第3話『来る夏休み』
「それでさ、お母さんがね……」
先ほどの事なんて最初から無かったかのように、朗らかに話しているあさひを横目に俺は内心気が気でなかった。
どんな顔をしてあさひと話せば良いのだろう。
チラッとあさひの表情を伺う。
長い前髪から大きな瞳を覗かせながら…………、なんだかとても楽しそうだ。
「あさひ、楽しそうだね」
「うん、すごく楽しい……。それに、すごく嬉しい」
「やっと、涼介君と話せたから」
頬を赤らめながら、彼女は静かに微笑む。
切なくなるほどに綺麗な笑顔。
胸の中心が締め付けられるように苦しくなる。
「…………あのさ」
「何……?」
「明日も一緒に帰らない?」
自然に出てきた言葉に俺自身が驚いていた。
今まであんなにほったらかしにしておいて、拒絶しておいて、よくそんなふざけたことが言える。
しかし、そんな俺をよそに、彼女はもっと嬉しそうな表情を浮かべ、コクンと頷いた。
頷いてくれた。
小5の頃では絶対にできなかったやり取り。
でも、こうして俺たちは互いに言葉を交し合っている。
本当に夢なんじゃないか?
いや、もう夢でいい。
それほどまでに、この光景が酷く現実離れしていた。
…………これは、せめてもの罪滅ぼしだ。
ただの自己満足でしかない。
自分が幸せになろうなんて絶対に思うな。
これから俺の取る行動の全ては彼女のため。
強く自分に言い聞かせる。
そう、そうだ。
心の中で静かに誓う。
明日も小5のままである保証はない。
家に帰り、一晩寝たらまたいつもの冴えない23歳に戻っているかもしれない。
それでも、俺がこの姿である限り。
俺があさひと言葉を交わせる限り。
…………あさひが転校してしまうまで、彼女のために過ごそう。
そして、最後に。
笑って「さよなら」と言おう。
目の前にいるこの子を、もうこれ以上悲しませないように。
そう強く思った。
***
次の日、俺は昨日同様小5の姿で目が覚めた。
本当に…………何だ……?
何が起こっているんだ。
何で……、よりにもよって小5なんだ。
頭を振り、頬を軽く叩く。
……寝ぼけた頭で考えても仕方が無いことだ。
まぁ、ポジティブにいこう。
今日も今日とて仕事に行かなくてもいいなんて最高だ。
朝の伊藤家の食卓は二人だった。
母さんと俺。
親父は早速出社したようだ。
悲しいかな、俺も親父の苦悩が分かるような歳になってしまった。
それにしても…………。
味噌汁をすすりながら母さんの方を見る。
昨日も驚いたが、何度見ても馴れない。
この人、めっちゃ若いんですけど……。
それもそうだ。俺の時間軸では50目前の中年なのだが、小5の頃は30代中盤? 嘘だろ。
信じられない心持ちでじ~っと眺めていたら、「どうしたの?」と訝しげな視線を送られた。
「涼介、今日はおとなしいね」
「……そんなことないけど」
「唐揚げ作ったのに、反応薄いし」
「朝から唐揚げなんて……、胃がもたれるよ」
「子どもが何言ってんの。お父さんみたいなこと言って………。今日母さん遅くなるからね」
「はいよー」
母さんは小学校の教員をしていた。
俺らと同じく学期末であるため、忙しいんだと思う。
まぁ、俺からしたら自由な時間が増えるというのはいいことだ。
何をして過ごすかが悩むんだけど……。
我が伊藤家にはWi-Fiがなく、ネット環境がない。
これは両親の仕事が関係しているのだが、どっちも職場でネットができるため、家には必要ないとのことだった。
ただ、それも中学の頃の俺による熱心な説得により、状況は大きく変わるんだけど。……まぁどうでもいいか。
いずれにせよ、ネットもない。スマホもない。
この頃の小学生って何をして時間を潰していたんだろう。
マンガ? ゲーム?
あと、他に何かあるか?
「涼介、いつまで食べてんの? もうそろそろ行かないとマズいんじゃない??」
…………!
