第7話『ぐちゃぐちゃになって、そして』
「はぁ…………はぁ…………」
一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。
とめどなく汗が流れ出るが、この際そんなのどうでもいい。
俺は確かめなければならないことがあった。
『嘘だろ……………』
『5日前電話が来た時に、丁度1週間後って言ってたから…………、でも詳しくは分かんない』
先ほどの百華とのやり取りが脳裏によぎる。
もしも、それが本当だとしたら、あさひは。
――――――――――あさひは、いなくなってしまう。
転校してしまうなんて遙か先のことだと思っていた。
ずっと一緒にいることができると。
明日も明後日も、当たり前にあさひと笑顔で過ごせると。
こんなはずじゃなかった。
もっとあさひと過ごせたかもしれない、もっと交わせる言葉があったのかもしれない。
俺はいつも後悔してんな…………。
情けなくて、どうしようもなくて、歯を食いしばることしか今はできない。
目的の階に到着し、目的の部屋番号のインターホンを押す。
すると、今日二度目のあさひの母親が顔を出した。
「涼介君…………」
「あさひ、転校、するって……、本当ですか?」
息も切れ切れ、確かめたいことを絞り出す。
すると、あさひの母親は一瞬驚いたような表情を浮かべた後、いつもの何かを我慢するかのような顔に戻る。
「…………」
しばしの間二人の間に流れる沈黙。
しかし、それも束の間、あさひの母親は「ちょっと待っててね」と家の奥に行ってしまった。
俺は今、ただあさひと会いたかった。
会って彼女と話したかった。
彼女の声を聞きたかった。
無情に過ぎる時間の中、ただただ心だけが焦ってゆく。
焦っても仕方が無いのに。
仕方が無いことなのに。
「涼介君」
「おばさん…………」
やがて戻ってきたあさひの母親は、何かを吹っ切れた表情で、俺に向き合った。
「やっぱり会いたくないみたい……。涼介君にこそ、ちゃんとあの子の口から伝えなくちゃいけないはずなのに。本当にごめんね……」
「…………」
「転校するのは本当よ。急にあの子の父親の転勤が決まって…………。本当に突然のことで私たちも混乱しているの」
「そう……なんですか。…………引っ越しは…………、引っ越しはいつ頃なんですか…………?」
すると、あさひの母親は、俺が今絶対に聞きたくなかった言葉を、躊躇いがちに発した。
「……明後日には、この街を…………」
……………………。
体から力が抜けるような感覚。
あり得ない。
百華から聞いた時から、ずっとそんなはずは無いと、現実的では無いと、否定していた。
いやだって、そんなのおかしい。
おかしいって…………。
唇を噛みしめ、こぼれそうな涙を必死に抑える。
「本当にごめんなさい、あさひと仲良くしてくれてありがとうね」
そんな言葉、聞きたくない。
「あの子、涼介君のおかげで凄く明るくなったの、本当にありがとう…………」
違う。
俺は何もしていない。
本当に何もしていないんだ。
悔しい。
俺には、何もできない
子(・)供(・)|の(・)俺(・)|に(・)|は(・)
「っ…………!」
不意に襲う既視感。
そうだ。
…………俺は、前にも同じことを思った。
同じ事を感じた。
ここ、あさひの家で。
勿論大人になってからじゃない。
多分、子供の時。実際に小学生の時だ。
それがあさひと関係している記憶なのかどうかは分からない。
でも、確かに俺は昔、自分が子供であることを心の底から悔しく思った。
「引っ越し先の住所とか、教えるから…………、落ち着いたら連絡を…………」
違う。
それじゃダメなんだ。
|ダ(・)|メ(・)|だ(・)|っ(・)|た(・)|ん(・)|だ(・)。
徐々に輪郭を伴っていく記憶。
それは明らかに俺の記憶とは大きく矛盾している。
整合性がない。
でも、ほとんど直感で理解していた。
――――――――――俺は以前に全く同じ事をしている。
あさひが転校することを知り、それを嫌だと思い、子供ながらに粘った。
そして、…………諦めた。
自分にできることはないと、子供の時分が直面している現実の壁に屈した。
小5に戻ってから何度目か分からない、頭がグチャグチャになる感覚。
モヤがかかったように不透明で、うっすらと濁っているような。
…………だけど、今はそんなのどうでもいい。
前は子供だった。
でも、今は違う。
俺は23歳の大人で、精神的にも成熟しきってしまった。
俺にできることを。
今の俺にできることを。
諦めるな。
絶対に諦めちゃダメなんだ。
それが俺の得た結論だった。
「あさひっ!!! 聞こえる!?」
「……………!」
意表をつかれたような顔をするあさひの母さん。
でも、そんなの気にせずに俺は言いたいことをぶちまける。
「えっと…………、今日の夕方……。そう、七時! もう夜だけどさ、団地近くの公園に来て欲しい!!! 話したいんだ!!!!」
思い思いの声で伝えるが、返答は無い。
でも、これでいい。
このまま帰ってしまっていたら、絶対に後悔する。
また、後悔してしまう。
「涼介君…………」
