだね。部屋に帰ろう」
歩きだそうとしたとき、とうとつに青蘭が「あッ」と声をあげた。
「どうしたの?」
「足に何か」
青蘭の足指に指輪がまとわりついている。龍郎はしゃがみこんで、それをひろいあげた。
「これ、結婚指輪か婚約指輪じゃないかな? なかにイニシャルが刻まれてる」
「すてとけば?」
「そうはいかないよ。大事なものだ」
大文字のAAとKKのあいだに小文字でtoと入っている。つまり、AAさんからKKさんに贈られたものだ。
龍郎は青蘭を部屋につれ帰ったあと、一人でエントランスの受付カウンターまで行った。
「これ、落し物です。さっき浜辺でひろいました」
英語で説明すると、受付の女性が目をみはる。ジャワ語で何やらつぶやいたのち、瞳から涙がこぼれおちた。
見れば、女性の指にまったく同じデザインの指輪が光っていた。
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