ぼーっとしてた。
しょうも無いことを考えている場合じゃない。
急いで米をかき込み、味噌汁で無理矢理流し込む。
「行ってきまーす」
「はい、行ってらっしゃーい」
***
「来た来たっ!」「ちょっと聞こえるよ……!」
「…………?」
始業時間ギリギリに教室に入った俺に向けられた視線。
俺を見てはヒソヒソと声を潜めるクラスメイト達。
明らかに嫌な注目のされ方。
そして、その注目のされ方には身に覚えがあった。
当時、俺はこの空気に耐えられなかった。
耐えられずに逃げ出してしまった。
俺は努めて冷静に振る舞うようにし、自分の席に着いた。
隣の席の愛子ちゃんが心配そうにこちらを見ているのは、大体の事情を知っているからだろう。
俺に対する冷やかしを、彼女はずっと近くで見てきた。その都度「黙ってて見てて、ごめんね」と謝られた。
愛子ちゃんは全然悪くない。
たとえ彼女が注意したところで、冷やかしが無くなることはない。
小学生は思っているよりも、ずっと子どもなんだ。
結局は当事者、つまり俺が何とかするしかないんだ。
「涼介、お前さ、またあさひと帰ってたってマジ?」
来た。
ぞろぞろと俺の席を囲む数人。
クラスメイトの内、俺との関係性が薄い奴ら、それが冷やかしの主犯格だ。
「手とかつないじゃってたらしいじゃん!! お前まじエッチじゃん!!!」
「はずかしくねぇの!? あんなくらい女と歩いて!!」
「きんもちわりぃ! 女とつるむ奴はドッジボールにいれてやんないぞ!!!」
小学生らしい、しかし、明確な敵意を持った言葉達が一斉に発せられる。
小学生だった頃の俺は気圧されて、何も言い返せなかった。
だけど、今は違う。
「一緒に帰りたいから帰ったんだよ、ダメ?」
とぼけたように小首を傾げる俺に対し、彼らは予想外の反応だったんだと思う。更に口調を激しく詰め寄ってきた。
「ダメに決まってんだろ! そんなのおこられるんだぞ!!!」
「きめた、もうにどといれてやんねぇ!! 学校にも来んなよ!!!」
「なぁ、みんな!! こいつきもちわりぃよな!!!」
不意に、視界の先で、巨体が席から立つのが分かる。
「おい! そこまでにしとけよ」
そして、裕樹がいつも俺をかばってくれる。
記憶通りだ。
ここで裕樹や将太が出てきて、彼らをなだめ、事態は一旦収束する。
だが、あくまでも『一旦』だ。
次の日にはまた、同じようなことを繰り返す。
冷やかしというものはそう言うものだと思う。
良いおもちゃを見つけたら徹底的に遊ぶ。遊び倒して壊れるまでやめない。
それが高学年という期間の闇。
子どもの残酷さだと思う。
「涼介、嫌がってんじゃねぇかよ! やめろ!」
「気持ち悪いものに気持ち悪いって言って、何がわりぃんだよ!!」
「裕樹、大丈夫だよ」
その場に立ち上がり、近づいてくる裕樹を制する。
重ね重ね言うが、これは俺が何とかしなければならない。
いつまでも裕樹に助けてもらっていては、何も変わらない。
「だって…………! 涼介!」
「大丈夫だって」
改めて眼前を見据える。
3人。
そうだ、この3人だ。
改めて顔を見る。
ずっとうつむいて、耐えてたよな、俺。
冷やかしが始まって以降、なかなか顔を見ることができなかった。
そうだ、コイツらだよ…………。
「んだよ、文句あんのかよ!」
無いわけないだろうが。
文句だらけだよ。
きっと、コイツらは言葉で言っても止めない。
そもそも小学生に言葉で立ち向かうのは正しい手段じゃない。
だったら。
こちらも相応の手段をとるまで。
小学生らしい、大(・)人(・)|と(・)|は(・)思(・)|え(・)|な(・)|い(・)手(・)段(・)を。
「いい加減にしろよ」
同時に思いっきりイスを蹴り上げた。
「ひっ……!」
近くにいた女子が顔を覆い、教室内は静寂に包まれる。
2、3回バウンドして地面に転がるイス。
誰もいない方に蹴ったつもりだったが、それでもかなり派手に転がってくれた。
そして、この状況。
目の前の3人はおろか、クラス中の全員が唖然として動けずにいる。
しばしの静寂の内、始業のチャイムが鳴る。
と、同時に吉田先生が教室に入ってきた。
「……おい、なにがあった?」
教室内の異質さに気付き、珍しく神妙な面持ちで一瞥する先生。
「えっと……、あの…………」
扉の近くにいた女子が、こちらを指さす。
騒ぎの中心に気付き、ツカツカと近づいてくる。
「涼介…………、お前か?」
俺はその問いに、軽くうなずいた。
***
「なぁ…………、涼介。黙ってちゃ分からないだろ」
「…………」
「状況は、クラスの見てたやつから聞いた。でも本人からも直接聞きたいんだけどなぁ」
「…………僕がイスを蹴り飛ばしたんです」
またそれか……、と言うように肩を落とす。
「……頑なだな」
先生は少し考え込んでいたようだったが、やがて諦めたようにため息をついた。
「分かった、そこまで言いたくないんなら大丈夫だ。……帰って良いぞ」
「…………すいませんでした」
深々と頭を下げ、応接室を出て行く。
結局、放課後までかかってしまった。
一日の空き時間を通して、朝の出来事に関して色々聞かれた。
俺は特に事の発端を話すつもりはなかったし、大体の事情は見ていたクラスメイトが知っているだろうと思っていた。
階段を降り、昇降口に向かう。
もう5時を過ぎているというのに、空はまだ明るい。
もうずっと昼のままなんじゃないのか、そんな錯覚に陥るほど空は青く透き通っていた。
靴箱で外靴に履き替え、昇降口から外に出る。
何気なく辺りを見回すと門柱の所に人影があった。
「あさひ?」
その人影に声をかける。
振り向くと、それは確かにあさひだった。
「待っててくれたんだ」
でも…………、あれ?
