第9話 悪魔の涙

第9話 悪魔の涙 その一



 まだバリ島にいる。

 連日の観光で、さすがに龍郎と青蘭は疲れを隠せない。

 清美だけが元気だ。


「楽しかったですねぇ。キンタマーニ高原! 大自然。活火山。たまにはハイキングもオツなもんです。じゃあ、明日からは拠点をデンパサールに移しましょう。ウルワツ寺院やタナロット寺院に行くにもほどよいし、クタのビーチや繁華街にも行けますし」


 島の中央や北部はだいたいまわったので、次は浜辺だ。清美は南部の観光地も網羅もうらするつもりらしい。


 長らく宿泊していたウブドのホテルを離れ、デンパサールに移動した。ヌサドゥアビーチ沿いにあるヴィラ形式の豪華なリゾートホテルだ。ホテルにはプライベートビーチがあって、ヴィラからちょくせつ歩いていける。ゆったりと優雅なバリ風の室内も落ちついていて、一日ホテルですごしても充分、楽しめる。周辺の海はシュノーケリングが楽しめるほど美しい。


「清美さん。好きなところに行ってきてください。おれと青蘭は明日からしばらく、ホテルで休んでいますから」

「えっ? ほんと? いいの? もったいないですよ? バリの観光地は今しか見れないんですよ?」


 清美の元気の原動力はどこから来ているのだろう? もったいない精神だろうか?


「……ウルワツ寺院はガイドブックでも、たいてい人気ランキング一位になってるので行ってみたいですが、ほかはいいです」

「わっかりました。了解です!」

「穂村先生、清美さんのボディガードについていってもらってもいいですか?」

「うん? かまわんよ」

「タナロット寺院の夕景を見てきますので、帰りは遅くなりまーす。晩ご飯はさきに食べててくださいね」


 元気をムダにまきちらして、清美は出かけていった。明るくて、きどらないし、とても楽しい女性なのだが、あのパワーにはついていけないと思わないでもない。


「今日は二人っきりで、ゆっくりすごせるね。龍郎さん」


 青蘭は上機嫌で腕をからめてくる。正確にはフレデリック神父がホテルにいるのだが、そこは無視すると決めこんだらしい。


 朝食をルームサービスですまし、プライベートビーチを散策した。


 周囲をいろどる濃緑の見なれぬ植物。

 サクサクと足元でくずれる白い砂。

 澄みきったアクアマリンの海原。

 おだやかな波音。

 波打ちぎわで海水にもてあそばれる貝がら。


 人影もほとんどない。

 南国の海を独占だ。


 ほどよい日陰になるヤシの木の下にハンモックがかけられて、二人を誘っていた。


「気持ちよさそうだね。青蘭、あそこで休もう」

「うん」


 青蘭は細くて軽いし、ハンモックは西洋人でもゆとりのサイズなので、二人でよこたわることができた。

 涼しい木陰にゆれるハンモック。ぴったりとよりそってくる青蘭の甘い香り。心地よい風がやわらかく肌をなでる。


 まるで楽園だ。

 ずっと、こうしていたい。


(なんだか、前にもこんなふうに二人で……)


 時を忘れて風にゆられているうちに、いつしか寝入っていた。

 夢を見ている。

 ここととてもよく似た美しい浜辺。

 岩陰の入り江で波の音を聞きながら、愛しい者と抱きあっている。


「ねえ、……エル。君は今で何回めの転生なの?」

「えーと、たしか七回めだったかな?」

「前の伴侶のこと、おぼえてる?」

「忘れたよ。みんな、そうなんだ。新しい卵から生まれるときに、前の生涯のことは全部、忘れるようになってる」

「そうなんだね……」


 アスモデウスの比類なく美しいおもてに、大粒の涙が浮かびあがる。

 彼はおどろいて、見つめた。


「どうしたの?」

 そっと、ささやくと、

「わからない。ただ、悲しくて」と、答えが返る。


 悲しい?

 そんなふうに考えたことはなかったけど、もしかして、そうなんだろうか?

 以前のつがいの相手のことは忘却した。だが、今のこのアスモデウスを想う愛しさを、きっとそのときにも感じていたはず。

 だとすれば、その想いはどこへ消えてしまったのだろうか?


 涙ながらに、アスモデウスは訴える。


「君のことを……忘れたくない」

「おれもだよ」

「じゃあ、約束」

「なんて?」

「未来永劫、愛し続けると」

「ああ。約束だ」


 以前の相手とも、そんな誓いをかわしたのだろうか。わからない。なにしろ、おぼえていないから。転生の回数だけは、天界の記録に残っているからわかる。でも、それだけ。


「……アスモデウス。君は初めての転生になるね。後悔はない? おれとつがいになること」

「後悔はないけど……」


 心臓を重ねれば、どちらかが消える。

 愛する者と一体になれるのだと思えば嬉しくもあるが、でもその存在は忘れられ、二度と会うこともできない。それは悲しい。


 アスモデウスはパラサイターだ。パラサイティクスによって誕生した。そういう者がつがいになると、たいてい残るのはパラサイターのほうだという。


(おれが消えるのは、かまわない。でも……)


 ずっとこのままならいいのにと、願ってしまう。

 永遠に、このまま……。


 ふと、耳元で砂をふむ音が聞こえた。

 龍郎が目をあけると、青蘭が腕のなかで気持ちよさそうに眠っている。その幸福そうな寝顔を見ると、思わず龍郎も笑みがこぼれる。


 それにしても、今の足音は誰の者だったろうか?


 あたりを見まわすと、男が海中に立っていた。

 龍郎はギョッとした。

 男は服を着たまま海水につかっている。それも、胸までだ。全身がずぶぬれで、髪からはポタポタとしずくがしたたっている。服装や浅黒い肌などから見て現地の人のようだ。

 もしかして溺れてるんじゃないかと、龍郎はあせった。


「青蘭。ちょっと起きて。おれ、あの人のこと見てくるから」


 青蘭がぼんやりしながら起きてくる。鳥の羽ばたきのように長いまつげを二、三度バサバサさせる可愛い仕草に、ついつい見とれてしまう。


「どうしたの? 龍郎さん」

「人が溺れてるんだ。助けないと」

「えっ? どこ? 人なんていないよ?」


 あわてて龍郎がビーチを見なおしたときには、男の姿は消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る