第14話 娼館の親仁に助けがくる話



「衛兵ッ!!」


 コーウェンの声に伴い、舞台の周囲に配置された兵が一斉に穂先を向ける。弓を引き絞る兵もいる。

 

 そんな中で、馬から降り立った男は微動だにしない。

 鎧はえらく年季が入っていたが、だけに妙な迫力を伝えてくる。

 腰に佩いた剣もこれまた年代ものに見えたが、よく見れば鞘全体が微かな光を帯びていた。

 

 それらを身に着けた男の顔を、俺はよっくと知っていた。

 だけに、信じられない思いで見つめるしかない。

 なんだってアンタがここに……!?


「貴様、何者だッ!」


 兵隊長の誰何に、男は静かに答える。


「僕の名はアレス。―――かつて勇者の任を担っていたものだ」


 固唾を飲んで見守る民衆の間に、その声は確かに響いた。

 

 勇者……!?

 

 たちまち騒めき出す民衆を背後に、アレスはじっと舞台を見上げてくる。

 確かにその佇まいというか、放つオーラが尋常でないことを悟ったのだろう。

 コーウェンが相対する。


「して、その勇者様は、このような場に何用で?」


「先ほど言った通りだ。この執行に異議があると」


 コーウェンと真っ向から睨み合っている。


「ほう? 一体何を根拠に刑の執行に異を唱えられると?」


「そこに捕らえられている彼は、無暗に人を殺せる方じゃあないからだッ!」


 アレスの断言は続く。


「僕の栄誉と名誉にかけて、彼の潔白を主張する」


 コーウェンの顔が引き攣る。

 これが有象無象の人間が口にしたら与太話にしかならないが、宣言したのはかの勇者アレスだ。

 魔王を討った立役者である彼の言は、下手をすればそこらの王族より権威がある。


「……そう言い切るにしては、些か情が先走っているようにお見受けするが」


 公平を盾にし、余裕を持ってアレスの主張を退けようとするコーウェン。

 冷静に考えてみれば、アレスの主張には根拠がない。

 具体的な根拠を示せとコーウェンは言っているが、そういうてめえだって俺の前領主殺害の根拠を出してねえじゃねえか。


 それはともかく、いまこの瞬間は、アレスにとって分が悪い。

 俺にはそう見えた。

 そう見えたはずなのに。


「そこのオズマさんは僕の義父だッ! 僕が激情に駆られるのは当然だろう!?」


 カラカラに乾いたと思った身体から、一気に涙が溢れ出す。

 確かに俺が手塩にかけて仕込んだカリナは彼に嫁いだ。

 カリナは実の娘みたいなもんにせよ、とどのつまり俺は娼館の親仁だぜ?

 それを、あんたは……!

 ちくしょう、涙で良く見えやがらねえ。


「なるほどなるほど。つまり貴殿は、身内のために私情でドライゼンと事を構えるつもりであると?」


「……是非もなし」


 アレスはすらりと剣を抜き放つ。

 力づくで意見を通すという意思表示。

 淡く光る刀身に、只ならぬ気配を感じ取ったのだろう。兵士たちがたじろいだように身を退く。

 そこにすかさずコーウェンの哄笑が響いた。


「ふははははッ、戯れ言を! 勇者は魔王と相討ちで名誉の最期を遂げたはずだッ! おまえたちの目前にいるのは勇者を詐称するものに他ならないッ! 何を恐れることがあるッ!」


 公的には、かつての魔王戦役の結末はそう喧伝されていた。

 当の勇者が実は生きていたってことを知っているのは、各国の首脳だけ。

 下っ端の兵士たちには伝わっていないはずだから、コーウェンの主張には説得力がある。

 だが、なお躊躇する兵士たちに、コーウェンが最後の後押し。


「アルディーン王子も照覧されておられるぞッ! ドライゼンのつわものは、ただ一人の狼藉ものをおそれる弱兵ではあるまいッ!」


 その声に突き動かされるように、先頭の兵士たちが槍を構え直した時だった。


「その人は、本当の勇者さまだよ!」

「そうだよ!」

「そうだそうだッ!」


 遠巻きにしていた民衆の中から、三人の娘が飛び出してきて口々に叫ぶ。

 その姿を認めた俺こそ、開いた口が塞がらねえ。

 マニ。ルー。そしてセルフィ。

 おまえら、どうしてここに……ッ!?


