最終話 そのあとの話
窓を開ければ気持ちの良い風が吹き込んでくる。
胸いっぱいに吸い込んでも、もうほとんど痛みは感じない。
眼下を見下ろせば大通りには忙しく行き交う人々。
ちょうど店の前を掃いていた見習いの娘が、俺に気づいて声を上げる。
それに手を振り返す、麗らかな昼下がり。
俺にとっちゃあ何物にも替え難い日常の風景ってやつだ。
ヒエロの街へと俺が帰還して早半年が経つ。
帰路でもフェルメニからせっせと毒を吸い出してもらいはしたが、内臓はボロボロだわ、砕かれた手首は変に繋がっているわ、足の先っぽは腐れかけてるわと、満身創痍だった。
出迎えてくれたマリエは、俺の帰還を喜んだのも束の間、あまりの俺の様態にたちまち鬼の形相になる。
そんな顔になると助けにきたときの母親とそっくりだぜ? なんて俺が軽口をたたく間もなく、ベルランド司祭を呼びつけるや否や、湯水の如く喜捨という名の代金を先渡し。
そっからの怒涛の回復魔法責めは、わざわざ皇都から派遣されてきた医師が到着するころには、俺は外見だけは元通りになっていたところから察して欲しい。
皇族御用達の医師からはやたら丁重に診察されて、高価そうな薬を処方してもらっただけで済んでいる。
薬を飲んで、フェルメニから毒を抜いてもらって、自前の温泉に浸かる。
あとは食って寝ての繰り返し。
おかげで順調に身体が回復したの有難い。けれど大事をとって娼館の外へ出ることさえ禁止されたのには参った。
その間、商売自体はマリエの差配で再開していたから、俺はていの良いヒモか楽隠居状態ってやつだろう。
まあ、毎日のように見舞いに来てくれる連中ばっかで退屈だけはしなかったけどな。
わけても、近隣の娼館の主人たちがこぞって見舞いに来てくれたのには恐縮しきりだ。結局、遠征先の駐屯地の差配も、俺が途中でマイネールにほっぽり出しちまったからな。
ドライゼンの件は、あくまで俺が遠乗りしてうっかり国境を越えたところで捕まった、って話で押し通す。
色々と詳細を語るわけにはいかないのはこっちの都合だが、向うも敢えて突っ込んでこないことには助かった。
もっとも、皆して海千山千のやり手爺ィどもだ。俺の店の連中が、上は娼婦から下は下働きまで揃って泡喰って出かけたんだ。色々と察しているに違いない。
ともあれ、山のような見舞いを頂戴したのは本当に申し訳なかった。完全に復調したら、いずれ改めて仁義を切りに行かにゃなるめえよ。
久方ぶりにカリナを伴い、アレスも見舞いに来てくれたのは嬉しかった。
礼もそこそこに、俺を助けるためとはいえ勇者として世間に返り咲かせてしまったことを侘びる。
気にしないで下さい、と手を振ってはくれたものの、俺の気は晴れない。
今後も市井で暮らしていくという彼に対し、出来る限り便宜を図るつもりだ。
それよか、カリナの腹ん中に子供がいるって話は何よりの見舞いだったぜ。
おまけに名付け親になってくれって言われたのは感無量だ。
俺なんかでいいのかよ? と聞き返せば、夫婦揃ってお義父さんですから、と更に返されりゃ、断ることなんかできるはずもねえ。
滲む涙を隠して、こりゃあいっちょ良い名前を考えてやらねえとな。
一緒にやってきたっていうんなら、徒党六弁花の連中と久々にレミリィのやつも見舞いに来てくれた。
籠いっぱいの果物やら野菜やらは、全部自分で作ったとか。
真っ黒に日焼けした顔で、「無事で良かったよ~」と俺に縋りついて泣くレミリィは、まんま嫁に行く前と変わらなくて苦笑する。
徒党の皆さんには御礼金とかも用意していたんだが、もう既に報酬は受け取っているからとやんわりと拒絶された。
なんでも、マリエが偉く張り込んだそうだ。
で、その金は俺の虎の子の収集品を売り払って都合したらしい。
要は自分の財布で自分を助けたに等しいわけだが、まあ、ここで愚痴っても仕方ないか。
そんなこんなで一番色々と五月蠅く言ってきそうな当のマリエだが、これが意外と大人しい。
原因ははっきりしている。
カナルタインで会ってからこの方、俺の傍にぴったりとくっついて離れないミトランシェ。
翡翠族の村へ帰らなくていいのかよ? と一度尋ねたら、物凄い目つきで睨まれた。
その剣幕に俺は完全にぶるっちまったが、きっとマリエも同じだろう。
『母さんがガチギレしたの、初めてみたわ…』
今回の差配に礼をいった俺に、震える声でそういってきた
サイベージ経由で俺の苦境を知らされたマリエがミトランシェへと連絡を取ったらしいのだが、その激怒っぷりに冗談抜きで失禁しそうになったらしい。
俺ら親子にしてこのザマなのだから、店の娘たちも言わずもがな。
触らぬ神に祟りなしとばかりに、ミトランシェという存在の一切に関しては、誰も文句どころか質問すら口にしない。
そんで一番ふてえやつがサイベージの野郎だ。
「俺ァ、おめえに店の娘を無事に連れ帰れって依頼したよな?
