第4話 時の風穴 その三
バリ島は赤道直下だ。
年間を通して平均気温二十八度前後の常夏の島。
夜になっても熱気が残っていて、むっとする草いきれが窓から入りこんでくる。
まわりが田んぼなので、カエルの鳴き声が夜の静寂に、ものすごい大合唱で響きわたっている。
窓に網戸がなく、日本の蚊取り線香がたかれている。その煙が扇風機の風で渦を巻いていた。
「あっ、しまったな。プトリさんにナシルディンさんから来た手紙を見せてもらえるか聞いとくんだった」
夜の九時すぎ。
龍郎は青蘭、穂村とともにゲストハウスに戻った。ホテルのようにエアコンがきいているわけではないが、耐えられないほど暑くはない。
二つのベッドのうち、一つを龍郎と青蘭が、残る一つを穂村が使う。
穂村はベッドに腰かけて、ロダンの『考える人』そっくりのポーズをとった。
「そういえば、穂村先生はこの村の伝承について調べていたんですよね? 何かわかりましたか?」
龍郎はなにげなく言ってから、しまったと思った。穂村の目がキランと光ったからだ。そうだった。穂村は学術的な話を聞いてくれる
「よくぞ聞いてくれた。じつはだな。私は以前、このあたりに来たことがあるんだ。もう百万年ほど前のことか」
「百万……」
「もちろん本体の私だ。そのころ、この島には妙な隕石がよく落下していた。ゾス星系石物仮装体だ。なぜ、この島にだけそれが多発するのか調べるためだった」
石物仮装体——それはマイノグーラが化身していた隕石のことだったはずだ。
「以前から聞こうと思っていたんですが、そのゾル星系石物仮装体っていうのはなんですか? マイノグーラが隕石から人型になったんですが、そのことですよね?」
穂村は一つうなずく。
「ゾルではない。ゾスだ。ゾス星系。クトゥルフが飛来してきた星がゾスだとされている」
「クトゥルフですか。何度か分身は倒した」
「そう。クトゥルフは宇宙の彼方からやってきて、地球に住みついた。その遠い先祖がアザトースだとされている」
「アザトースはクトゥルフ神話の主神ですよね?」
「アザトースは宇宙の根源にかかわる邪神だ。アザトースと双子だと言われるウボ=サスラとともに、もっとも謎に満ちた邪神だ。アザトースの生みだした原初の無名の霧からヨグ=ソトースが生まれた。このころはまだ宇宙に時間は存在していなかった。ヨグ=ソトースじたいが時間だというウワサもある。そのあとシュブ=ニグラスが誕生し、シュブ=ニグラスのしでかしたなんらかの行為によって、宇宙は清浄でまがった時間と、そして不浄で尖った時間にわかれた——と言われる」
いちおう邪神と戦っているので、龍郎もネット検索で調べはするが、どうもそのへんのことはあいまいすぎて理解できない。
「えーと、シュブ=ニグラスは両生具有の邪神で、たくさんの邪神を生んだ母ですよね。ていうか、穂村先生。以前はクトゥルフ神話のことなんて知らないふりをしていたくせに、人が悪いですよ」
穂村はニヤニヤ笑った。
「わがはいは魔王であると言ったところで信用したかね? しなかっただろう? え? そうだろ?」
「ええ。まあ……」
龍郎は穂村に押しきられた。
土台、口論で勝てる相手ではない。
「とにかく、それで石のような生物のことなんですよね? 石物仮装体」
「ゾス星……つまり、クトゥルフの故郷だな。そのあたりの星系で誕生した生物は外宇宙を移動するとき、石に仮装する。そうした生物の石のときの姿のことを、私はゾス星系石物仮装体と名づけた」
クトゥルフの邪神が宇宙を飛んでくるときの形体ということだ。
「それがひんぱんにこの島に落ちた。ということは、邪神がしょっちゅう、ここを目指して来てたってことですね」
「さよう。石物仮装体に関しては、アザトースが定期的に生みおとすというエネルギーのことではないかと思う。そのエネルギーから無名の霧だの原初の闇だの邪神だのといったたぐいが続々と生まれているわけだ」
無名の霧、原初の闇、混沌、時間の誕生。
なんだか宇宙の始まりそのもののように思える。ビックバンやダークマター、ダークエネルギーなど、宇宙の解明されていない現象それじたいを
「なんのために邪神たちは、この島に来るんですか?」
「それを調べていたんだ。今回、やってきたのはマイノグーラだった。マイノグーラはまがった時間と尖った時間をつなぐ、きわめて特殊な存在だ。時の風穴が存在するのではないかと私は考えている」
「まがった時間とか、とがった時間とか、時の風穴とか、一つずつ教えてくれますか?」
穂村の目の輝きがいよいよ増した。
青蘭が龍郎の背中に手をまわしながら、かるくにらんでいた。もうその話やめてと目が言っている。
だが、穂村がやめるはずもない。
「アインシュタインの相対性理論にまがった時間について書かれている。時は歪曲する。とがった時間は、それとは反対の特質を持つ時間だ。歪曲しない時間だな」
「歪曲しない時間……」
「一直線に一定の長さで進み続ける時間だ。輪廻しない時間とも言える」
龍郎は冷や汗が流れた。
大卒だが、穂村の言わんとする意味がまったく理解できない。
「さっぱりわかりません……」
穂村はおおげさに嘆息した。
「これまでに君たちは何度も見たじゃないか。魂は輪廻する。それは時がまがっているからだ。我々の宇宙はスパイラルなんだ。一周すると、もとの場所に帰ってくるが、それは以前の時間とは似て非なる世界だ。平行世界のことだよ。魂は一つの肉体を終え、次の平行世界に移動するとき、必ず六道を通る。全にして一なるもの、一にして全なるもの。要するにヨグ=ソトースの内なる世界を貫通する」
意味はわからないが、龍郎はゾッとした。たしかに六道は何度か見た。輪廻転生のために必要なエネルギーに満ちた宇宙のような世界だった。
「……我々はクトゥルフの邪神から生まれてるんですか?」
「まあ、人類の祖先はショゴスだという話だな。人類だけではない。大地の神々も。この地球上のすべての生物は、ショゴスの細胞を使って造られた、と。どっちにしろ、やつらが宇宙的な存在であることはまちがいないよ」
龍郎は頭をかかえた。
清美が持っているショゴス。人体のパーツのようなものがあちこちに溶けこんだスライムのような代物だ。
あのショゴスが人類の原形だとは。
「えーと、それじゃ、時の風穴というのはなんですか?」
穂村の顔がひときわ輝く。
「六道の入口だ。六道はきまぐれに移動するが、現出しやすい場所がある。バリ島はその一つだ。ヨグ=ソトースのはらわたに通じ、その深奥ではアザトースが夢を見ていると推測できる」
「夢を……ですか」
「世界はアザトースの見ている夢だという説もある」
邪神の最高神。
いつか、その神とも戦うことになるのだろうか?
了
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