「俺やっぱ、このままあさひに会わないままお別れなんて嫌です。…………すいません。うるさくしちゃって……」
「……うぅん、あさひの為に、本当にありがとね」
そう言うとおばさんは、嬉しそうに微笑んだ。
***
約束の時間まであと少し。
例の公園内には相変わらず俺以外誰もいない。
まだうっすらと明るい藍色の空の下、俺は昼間百華と座ったベンチに腰掛け、一人考えていた。
何を話そうか。
何を話すのが正解なんだろ。
いや、そもそもあさひは来てくれるだろうか。
…………そんなこと俺が心配しても仕方がないんだけど。
次第に夜の色が濃くなっていく夏の夜空を仰ぎ見る。
―――――――――俺にはあさひとの転校に関して、二つの記憶がある。
一つは夏休み明けにあさひの転校を知った記憶。
これは元々、俺が小学生の頃の出来事のはずだった。
あさひを拒絶し、その結果全く交流を持たなくなり、そして夏休み明けに転校したことを知った。
それ以降の人生にまで大きな影響を与えることになったこの出来事は、一生の後悔として記憶に刻まれている。
そして、二つ目の記憶。
あさひの家で彼女の転校を知り、そして、子供ながらに諦めた記憶。
俺にできることは無い、と。
子供であることを、無力であることを悟り、俺は身を引いた。諦めてしまった。
デジャブとして表れたこの記憶は、変なリアリティを伴っていて、俺を更に混乱させている。
「…………何が、正しいんだよ」
俺にはもう分からなくなってしまった。
自分の記憶に自信が持てない。
俺はそもそも今どう言う状態なんだ……?
今現在の、23歳としての記憶は確かにある。
大学を経て、片っ端から受けれる会社を受け、唯一内定を出してくれた企業に就職した。
日々の生活は特に特別なことは何もない。
新卒らしく毎日毎日しごかれ、理不尽に怒られ、山づみの仕事を消化する日々。
生きがいも無く、ただ惰性にルーティンワークをこなしているだけ。
大人ってもっとキラキラしているものだと思っていた。
早く大人になりたいと思っていた。
でも、今になって思うのは完全に逆だった。
大人は子供に戻りたいと思い、子供は大人を夢見て日々を過ごす。
「もしかして夢なのかもな…………」
俺が今こうしているのは、本当はめちゃめちゃリアルな夢で。
あさひとの日々も、俺が勝手に生み出した妄想で。
目を覚ましたら、いつもの仕事が待っていて。
もう、何が何だか分からない。
空の藍色は既に消え、公園内の街頭がチカチカと点灯する。
すると、向こうの方、つまり団地の方から誰かが歩いてくるのが見えた。
「あさひっ…………!」
急いで、入り口付近に駆け寄る。
だが、街頭が照らし出したのは、複数人の影だった。
そして、その人影には俺は見覚えがあった。
「何で…………」
こんな所で。
こんなタイミングで。
「お前!」
近づいてきた俺に対し、挑発的な言葉が投げかけられる。
それもそのはず。
公園に近づいてきたのは、1週間前にゲーセンで会った奴らだった。
しかし、あの時とは違い、人影は四つ。
「!! コイツ、前にゲーセンで俺らから逃げた奴じゃん!!」
「兄ちゃん、コイツだよ。コイツ!!! 涼介っつーんだけどさ、いっつも女とつるんでてきもちわりぃんだよ!!!」
その中の一人は俺と同じクラスの、そして、俺を冷やかしていた奴。
「いきなりイス蹴飛ばしやがってよ! 調子に乗ってんだよ!!」
「それまじで? 圭太に何してくれてんだよ」
途端に他の三人の目の色が変わる。
俺に対する明確な敵意。
「っ…………!」
あさひと待ち合わせしているため、逃げるわけにも行かない…………。
どうすればいい…………?
「何きょろきょろしてんだよっ!!」
考える間もなく、リーダー格と思われる奴の拳が迫り、そして。
「がっ…………!」
頬に衝撃が走り、後方へ大きく吹っ飛ばされた。
鋭い痛みの後、じんわりと血の味が口の中に広がる。
「何を…………!」
「涼介、お前さ、ちょっと調子のってるからよ~。罰を与えま~~~す」
同時に腹部に絶え間ない鈍痛。
地面に横たわる俺に足蹴を食らわす残りの三人。
生々しい痛みが全身を襲う。
「コイツ全然やりかえしてこないじゃん! だっさ!!!」
「気持ち悪い奴は、俺らが駆除しまーす」
グシャグシャな感情。
思えばずっと考えてばかりいた。
自分の気持ちとか、これからどうしたいか、とか。
それって、考える余裕があるからできるんだよな。
つまりは大人だから。
子供の頃は、自分の感情の赴くまま、やりたいことをやってた。
…………今のコイツらのように。
視界の端にでは、嬉々として俺に蹴りを食らわす四人を捉えている。
もう、いいや。
むしゃくしゃする。
「いってぇっ!!」
歯を食いしばり、思いっきり近くにいたやつの足を蹴り飛ばした。
「んだよ! やんのかコラァ!!!!」
「…………!!!」
立ち上がり、手当たり次第に殴りかかる。
数発に一発手応えがあるが、それに比例するかのように俺の体や顔面にも鋭い痛みが生じる。
殴り、殴られ、蹴り、蹴られ。
汗やら血液やらの体液が飛び、砂埃と交じって肌が汚れていく。
なんで、こんな奴らに。
俺が…………!!
