第4話 時の風穴 その二
ナシルディンの実家は、ラマディンの家に比較的、近かった。広い水田を所有していて、家の周囲にはヤシの木、ココナッツ、バナナの畑などもあった。
建物は屋敷と言っていい。造りはよそでも見るバリ島の固有の形式だが、全体に広いし豪華だ。ことに各家庭にある寺院が、このうちは目立って立派で、塀の外からも大きな屋根が見えていた。
金持ちなのかなとは思ったが、門の前で、アグンがこっそり教えてくれた。
「ナシルディンの家はブラフマナなんです」
ブラフマナはバリ島の身分の最上位だ。先祖が司祭や高僧だ。以前には外国人はむろんのこと、バリ島の住民でも、ブラフマナ以外の階層の出自では高僧になることはできなかったという。
そういえば、さっきからアグンの言葉が今まで聞いていたジャワ語(正確にはバリ語)ではなくなっている。自分より身分の高いブラフマナの人と話すときの言葉なのだろう。バリ語は身分ごとに言語すら異なる。
(そうか。友達でも身分が違うと気を使うんだな)
アグンのカーストのサトリアは二番めの階層。
バリ人の九十九パーセントは最下層のスードラだから、二人の身分は近いはずだが、それでも厳然たる壁がある。
ナシルディンはまだ意識がもうろうとしていて、足元もおぼつかない。
アグンと龍郎が両側から支えて家の門をくぐると、犬が吠えて家人がやってきた。数人の色とりどりのサロンをまとった女性がかけよってくる。ナシルディンを見て、涙ぐんだり天に祈るような仕草をした。ジャワ語なので言葉はわからないが、しきりと何やら話しかけている。きっと「今までどこにいたの。よく無事だったね」などと言っているのだ。
ナシルディンをつれ帰った龍郎たちのことも、ひじょうに感謝されていると口調や表情でわかった。
ナシルディンを家の奥のほうにある建物へつれていき、ベッドによこたえる。すぐにまた眠ってしまった。これでは話はできない。しかし、それもいたしかたあるまい。
「英雄さん。明日にでもお見舞いに来ますと伝えてもらえますか? そのときにナシルディンさんが話せる状態ならいいんだが」
「わかりました」
アグンは妙にキョロキョロしていたが、龍郎が声をかけると我に返った。
(ん? もしかして?)
アグンの好きな女性というのは、この家の娘ではないだろうか?
カーストのヒエラルキーはピラミッド型だ。この小さな村に、最上位の家庭がそう何軒もあるとは思えない。せいぜい本家と分家が二、三軒くらい。
でも、どの女性かわからないまま、外に出た。
「龍郎さん。疲れた」
道に出たところで、青蘭がしゃがみこむ。
日が傾いてきている。
かなりの時間、歩きまわっていたようだ。
「そうだね。ごめん」
「帰宅しましょう。もうすぐプトリも戻ります。きっと、ナシルディンが見つかって大喜びしますね」
アグンの家まで帰ることになった。
日が暮れると悪魔たちもざわつきだすだろう。
青蘭を腕にかかえた龍郎が門まで到着したとき、ちょうど穂村と清美も戻ってきた。ヘトヘトな顔をしていた清美が、いっきに瞳を輝かせる。
「キャー! スマホ。スマホ。萌えるぅー」
急ににぎやかになった。
「先生。成果はありましたか?」
「うん。昼間に話してた女性陣は、被害者の友達二人が容疑者から外れる。清美くんが握手してきた」
「そうなんですか。よかった。おれのほうはラマディンさんにも、マデさんにも逃げられた」
だが、よく考えたら、ワヤンだけは結果的に手でふれることになった。青蘭から引き離すときに両手でつきとばしたからだ。腹は立ったが人間だということが立証されたわけだ。
「ということは、あと証明されてないのは、ディンダさんの従姉妹の……えーと、グスティさんと叔母さんのチョコルダさん、それにラマディンだけか」
スマホを見ながら名前を確認した。
ほんとは今日中に全員を調べたかったのだが、もう日が暮れる。明日にまわすしかない。
「英雄さん。今夜、泊めてもらってもかまいませんか?」
「いいですよ」
ゲストハウスにはベッドが二つしかない。以前は穂村と神父が床で寝たが、話しあいの結果、今回は清美だけウブドのホテルに帰ることになった。ちょうど、ドゥウィがプトリを迎えにウブドまで行くというので、その車に同乗させてもらい、清美は去っていった。
しばらくして、フレデリック神父から電話がかかってくる。今夜はデンパサールでホテルをとったのだそうだ。遺体の司法解剖はつつがなくすんだという。
「じゃあ、おれたちも今夜はもうやることないよな。飯食って寝ようか。着替え持ってきたらよかった」
「そうだね」
アグンの家族に手料理をごちそうになった。夕食の席で、プトリはナシルディンの帰還を聞いて、とても嬉しそうだった。
「明日、朝一番にお見舞いに行きます。ありがとう。龍郎さん。ナシルディンを見つけてくれて」
うっすらと涙を浮かべてお礼を言われると、こっちも照れくさいような心地になる。
ファンファンファンと、扇風機の音がやわらかく室内の空気をかきまわす。
外からは虫の声が聞こえていた。
料理の香辛料の香りに、ほんのりと夜気のなかの花の甘さがまじる。
幸福の予感が頰をなでるようなひととき。
だが、その夜も悪魔はやってきた。
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