 そんな三人に対し、弓を向けていた兵の一人が矢を放つ。

 おそらく、驚いた拍子に射ってしまったらしい一撃に、俺は目を剥く。

 小娘たちにはどうやっても躱せる術はない……!


 しかし、鋭い矢の一撃は、甲高い音とともに弾かれていた。

 目を見張る三人娘の前に、ごっつい鎧を着た男が立ちふさがっていた。

 あの壺のような形の兜には見覚えがある。

 はしゃぐマニたちの様子に確信した。あいつはドワーフ族の変わり種にして精豪のギルギレだ。


「支配人さんッ!」


 今度は誰だと思ってみれば、クエスティンがこちらに向けて群衆から飛び出してくる。

 続くのはサマンサ、ネイブ、アリンの遠征メンバーはともかく、サヤやレネットは留守番組だろ!? 

 そのあとにもゾロゾロと、なんでおまえたちまでここにいるんだよ!?


「支配人さんを放せ―!」

「店長さんを返せー!」

「お、お父さんを返してくださいッ」


 見習いの小娘たちまでピチピチと小鳥のように叫んで身を震わせてやがる。


「待っててね! いま助けるからッ!」


 クエスティンたちの迫力に一瞬兵士たちも鼻白んだが、相手は女だと侮ったのだろう。

 槍を納めて取り押さえようとする寸前、先頭の兵士の腕を彼女たちの背後から伸びてきた巨大な拳が掴む。

 しかも拳は一個だけじゃない。六つの腕に六つの拳。

 六腕巨人族ヘカトンケイルのゲンシュリオン、うちのコック長じゃねえか。


 丸太みたいな腕で兵士たちを千切っては投げするその横で、別の兵士をまとめて二、三人も吹き飛ばしたずんぐりとした体躯にも見覚えがある。

 ドワーフ族にして、うちの風呂釜管理人のボグボロ。おまえも来たのか。


 そんな彼らにわずかに遅れて、冒険者らしき姿の一団が娘たちを守るように取り囲む。

 彼らの鎧や盾に刻まれた紋章に、俺は胸の奥の奥から熱くなるのを感じた。

 徒党六弁花クラウチス

 連中が、娘たちをここまで守って連れてきてくれたのか―――?



 広場は、この騒ぎに大混乱だ。

 詰めかけていた群衆も一斉に逃げ惑う中で、コーウェンの檄が飛ぶ。


「相手は寡兵だ。何を恐れることがあるッ!?」


 先頭に勇者アレスを据えたとしても、確かに俺を助けに来てくれた連中の数は少ない。民衆の退避した広場で、四方から大量の兵士たちに包囲されたら手も足も出ないはず。


 思わずコーウェンの方を振り仰ぎ、俺は胸の中の熱いものが一瞬で冷めるのを自覚した。

 それどころか、背筋に氷柱を突っ込まれたような寒気を感じたのは、決して毒に冒されていただけじゃあない。


 コーウェンの野郎、一見、口もとを覆い突然の事態に面食らっている風だ。

 しかし、その覆われた口元が不気味に歪んでいたことに、俺は最悪な確信を抱く。


 やつは、俺を苦しめるのが目的とはっきりと口にしていた。

 毒を盛られた上に暗くて汚い牢屋へ閉じ込められたり散々な目にあったわけだが、俺が本当に一番苦しむことはなんだ?

 そして、あの野郎は、俺が昔冒険者をしていたことまで調べ上げていた。

 つまり、俺の事情は相手に筒抜けで、俺が一番大事に思っている店のことにももちろん気づいているはず。

 

 ……くそ、俺はとんだ間抜けもいいとこだ。

 そんなクソ野郎に、ご丁寧にてめえの店の説明をするたあ。


 ここに至って、コーウェンの目的は明白だ。

 俺の目の前で、娼館の連中や関係者を痛めつける。もしくは殺す。

 それこそが俺をもっとも苦しめる最大の復讐になるのだから。


「全軍で包囲して捕縛しろ。抵抗するようなら殺しても止むをえん」


 俺の推測を裏付けるが如くコーウェンの更なる命令。

 ちくしょう、端からそのつもりだったんだろう?

 するってぇと、俺を助けに来た連中がすんなりと異国の広場に姿を現せたこと自体、コイツの差し金か!?


 文字通り多勢に無勢。完全に囲まれちゃ、どうやったって勝ち目はない。

 こいつは罠だ! 罠なんだよ!

 頼む。みんな逃げてくれ。こんな死にぞこないなんて放っておいていいから……!!