なんか、ちょっと違和感が……。
「…………前髪切った?」
すると彼女は恥ずかしそうに微笑み、「お母さんに切ってもらったんだ……」と呟く。
本当に恥ずかしいのか、顔を赤らめ、うつむいてしまった。
何気に前髪で隠されていない顔を見るのは始めてかもしれない。
何て言うか…………、あれ?
めちゃくちゃ可愛くないか?
人形のような大きくパッチリとした目に長いまつげ。
鼻筋はスッと通っていて、小ぶりな桃色の唇が羞恥からかキュッと引き結ばれている。
「…………」
……いやいや、待て待て。
相手は小学生だぞ?
今(・)|の(・)俺(・)が、ドキドキするのは普通にヤバくないか。
「似合ってる。うん。似合ってると思うよ」
これ以上凝視するのはマズいと思い、視線をあさひから逸らす。
すると彼女は「ふふっ」と嬉しそうに微笑んだ。
可愛い…………。
しばし、見とれてしまうのも今日くらいはいいだろう。
ただえさえ、色々あったからなぁ…………。
「あの、ちょっと聞いていい……?」
いきなり言いよどむあさひ。
きっと今日の件についてだろうな。
朝の一件は俺のクラスだけでなく、学年全体に瞬く間に広がったらしい。
と言うことは、あさひも大体の事の顛末は知っているわけで…………。
「今日帰り遅くなったのって……」
「……うん。ちょっとやらかしちゃってね」
あんなことをしてしまったら、然るべき生徒指導が入るのは分かっていた。
だから、今日は先に帰ってて良いと百華に伝言を頼んだんだけど……。
彼女はこうして待ってくれていた。
「いつもの冷やかしが原因……?」
「………まぁ、そんなところかな」
「それよりも、あさひはクラスで大丈夫? 何か嫌なこと言われたりとか……」
「私は大丈夫だよ、クラスでも仲の良い子としか話してないからね」
今回の件で一番心配していたのはそこだった。
俺と関わりの深い人物として、今あさひは皆に認知されている。
俺があんなことをした結果後ろ指を指されることにならないか、不安だったけど……。
「元々、私のクラスはそこまで仲が良くないから……」
「……そっか」
何もないと言うならそれに越したことはない。
でも、きっとこの子は不安にさせまいと。
何かあったとしても、きっと俺には言わないんだろうな。
***
結果から言うと、あの一件から数日間。
俺は冷やかしてきた奴らだけでなく、クラスメイト全体から腫れ物のように扱われた。
そりゃそうだ。
いきなりイスを蹴っ飛ばすような奴に率先して関わり合いたい奴なんていないだろう。
でもそんな中、裕樹やいつもの面々だけは普通に接してくれた。
それだけが本当に救いだった。
そして、…………そんなこんなで迎えた終業式の日の帰り道。
「明日から夏休みだけど…………、あさひは何か予定ある?」
「今んとこ何もないよ! 涼介君、もしかしてどこかに誘ってくれるの??」
「まぁ……、誘うという意味ではあってるかな。……夏休みも毎日会おうよ。どこに行くかとかは後から決めとしてさ」
すると、彼女は嬉しそうに頬に手を当てて「~~~~~~!!」と喜んでいる。
その様子を微笑ましく見つめ、誘って良かったと胸をなで下ろした。
ここ数日間、一緒に帰ってみて分かったことがある。
その1、あさひは本当はめちゃめちゃ明るい女の子だった。
俺の記憶の中のあさひは暗く、口数が少ない印象だったが、今の目の前にいるあさひはどうだろう。
前髪は綺麗に切りそろえられていて、後ろもアップに、黒髪のポニーテールが歩くたびにピョコンピョコンと揺れている。
口調も砕けに砕け、今や彼女の方が俺よりも口数が多いまである。
その2、あさひは以外と背が高い。
と言うか、俺が低すぎるのか?
