第8話 罪深き時のかなた その三
マイノグーラが消えると同時に、六道の光と、その途中にある三角形の黒いゲートが急速に薄れていった。
最初から幻だったかのように、わずか数分であとかたもなく消え失せる。
「ゲートが閉じた……のか?」
つぶやく龍郎に答えたのは穂村だ。
「二つの世界をつなぐ鍵であるマイノグーラが消えたからだ。この土地が六道に通じやすい性質を持ってはいるのだろうが」
「ではもう、ここに六道が現れることはないですね?」
「うん。マイノグーラが復活しないかぎりはな。クトゥルフのように分身を作ると聞いたことはないから、問題ないだろう」
「とすると、ティンダロスの猟犬も?」
「ああ。あれはマイノグーラのしもべのようなものだからな。とがった時間を侵さないかぎりは向こうからやってくることはない」
それならもう、この村は安心だ。
だが、犠牲も大きかった。
邪神を焼きつくすほどの浄化の光だ。あの忌まわしい粘液に覆われていたナシルディンも、マイノグーラとともに燃えつきてしまった。他の村人たちは表面の粘液が消えるだけだったのに、ナシルディンは自身が消滅した。
「ナシルディンくんはこの洞窟を調べているときに、おそらくゲートのなかへ迷いこんでしまった。そのとき、ティンダロスの混血種になったのだろう。粘液に肉体の内部まで侵食されていたのだ」と、穂村が説明してくれた。
「ナシルディンさん。プトリさん。せっかく再会できたのに……」
結婚を約束していた二人が時を同じくして死す。
なんだか、運命のようだ。
とても悲しい定め……。
「英雄さん。大丈夫ですか?」
声をかけても、アグンはぼんやりしている。次々に現実ではないようなことが起こり、思考が停止しているようだ。
ガブリエルが言った。
「龍郎。ムダだ。邪神をまのあたりにした人間は正気を保つことができない。君たちのように賢者の石の力に守られていれば別だが」
なるほどと、龍郎は思った。
これまで何度も邪神に遭遇したものの、とくに精神に弊害もなく暮らせているのはそのせいかと、妙に納得した。
「だからと言って、このままにはしておけない。つれて帰りましょう」
龍郎はアグンの肩に腕をまわし、立ちあがらせようとした。
アグンの口から嗚咽がもれる。
龍郎も実の兄が邪神の奉仕者に殺されたときはつらかった。アグンの気持ちはよくわかる。
あのころ、今ほどの力があれば、兄は死ななくてすんだ。
でも、どうしようもなかったのだ。
せめて、これ以上、後悔しないために、精一杯のことをしようと決心するばかりだ。
「英雄さん」
苦痛の玉の持つ浄化の力が、人の心にも効くのだろうかと、龍郎が考えていたとき。
ふうっと、ほのかな光が立った。
崖のふちに、ゆらめくような人影がうっすらと見える。
「プトリ!」と、アグンが叫ぶ。
たしかに、それはプトリだ。
プトリの魂。
「お兄さん。わたしは大丈夫。だって、今、とても幸せだから」
そう言うプトリのかたわらには、笑顔のナシルディンがいた。二人はよりそいあって、
青蘭がささやく。
「……六道はふだん、生きてる人間には見えない。だけど、たしかにそこにある。あの二人は生まれ変わって、また、いっしょになるんだよ」
アグンの両眼から涙がこぼれおちる。
だが、もう心配はない。
きっと、彼は前に進める。
*
翌朝。
龍郎たちはアグンにウブドのホテルまで車で送ってもらった。
「龍郎さん。青蘭さん。先生。みなさん、ほんとにお世話になりました。ありがとうございます」
つらいだろうに、アグンは微笑をたやさない。
「いいえ……こんな結果になって、すみません」
「龍郎さんのせいじゃないです。プトリのこと、悲しいけど、最後に見たのは幸福そうな笑顔でしたね。だから、もういいのです」
「そう……ですか」
自分がもっと早くにマイノグーラを倒していれば……いや、それでも、すでに、ナシルディンはティンダロスの混血種になってしまっていた。
龍郎は吐息をついた。
青蘭を守るために、強く、もっと強くと願ってきたが、それでもまだ足りない。すべての人を救済することは、龍郎にはできない。
「だって、龍郎さんが来てなければ、村はたくさんの人が死んでました。今もまだ、ずっとです。それは恐ろしいことでしたね。村を救ってくれて、ほんとにありがとう」
「いいえ……」
手をふって去ろうとするアグンを、ふと龍郎は呼びとめた。
「英雄さん。もしかしてだけど、村に好きな人がいますよね? あなたより身分の高い女性ではないですか?」
アグンの顔はわかりやすく赤くなった。
「ナイショです。誰にも言ってはいけません」
「あきらめるんですか?」
アグンは嘆息した。
「身分の高い女性と結婚するのは、とても難しいです。駆け落ちでもしないかぎりは。ましてや、プトリがあんなことになって、両親は嘆き悲しんでいます。私が家を出ていくことはできません」
「……後悔はしないでください。おれもたぶん親を泣かせることになるけど、それでも好きな人といっしょのほうがいい」
龍郎の背中にベッタリ張りついている青蘭をながめる。
青蘭を泣かせるくらいなら、申しわけないが親に泣いてもらおうと思う。
こんなに甘えん坊な恋人をすてることなんて、とうていできない。
龍郎たちのようすを見て、アグンは笑った。
「二人は仲よしですね。たしかに羨ましいです。駆け落ちも悪くないかもしれませんね」
「なんなら日本で暮らしてもいいんじゃないですか? 日本には身分差はないし、英雄さんのお母さんの実家があるでしょう? おれたちも力になります」
「ありがとう。お達者で。スダング・ティンダッ」
「お元気で。スモンゴ・スダング・クパンギ・マリ」
あらかじめ習っておいたバリ語で、さよならのあいさつをかわした。
アグンは悟りを得た人のように、どこか飄々と去っていった。
彼の未来に幸あらんことをと願う。
だが、感傷にひたっているヒマはなかった。ホテルから清美がやってきて、にぎやかにわめいたからだ。
「ああ、龍郎さん。青蘭さん。やっと帰ってきた。さっ、観光ですよ! 今日はどこ行きますか? ウブドから離れた場所も行きたいですよねぇ。スミニャックで買い物とか。そろそろ海岸もいいですよ。ウルワツ寺院は外せません!」
龍郎は苦笑した。
今日も忙しくなりそうだ。
了
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