 なのに連中はじりじりと処刑台の方へと近づこうとしてやがる。

 よせ! やめてくれ! バカ野郎ども! 俺なんかのために命を張るなんざあ……!


 てめえの間抜けっぷりと悔しさで、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 さるぐつわのせいで言葉に出来なかったが、もし口を解放されていたら年甲斐もなく泣き叫び、喚き散らしていたことだろう。


 くそ、俺なんかどうなったって構やしねえ。

 だから、誰か。

 誰でもいいから、あんな気のいい連中をむざむざ殺させないでくれ……!




 ふと、強い風が吹き抜けた。

 その時、初めて俺は空が曇っていたことに気づく。

 ……嘘だろう? さっきまで雲一つない蒼天ってやつだったんぜ?


 顔に当たる風が前髪をバサバサと揺らした。雲は益々黒く厚くなり、ゴロゴロと稲光まで鳴り出している。

 それでも兵たちはよく訓練されていたようで動じない。

 突然の天候の変化を気にする様子もなく部隊をじりじりと展開。

 アレスと六弁花の冒険者たちも含めて大きな包囲網を完成させる寸前。


 凄まじい大音響が轟き、広場に盛大な火花が散る。

 閃光に眩んだ目が視界を取り戻せば、石畳の何か所かがブスブスと黒煙を上げてた。

 落雷だ。

 

 さすがにこれには兵士たちにも動揺が走った。

 雷が金属製の高いものの先に落ちるのはこちらの世界でも常識らしく、兵士たちは我先に槍を放り出している。


 結果として包囲網は完成寸前で千々に乱れる。

 時ならぬ天の怒りに思わず空の様子を伺った先で、おそらく皆が目撃していたはずだ。

 黒い雲の間を縫うように動く、巨大な鱗に覆われた胴体を。


「……ドラゴン、なのか?」


 誰かの呟き。

 だが、ドラゴンにしてはうねる胴体が長すぎる。

 まるで蛇のようにも見える外観はドラゴンと似て非なるもの。

 あれは、龍だ。


 はっきりと見覚えがある。

 俺の娼館から売れっ子の娘を掻っ攫っていった龍人族。

 龍から人へも変幻自在の貴少な種族で、龍へと変じたときの姿はあの夜と同じだ。

 ただあの時とは違い、龍の頭部と思しき場所に小さな人影が見えたように思えたのは、俺の気のせいだろうか?


 誰もがこの超常の光景に固まる中、晴れて行く雲の隙間に見えた空の色にこそ一斉に言葉を失ったに違いない。


 そこに広がっているのは、青空ではなかった。

 漆黒の星の瞬く夜空に二つの月が浮かんでいる。

 そしてその月は、ゆっくりと重なりつつあった。

 今は昼間で、蒼月祭などまだ当分先であるはずなのに―――。


 二つに重なった月から青い光が地上へと降り注ぐ。

 その光を受けたのは、カナルタイン広場の名物噴水【四つ子の泉】。その長兄の泉の表面に丸い光が沸きたつ。

 その向こうに浮かんだ光景に、きっと居合わせた全員が目を疑ったことだろう。


 深緑を思わせる木々が生い茂り、瑞々しいまでの神気が溢れ出す。

 この光景は、遠いエルフの隠れ里。

 四年に一度しか使えないはずの大魔法を行使して、そこから出てくるのは当然エルフたち。

 皆が皆して別嬪さんなのは言うまでもないが、揃って完全武装で弓を番えているのには目を見張るしかない。

 わけても先頭に立つ小柄な娘は、全身を黒く輝く鎧に、背丈に似合わぬ長大な剣を引っ提げている。

 鋭い眼差しで俺の方を見据えてきたのは、間違いない、ミトランシェだ。


「……貴様ァッ! 助けを呼ぶための精霊魔法は阻害したはずだぞッ!?」


 狼狽したコーウェンが睨みつけてくる様に、さるぐつわをされたまま俺は言葉にならない声で叫び返す。


「馬鹿野郎ッ! 来ないように連絡したのを握りつぶしたら、そりゃ来ちまうだろうがッ!」


 しかも翡翠族全員を引きつれてきたのか、あいつ。すげえ人数じゃねえか。


「ええいッ! 構わぬ! 体勢を立て直してまとめて包囲せよッ!」


 だが、兵士たちは動こうとはしなかった。なぜなら、四つ子の泉の、残り三つまでにも同じような移動魔法による門が生成されていたからだ。

 そして、それぞれの門から出てくるのは、これまた武装したエルフの集団。

 その総数たるや尋常じゃねえ。

 間違いない、ミトランシェのやつ、他の四支族まで引ッパリ出してきやがった……!!