それが店を上げて全員で助けに来させるたあ、どういう了見だ?」
そう凄んで見せたのだが、サイベージのやつは平然としてやがる。
「ええ。ご期待に添えなかったんで、あたしの借金棒引きってやつもチャラですね。今後ともよろしくお願いします」
抜け抜けと言い返した野郎は、今日も今日とて涼しい顔で娼館の中をうろついている。
最後に、人目を憚るようにやってきたのは、メッツァーとクラウディア殿下だった。
というか、メッツァーはともかく、皇族が娼館の中へ足を踏み入れるなど前代未聞だろう。
「レンが無事で良かったわ…」
しみじみとそう漏らした声音はクラーラのもので、つまりは今は皇女ではないってことか?
そのままついと俺の頬に手を当ててきたのをミトランシェに振り払われていたが、俺は全力で見て見ぬふり。
「しかし、俺を伯爵だとか、国を挙げて一戦も辞さないだとか、いったいどんな手を使ったんだよ?」
いくら何でも末席の皇女の一存でどうにかなる話には思えない。
俺がそう訊ねると、クラーラは朗らかに言う。
「私の願望と覚悟が未来に反映されるかどうかって話ね。まあ、あの時点で私には権限も手札もなかったのだけれど」
「…ひでえな。出鱈目、つまりはハッタリだってことか?」
「それでもアルディーン殿下は私のことを信用して下さったに違いないわ」
コロコロと笑うクラーラに、話が見えねえ。
訊ねようにも、クラーラのやつ、笑顔のまま質問は受け付けないってオーラをバラまいてやがる。
まあ、国と国との外交ってのは、とどのつまりは化かし合いだ。
殿上人には、下々の者には分かりかねる手段や符丁があるに違いない。
助けてもらった手前もあるが、あまり深入りしない方がよさそうだ。
ついで、俺は別の気になっていた話題を振ってみる。
本来、皇国と対峙していたグルレルフの問題はどうなったのか?
「それなら、貴方が解放されて間もなく、グルレルフは査察の受け入れを表明したわよ?」
「へ?」
拍子抜けした声を出しはしたが、俺の中で何か一本の線が繋がろうとしている。
それを見極めるべく目を細める俺に、メッツァーの声が割り込んできた。
「ところでレンタロー。本気でここいら一帯の領主に収まる気はないか?」
悪友の声を笑い飛ばし、クラーラの方を向いて俺は丁寧に謝絶。
「…定まっていない事柄なら、無理に型に嵌めないほうが最良かと」
「分かりました」
クラーラは少しだけ寂しそうに笑う。
「ともかく、このたびの貴方の成し遂げたことと勇気に、心よりの感謝と敬愛を」
「こんな俺でも役に立つことがあれば、またいつでも声を掛けて下さい」
丁重な言葉遣いをしてみたが、正直いってあんな目にあうのは二度とごめんだ。
そんな本音が顔に出てしまっていたのだろう。
またもや笑って頷き、クラーラは辞していく。
いや、その後ろ姿は、皇族の誉も高いクラウディア殿下その人だ。
俺の隣でミトランシェがじっと睨んでいたような気がしたが、これもやっぱり見て見ぬふりをしよう。
―――決して短くない回想から立ち返り、俺は窓の隣の棚の上を見る。
そこには、先日届いた立派な封書が一つ。
既に蝋の封印は破いてしまったが、記されていた印章は、アルディーン・ノツァグライラ・ドライゼンの若獅子の紋章。
あの伊達な殿下様から、わざわざ俺宛てに?
