第5話 猟犬 その二
青蘭がいない。
マイノグーラにつれさられてしまった。
「先生! 穂村先生。大変だ。青蘭がさらわれた!」
裸足でベッドをおりて穂村をゆりおこす。が、なかなか起きてこない。魂がなかに入っていないように面白いほどガクガクと首がゆれる。
龍郎は穂村を起こすことをあきらめ、青蘭を探しに外へ出ていこうとした。青蘭の残り香がまだ室内にたゆたっている。だが、扉をあけたとたん、その香りはとだえた。
花のようにかすかに甘い青蘭の体臭。
おそらく、天使の放つ香りだ。
それがドア一枚で消えた。外気にまぎれたという感じではなかった。プツリと絶えたのだ。
(違う。外に出たわけじゃない。じゃあ、いったい、どこへ?)
青蘭の香りとマイノグーラの放つ不快な悪魔の匂いをたどっていくと、部屋の角に行きついた。壁面と壁面が直角にまじわり、天井と接するあたりだ。
だが、そこに何かがあるわけじゃない。
龍郎はそこに見えない扉でもないかと壁を凝視した。しかし、やはり何もない。
うなっていると、にわかに外がさわがしくなってくる。今度はなんだというのか。
犬だ。村のあちこちから犬の遠吠えが響きわたる。
野生動物でも迷いでたのだろうか?
熊か猪でも?
それにしても、異常なくらい吠えている。
「穂村先生。起きてください。なんだか外のようすがおかしい」
あらためてゆすり起こす。
今度は、あっけなく目をあけた。
「うむ。そうだな。危険が迫っているぞ」
「わかるんですか?」
「わかるとも」
穂村は青蘭のいなくなったベッドを見て、眉をしかめた。
「マイノグーラが来たんだな」
「そうです」
「マイノグーラは犬を自在にあやつれる。それは彼女がヘルハウンズの母だからだ」
「じゃあ、マイノグーラが村で新たな被害者を……?」
「おそらく」
やはり、清美の言ったとおりだった。
毎晩、マイノグーラは生贄を求めて村を徘徊するのだ。しかし、今夜のターゲットは青蘭ではなかったのかと、龍郎は不安に襲われた。
「さっき、夢のなかでマイノグーラは青蘭のどこをかじってやろうかって言ったんです。あいつ、まさか青蘭を喰う気なんじゃ?」
「とにかく探すしかないな。行ってみよう」
龍郎は急いで靴をはいた。
夜中にトイレに行くときのために、アグンから懐中電灯を渡されていた。それを持って外へとびだす。
庭のなかでは異変はなかった。
ただ、街路のほうから激しく犬が吠えている。少なくとも四、五匹はいる。野犬だろうか。
家の奥から、アグンがやってきた。
「龍郎さん。先生。何事ですか、あれは?」
「悪魔が暴れてるようです。僕と穂村先生は、今から悪魔を探しに行きます」
「私も行きます」
「それはいけません。ディンダのようになるかもしれないんですよ?」
「わかっています。でも、村のことが心配です」
それはそうだろう。
龍郎だって、これが親しい人たちの住む生まれ故郷で起こっていることなら、いてもたってもいられない。
だが、青蘭がさらわれた今、自分一人で穂村とアグンを守れるだろうかと自問自答する。
それを見透かしたように、穂村が宣言した。
「本柳くん。私は大事ない。この体にもしものことがあっても本体があるかぎり健在だ」
なるほど。それもそうだ。
万一のときには穂村を犠牲にしてでも、アグンを守れば、なんとかなる。
「じゃあ、いっしょに行きましょう。危険かもしれない。英雄さんは身を守ることができるものを持っていてください」
「
「はい」
アグンの父が家のなかから大きめの懐中電灯を持ってきてくれた。アグンはその懐中電灯と手斧をつかむ。
心配そうなアグンの両親に見送られ、三人で門をくぐる。
街路には街灯がない。星明かり、月明かりが、ほのかに闇を照らしている。
懐中電灯の光をなげると、じゃり道に怪しい姿はなかった。
野犬も見あたらない。
「……とくに異常はないですね」と、アグンがホッとしたようにつぶやく。
しかし、龍郎は逆に緊張した。
夜気に一本の糸のように漂う瘴気。
その糸が村中をうろつきまわったかのように、蛇行しながら交錯している。つまり、瘴気を残すものが、このあたりを行ったり来たりしたのだ。
「——こっちだ。瘴気が濃い」
龍郎は瘴気の源をたどっていった。
穂村は正体が悪魔だが、人間の体のときには魔法的な能力はないらしく、おとなしく龍郎のあとについてくる。アグンはもちろん、ふつうの一般人だ。これも黙って従う。
「……あれ? こっちに行くと、グスティの家がありますね」
アグンが龍郎の進行方向を見て、ささやく。
「グスティ……どっかで聞いたな」
「ディンダの従姉妹です」
「ああ。清美さんが握手してない人か」
ディンダの家のまわりにいて、マイノグーラかどうか確認がとれなかった人物だ。
シダ類の密生するあいだにわけいっていく細い土の道がある。龍郎はそれを指さした。
「匂いはこっちからしている。もしかして、グスティさんの家はこの方角じゃないですか?」
アグンがうなずく。
やはり、マイノグーラはそのさきにいるようだ。まだ青蘭をかかえているかもしれない。
ことによると、グスティがマイノグーラの化身ということも考えうる。
龍郎は夢中で細道にふみこみ、走りだした。
(青蘭。どうか、無事でいてくれ。頼む)
祈るような心地でかけていく。
茂みの奥に建物が見えた。
家のまわりに青白い火の玉がいくつも浮いている。
「龍郎さん。あれがグスティの家ですよ」
アグンに言われるまでもなく、周囲にほかの人家はない。
近づいていくと、家のなかから悲鳴があがった。
「青蘭——!」
門のなかへかけこむ。
強い邪気が充満している。
家の造りは大きさや豪華さなどの差異はあるが、よそと同じだ。いくつかの棟にわかれた家屋と、そのあいだをつなぐ庭。
どこかで人のわめき声や泣き声がしている。
声のするほうに龍郎は急ぐ。
アグンはすぐうしろを追ってくるが、穂村は息が切れるのか少し遅れた。
「ここ、グスティの部屋です」
懐中電灯の光が淡くなったように感じたのは、その棟の電気がついているからだ。なかから複数人の泣き声が聞こえる。
かけこむと、数人の男女がかこむベッドの上に女が倒れていた。女とわかったのは着ている衣服からだ。それに、髪の長さ。それ以外に人間らしいところは残っていなかった。
死んでいる。茶色くひからびて、胸に黒い穴がポカポカとあいていた……。
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