 戦慄する俺の見下ろす広場は膠着状態だ。

 数で拮抗された上に、精霊魔法まで行使するエルフたち相手では、鍛え抜かれた軍隊も一筋縄ではいかないだろう。

 お互いが本気でぶつかりあえば、ここカナルタインの街自体が崩壊しちまうかも知れない。


「……たった一人の人間に、このようなことなど……!」


 コーウェンが顔色を無くしていた。

 さすがにこの事態は想定外中の想定外だったに違いない。

 

 その時、ふと人影が動く。貴賓席に座していた麒麟児だ。


「コーウェン伯爵よ。この座興の始末はどうつけるつもりなのだ?」


 やばい、と俺は胸の内で呟く。

 ドライゼンの王子にして、次期国王も確実視されているカリスマだ。

 彼が下知を飛ばせば、たとえ勇者やエルフ族が相手でも、兵士たちは我先に突撃することだろう。


「は、ははッ、殿下。いましばしお待ちくだされば」


「断る。何もかもがつまらぬ戯れだ。余を落胆させたこと、貴様には責任を取ってもらわねばならん」


「そ、それはどうかご容赦を。いましばし! いましばしばかりの猶予を……!」


 狼狽しきりのコーウェンに、アルディーン殿下は近づく。


「……え?」


 コーウェンの背中から、鋭い刃が飛び出していた。先端から血の珠が滴る。


「で、殿下……?」


「貴様には責任を取ってもらうといったぞ」


「わ、私が何を……」


「前領主マイウッドを殺した責だ」


「………………」


 ごぼっとコーウェンの口から血が零れる。

 なぜ、という形で口が動いたが、声にならない。

 ぐるりと無慈悲に突き込んだ刃の柄を回転させ、ドライゼン王国第三王子は、瀕死の辺境伯の耳元へ囁く。

 その声を辛うじて聴きとれたのは、俺だけだろうか。


「計略と言えば聞こえはいいが、貴様のそれは密謀だ。大陸に障る災害なぞ、覇業とすら認められるか……!」


 薄い侮蔑の表情を浮かべ、身を引いたアルディーンのマントが翻る。

 引き抜かれた刀身に血が踊り、返す刃の一閃でコーウェンの首は斬り飛ばされていた。

 飛んだ首はコロコロと俺の目前へと転がる。

 頭部を失った胴体はその場にどうと倒れたが、俺が目を見張ったのはそれからだ。

 

 コーウェンの生首は、驚愕と無念に目を見開いて事切れている。

 すると、その頭髪の間から次々と蝗が這い出してきたのだ。

 無数の蝗は蠢きながらコーウェンの露出した肌の部分を覆い尽くす。

 それは胴体も同様で、チキチキと歯を鳴らす蝗の群れに、コーウェンの頭と胴体はあっと言う間に喰いつくされた。

 そのまま飛散しようとした蝗だったが、寸前に氷の檻に絡めとられる。アルディーン王子の背後に控えていた騎士の一人の放った魔法だ。

 そしてもう一人の騎士は、抜き払った長剣の刀身を掴み、柄の部分を振り下ろして氷ごと蝗の塊を粉砕する。


「面妖な……ッ!」


 アルディーン王子の呟きは、おそらく皆の心情を代弁していたことだろう。

 この凄惨かつ突飛な展開に、処刑台上の誰もが絶句して動けない。


 いや、一人だけいた。

 騎士のアシュレイが腰の剣を引き抜き、奇声を上げていた。

 ―――俺に向かって。


「貴様さえいなければーッ!!」


 絶叫とともに繰り出された神速の斬撃は、おそらくアルディーン殿下のものより鋭かっただろう。

 狙いは寸分たがわず俺の首。

 だからきっと、俺はコーウェンと同じ末路を迎えるはずだったが、そうはならなかった。


 例の斬首用の長剣を引っ提げていた処刑人が、必殺の一撃を受け止めていた。

 どころか、目にも止まらない動きで体を入れ替えるとすかさず当身を喰らわせている。

 たちまちアシュレイは剣を取り上げて縛り上げられた。


「大丈夫ですか、旦那!」


 その声……サイベージか?