一体、どんな内容かと思って開封してみれば、ところがどっこい、文章を記した手紙一枚入っていなかった。
替わりに入っていたのは、一枚のちっぽけな紙片だ。
だが、はっきりいって、俺はこの事にこそ驚いている。
なぜならそれは、この世界のものではない言葉が記された、俺の元いた世界で言うところの―――名刺だった。
これを得て、俺の中の漠然とした一本の線が完全に繋がった。
コーウェンの野郎、俺を落人だなんだと講釈を垂れやがったていたが、あいつ自身も落人だったとはな。
まあ、確信はあった。
処刑される前、俺が零した『冥土の土産』なんて表現を、アシュレイとかいう騎士は怪訝そうに聞き流したが、コーウェンはばっちりと理解していたからな。
その上で、アルディーン殿下がこれを送り付けてきたってことは、俺の予想通りコーウェンの正体を彼も把握していたということだろう。
落人は、何かを一つ失い、何かを一つ得る。
これはサイベージからどっからか引っ張ってきた情報なのだが、どうやらコーウェンのやつ、子供を作れない身体になっていたらしい。いや、具体的に何を失ったかは不明だけれどよ。
まあ、もしそうだったらそりゃあ気軽に娼館には行けないよな。
対してあいつの得た力ってのは、化け物みたいな蝗を生成する力なのか?
違った見方をすれば、膨大な命を生み出す力とも言えるのかも知れない。
俺の力との対比を思えば、奇妙に納得できると同時に、もうちっとマシな使い方は出来なかったのかと思う。
ともあれ、コーウェンのやつは野心家だった。
先代の領主に成り代わり、様々な策謀を巡らしていたのは間違いない。
ことドライゼンの気風において、それは褒められるべき要素だ。
先日の二度目の蝗の大発生も、皇国軍の背後から蝗をぶつけ、その駆除を口実にカナルタインの兵力を投入。どさくさ紛れにグルレルフの救援やその他諸々を画策していたとか。
あれだけの数の蝗もどきを生成するのに20年以上かかるってのは激しく納得すると同時に、それを俺にほとんど一人で叩き潰されたんだ。そりゃコーウェンもキレるわな。加えて、その援護を期待できなくなったグルレルフもあっさり折れたのにも納得が行く。
コーウェンの失策に気づいたアルディーン殿下はカナルタインを訪問。実際に先代領主殺しも把握していたのだろうが、クラーラの親書を建前に俺を助命し、やつの首一つで事態を収拾した。
俺が指摘した通り、次の蝗の生成に20年かかるとするなら、コーウェンがそれまで生きている保障はない。なので、丁度良いとばかりに斬り捨てを図ったってのはさすがに穿ちすぎか。
今回はともかく、20年前の時にゃあまだ幼い殿下に実権はなかったはずだし、となると現王とコーウェンの策謀…?
ともあれ、ドライゼンの内情も一枚岩ではないってことか。
そこまで考えて、俺は頭を振る。
弁えておけばいいのは、あの殿下様も一筋縄ではいかない男ってことだ。
こと権謀術数が渦巻く政治なんてものには、金輪際近づきたくない。
俺は名刺を手に持ち、矯めつ眇めつ陽にかざす。
日本語で営業部とか記されているが、社名に聞き覚えはない。
だが、続いて記載された名前に俺は目を細める。
【
「…ったく、落人も何も、ご同輩かよ」
この世界に来た時、俺は記憶を失っていた。
今となっても、それが幸か不幸か判断はつかない。
対して、コーウェンこと高遠はどうだったのだろう?
こんな異世界に飛ばされた挙句、自分の一部が消失し、わけの分からない力を与えられた彼が、呼び名を変え、どのような生き方を己に課したのか、今や知る術はない。
もう少し別の形で出会って、もっと良く話し合えたなら―――ってのも栓なき話だ。
もしかしたら、この世界で死んだことにより元の世界へ戻っているかも知れない。
それはそれで少し羨ましく思えるが、当分試す気にはなれなかった。
ドアの向こうに人の気配を感じる。
娘たちから何かしらの相談か、マリエが愚痴をこぼしにきたのか、サイベージの報告か?
それとも中座していた女房が、俺の不穏な考えに気づいて急いで戻ってきたのか。
これを
結局、得るものの方が多かった俺は、きっと幸せものに違いない。
というわけで。
俺は、もう少しこちらの世界で生きていく。
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