「後ろから押さえろ!!」
二人がかりで俺を後ろから羽交い締めにし、残りの二人が俺を蹴る。
みぞおちを思い切り蹴られ、意識がトびそうになりながらも、必死に耐える。
「ちきしょう………………!」
色々なことが脳裏に浮かんでは消えてゆく。
それは、この夏の思い出。
これまでの人生。
最後に残ったのは、あさひの笑顔。
「何でだよっ!!!」
羽交い締めを思いっきりふりほどき、二人の顔面を殴りつける。
「何で、ずっと一緒にいられないんだよっ!!!!」
リーダー格の腹部を思い切り蹴り飛ばし。
「意味が分かんねぇよ!!!!!!」
近くにいた奴の頭を掴み、思いっきり頭突きを食らわし。
視界がチカチカと明滅して。
世界がグラグラと揺れて。
体中の痛みが消えて。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
もうどうにでもなれ。
どうして思い通りにならない? どうして傍にいられない? 何で転校なんてする?
そもそも何で俺がこんな思いを。
何でこんなに苦しまなければならない?
何で俺たちは出会ってしまった? 何で俺はあの時声をかけてしまった?
こんな意味の分からない、俺のゴミみたいな人生。
ガキの頃に戻って、優越感に浸って。
意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。
消えゆく思い出。思い出される記憶。そして矛盾。
もう感覚だけで拳を振るっていた。
何度も何度も何度も。
声も何も聞こえない。
向かって来るものをただ真正面から殴るだけ。
「コイツ何なんだよっ!!」
「きもちわりい……!」
二人、公園外に出て行くのが見えた。
あと二人、目の前に。
クラスの奴と、その兄貴。
「兄ちゃん、もっとボコボコにしてくれよ!!!」
近くから声。
思いっきり振り抜くと手応えがあった。
「…………痛いっ! 痛いよっ!! 兄ちゃん!!!!」
「…………!!」
兄貴の方も公園から出て行く。
残ったのはコイツだけ。
「ごめんって! 涼介!! 悪かったよ!!! もうバカにしないからさっ…………」
ずっと兄貴やその仲間に殴らせておいて、自分は高見の見物か。
人の痛みをしれ。
「がっ………、涼っ……介………!!! いたっ………いたいぃ…………!!!」
馬乗りになり、ただ機械的に拳を振り下ろす。
何度も何度も何度も。
「やめてっ!!!!!」
聞こえる声。
聞き覚えのある声。
ずっと聞いてた声。
ずっと聞いていたい声。
「涼介君っ!!! そんなことしちゃ、ダメだよ…………!!!」
腕にしがみついてくる人影。
柔らかい感触。
甘い匂い。
街灯の明かりで照らされるその顔。
「……………………あさひ?」
いつものように真っ白なワンピースにその身を包んだあさひ。
街頭に照らされていて綺麗だ。
でも、その顔は涙でグチャグチャで。
なんであさひが泣いているのか分からなくて。
視線を下に戻すと、泣きながらボコボコに顔を腫らしたクラスメイト。
「ひぃっ………!!」
力を緩めた一瞬の隙をついて、俺の馬乗りから脱し、公園の外へと逃げてゆく。
「あさひ…………」
思いっきり抱きしめた。
離したくない。離れたくない。
「あさひ…………好きだ…………。大好きだ…………」
……そう言えば、あさひに好きって、言ったことあったっけ…………?
無いよな……?
初めてだよな…………。
もっと自分の気持ちを、言葉にして、伝えてこれたら、良かったのに…………。
ごめん、本当にごめん…………。
涙が頬を伝ってゆく。
ギュッと抱きしめかえされる感覚。
途端に朦朧としていた意識が鮮明になる。
体中に血流が流れ、全身に痛みが戻ってくる。
ズキンズキンと、脈拍に会わせ頭が痛む。
狭かった視界が、ゆっくりと広がっていく。
「あさひ…………」
目の前に涙で濡れたあさひの顔があった。
目が合う。
引力のように。
ゆっくりと。
二人の距離が近づき。
そして――――――――――――――。
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