 俺のさるぐつわを外し、処刑人用の黒いマスクも脱げば、そこにいるのは随分久しぶりに見る図太そうな野郎の顔。


「おまえ……なにやっているんだ?」


「そんなの、隙を見て旦那を助けるために決まっているでしょ」


 言いながら、俺の手枷も外していくサイベージ。

 久しぶりに解放された両腕の、強張った筋肉をほぐしていると、目前に黒い鎧を着た娘が立っていた。

 緑の艶のある髪と同じく艶のある黒い鎧は、巨大な血涙石から削り出したとされる伝説にも謳われた逸品『黒王の鎧』。あらゆる魔法を受け付けない反面、ひとたび着用すれば五年は寿命が縮むといわれている。


「……ミトランシェ」


 久しぶりに名を呼ぶ。

 すると、無言で抱き着かれた。


「おい、よせよ、汚ねえぞ」


 ミトランシェは首を振る。どころか、ますますぎゅっと抱き着いてくる。

 はあ、これは好きにさせるしかねえか。


 そう思って見回せば、いつの間にか俺は娼館の連中に囲まれていた。

 処刑台に近づいても、もはや兵士たちは邪魔しようとはしない。

 殿下の振る舞いとコーウェンの死にざまに、誰もが毒気を抜かれてしまっているようだ。


「支配人さん、大丈夫だった?」


 真っ先に訊ねてくるクエスティンの目は赤い。

 ああ、大丈夫だ、と請負いたいところだったが、出来なかった。

 返事替わりにガハッと咳込むと、押さえた手に血が飛び散る。

 

 そんな俺の背後で狂気に満ちた声が上がった。

 縛られて床に転がされていたアシュレイだ。


「ふははははッ! その男はもはや完全にヒュドラの毒に冒されているのだ! あらゆる医術でも魔法でも助かる術はない!」


「それ、本当なんですかッ!?」


 訊ねてきたサヤにコクンと頷けば、周囲の連中は皆して顔色を失う。

 ミトランシェが悲壮な顔つきで見上げてきたが、その肩にそっと手を置いて俺は静かに項垂れた。


「……すまねえな。せっかく皆に助けてもらったってのによ」


 嬉しくて仕方ない反面、俺はきっと気の抜けたような笑顔を浮かべていたことだろう。

 

 まったく、大団円なんてそうそう上手くは行かないもんだ。

 それでも、俺を助けるために、これだけの人がやってきてくれたんだぜ?

 

 このことだけで、俺はてめえの生き様がいかに恵まれてたのかってことを思い知っている。

 もう思い残すことは何もねえ。皆に礼をいって、堂々と閻魔さまに会いに行けらあ……。


「―――やっぱり、私も来て良かったわね」


 その声に、俺は目を見張る。

 続いて、周囲の人間をかき分けて姿を見せた美女に、きっとアルディーン殿下も度肝を抜かれていたに違いない。


「フェルメニ……。おまえも来てくれたんか」


 美女の上半身に、無数の足が蠢く。

 多足海妖族スキュラなんてのは、存在自体がレアな種族だからな。

 もっとも俺の驚きはそこじゃあない。

 頑なに人目につくのを忌避していた彼女が、俺のためにわざわざ姿を晒してここまで来てくれたことに、涙がこぼれそうだ。

 頬に泣き黒子も色っぽい彼女は言う。


「確かにヒュドラの毒には解毒方法は存在しないわ」


 いいながら伸ばしてくるのは彼女の細い足の一本。

 それが俺のへそあたりに触れる。


「……んッ」


 フェルメニがなんとも艶っぽい声を出した直後に、腹の痛みが和らいだ気がした。

 反面、俺の腹に触れていた彼女の足が、どす黒く変色していく。


「ゲンさん。お願い」


 フェルメニの声に、ゲンシュリオンが手に持っている得物は使い慣れた包丁だ。

 それで、彼女の変色した足を根本からドンと斬り落とす。


「お、おいおい、大丈夫か!?」


「旦那こそ、少しは楽になったんじゃない?」


 言われれば、確かに痛みが引いているような……。


「旦那の体調を見ながら、繰り返してこうやって毒を吸い出せば、なんとかなるはずよ」


「……って、おまえの足が……」


「旦那の命には替えられないでしょ?」


 ニッコリと微笑む彼女に、俺は何も言えない。


「……もしかして、支配人さんは助かるの?」


 俺の替わりに訊ねたのはクエスティン。


「ええ。たぶん大丈夫」

 