女の子は男よりも発育が良いと言うし、高学年の頃の女子なんてみんな身長が大きいイメージがあった。
まぁ、別に全然気にはしていないけど。
…………本当に気にしてない。
ほんの少し、あくまでもほんの少し、あっちの方が高いだけだから。
小学生の頃の俺って本当にチビ助だったことを噛みしめる。
何て言うか、格好がつかない……。
その3、あさひはめちゃめちゃ犬が好き。
帰り道を一緒に歩いていて……、そろそろかな。
この角を曲がると、大きいゴールデンレトリバーを飼っている家がある。
その家の前で数分間足を止め、その犬を見るというのが日課になりつつあった。
「可愛い~~~! しっぽ凄い振ってる!!」
その間、俺はと言えば犬ではなく、ずっと楽しそうなあさひを見ている。
だって、俺からしたらそっちの方が可愛いから。
「ほら、そろそろ行こう」
「えぇ~~~、もう!? まだちょっとしか経ってないじゃん!」
「こうでも言わないと、日が暮れるまで見てるだろ…………」
「だってさ、犬って可愛いじゃん……。ずっと見てても飽きないんだもん」
それは俺も同じなんだけどな、と言う言葉を飲み込み、あさひの手を引く。
俺だってできるなら、ずっとあさひと一緒にいたい。
だけど、今の身分上そうもいかないのが心苦しいところだ。
「ところで、夏休みさ、何したいとか……ある?」
小5の夏休み。
それは俺の人生において大きな意味を持っていた。
そう。
この夏休み中に、あさひは転校してしまう。
これは変えようのない事実だ。子どもの俺が関与できることじゃない。
彼女はこの夏休み中に確実にいなくなる。
……仕方の無いことだ。
俺はその事実を踏まえた上で、転校してしまうその日、最後の瞬間まで一緒にいたいと思った。
しかしながら、学校で会えるのは今日が最後。
それ故に、夏休みもあさひと過ごすべく、とりあえず誘っては見たものの、完璧なまでのノープランっぷりだった。
「したいことかぁ…………、なんだろ……」
本気で悩んでいるらしく、眉間にはシワが刻まれている。
「……じゃあ、何か好きな事ってある? 犬以外で」
最後に犬以外でと付け加えたのは、目を蘭々に輝かせて「犬!」と答えるあさひが想像できたから。
現に犬以外でと言った瞬間に、しゅんとしたのは俺の見間違いじゃないと思う。
「犬以外で……? …………ないかも、好きなもの」
「…………う~ん」
これは困った。
当の俺も、別にやりたいことが無いわけじゃないけど…………。
好きなもの好きなもの……。
「じゃあさ、涼介君」
「……………ん?」
「私に好きなものを作るってのはどう?」
「好きなものを作る……?」
一瞬言葉の意味が分からずに首を傾げてしまう。
すると、よく分かっていない俺の意を察したのか、あさひは指をぴんっと立てて、嬉々とした表情を浮かべた。
「そう、この夏休みを通して好きなものを見つけるの!」
……なるほど、そう言うことか。
となると、色々なことをやってみる必要があるわけだ。
「……うん、分かった。何やるか考えとく」
それを聞くやいなや、彼女は満面の笑みを浮かべ俺の少し先を歩き始めた。
と思ったのも束の間、くるりとふり返り、小首を傾げた。
「涼介君は毎年何をやってるの? 夏休み。私もやってみたいんだけど」
「俺? 俺はえっと…………」
小学生の頃、か?
それこそ普通の遊びしかしていなかった気がする。
虫取りとか、川遊びとか。
山とかに行ったり、とにかく自然を相手に、遊んでいたような気がする。
「女子が興味なさそうなことばっかだよ?」
「全然いいよ。涼介君のしてること、知りたいし」
その言葉に少しだけドキッとする。
ただえさえ暑いのに、さらに体感温度が二度ほど上がるのを感じながら、視線を逸らした。
…………めちゃくちゃ考えよ。
まだ昼の暑さが残る住宅街を、二つの影がゆっくりと歩いて行く。
これから一緒に何をしようか、そんなことを考えていた頭の片隅で。
俺はいつまで小学生の姿でいられるのだろうか、とふと思った。
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