 フェルメニの返事に、泣きそうな顔がたちまち笑顔で満ちた。


「良かった、良かったよぉお~」


 クエスティンを先頭に、次々と縋りついてくる娘たち。


「おい、おまえら、俺ァ死にかけなんだからよ……」


 まるで子犬みたいにまとわりついてくる娘たちだったが、一斉に腰を抜かした。

 見れば、こちらにアルディーン殿下が歩いてくる。

 相対するミトランシェは、いつの間にか剣を構えた臨戦態勢。

 娘たちは、彼女の剣気に当てられたのだ。


「よせ」


 俺が声を掛けるも、ミトランシェは警戒を解かない。


「……そう構えんで欲しいな」


 皮膚が粟立つような圧力を前に、事も無げに言ってくるのはアルディーン殿下。


「事は後先になるが、余は元々貴殿の助命に来たのだ」


「へ?」


 間抜けな声を出す俺を、殿下は真っすぐに見据えてくる。


「先日、大聖皇国から秘密裡に書簡が届いていてな」


「はあ」


「『そちらに囚われている当国の伯爵の早急な解放を』と。叶わぬならば一戦も辞さぬ、との内容だった」


 ―――伯爵って、誰のこった?

 その疑問を打ち消すように、唐突に脳裏に浮かぶクラウディア殿下とメッツァーとの会話。

 俺をヒエロ一帯の領主に任命して爵位を授けるって、ありゃ冗談だろ?

 でも、書簡の内容が本当なら……まさか皇国本体を動かしたってのか、クラーラの嬢ちゃんはッ!?


「いまとなって信じろとは言えぬ。が、しかし、貴殿の処刑が執行される直前に、コーウェンを処断するつもりだった」


 ところが、アレスを筆頭に俺の知り合いたちがぞくぞくと雪崩れこんできたものだから、しばらく成り行きを見守る羽目に。

 ミトランシェ率いる妖精四支族の参戦はさすがに予想すら出来なかったが、そこを引き際と見極め、コーウェンを処断したとのこと。


 以前から前領主の急死にあたりコーウェンに怪しいところがあった、なんて聞かされても今さらだ。

 俺としてもコーウェンが蝗もどきの化け物を操っていたこと、殿下がおそらくそれを知っていたこと、ひいてはドライゼンという国に対しても言いたいことは幾つもあるが、今は飲み込んでおこう。


「貴殿も、色々と思うところがあるだろう」


 俺の思惑を見透かしたように殿下は言う。


「このたびの不始末、まずはコーウェン伯爵の首一つで納めて貰いたいものだが、如何いかん?」


 つまるところ、全責任はコーウェンへとおっかぶせる替わりに、アレスを始めとしたこっちの刃を向けた一堂は不問、と。

 そもそも、殿下がこうやって下手に出てること自体が異例だろう。

 ここで拒絶するのは論外として、となりゃあ残るは、散々な目に合わされた俺の胸のうちに委ねるってか。


「……承りやした。ただ、絶対に譲れないことを、二つほど」


「ふむ?」


「一つは、この国を出るまでの俺の身内の安全の保障を」


「もちろんだ。余も、なかんずく勇者殿とは事を構えたくはないものよ」


 静かにたたずむアレスをちらりと見やって殿下は頷く。


「もう一つは、連中にせめて手土産みたいなもんを用意して貰えませんかね?」


 俺の指し示す方向には、未だ武装を解かない妖精たちの四支族。

 大陸に散らばった隠れ里からどうやって一斉に呼び出したかはわからねえ。帰り道で魔法を使うかどうかも不明だ。

 けれど、女房ミトランシェがかなり無理を通したのは間違いない。

 感謝をするのは当然にせよ、手ぶらで返すのはさすがに気の毒だ。


「……そちらも差配しよう」


 少し面白そうに頬を綻ばせるアルディーン殿下。

 快諾してもらい、ほっと胸を撫でおろす自分がいる。

 賠償だ保障だといった政治的な駆け引きなんざ更々知らねえが、話の分かる御仁で良かったぜ。


「しかし……」


 しみじみとアルディーン殿下は俺たちを眺める。

 それから大陸に名を馳せる伊達男は、貴顕の顔にくっきりとした笑みを浮かべて問うて来た。


「貴殿はいったい何者なのだ?」


 その質問に、俺はこう答えるしかない。


「何者もなにも、俺ァただの娼館の親仁ですよ」



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