第2話『後悔と再会』



 誰しも、忘れられない幼き頃の思い出の一つや二つあるんじゃないだろうか。

 こんな時期が楽しかったとか、とか。こんな出来事があっておもしろかった、とか。

 その後の人生において何か大きなものを残してくれるもの。それが思い出。


 俺にももちろん、そんな思い出がある。

 しかし、前述したようなポジティブなものじゃない。

 むしろ、その後に人生において足かせになるような、どちらかと言えば苦々しい部類に入ると思う。




 話自体は何てこと無い、きっとどこでもある話だ。






 小5の頃、気になる女の子がいた。

 4年生の頃に隣のクラスに転校してきた子で、名前は「三井あさひ」と言った。

 初めは特に何の気にも止めなかった。

 隣のクラスだし、俺との接点も何もない。

 学年で集まった時に、たまに見かけるくらい。

 状況が変わったのは五年に進級してからだった。

 五年になっても、あさひとは違うクラスのままだったが、あさひの親(・)友(・)と同じクラスになった。

 それが、今井百華だった。

 百華とは幼稚園から一緒で、顔を合わせれば憎まれ口をたたき合う、いわゆる腐れ縁的な関係性だったと思う。

 そんな百華から、ある日唐突に言われた『ちょっと、話したいっていう女の子いるんだけど』という一言。

 当時の俺はかつてない事態に酷く困惑し、その場から逃走したことを覚えている。

 そんなこんなで百華から説得され、結局無理矢理連れて行かれた先にいたのが、三井あさひだった。



 彼女のことを一言で言い表すなら、極度の人見知りだった。

 声は聞き取りづらく、目にかかるほどの長い前髪が表情を隠してしまっている。

 なんか暗そう……、それが俺の彼女に対する第一印象だった。

 小5当時、精神年齢もちゃんとガキだった俺は、女の子と改まって話をする、と言う状況が無性に照れくさく。初めてちゃんと会ったこの日以降、何かと理由をつけて逃げ出してしまっていた。

 しかし、一度意識してしまったら何かと気になってしまうのは仕方ないと思う。

 結局、俺はあさひのことを自然と目で追うようになり、その姿を探すようになってしまった。

 行間休みや、朝会、何かと理由を付けてはあさひのクラスを訪れ、あさひを見ていた。

 

 お風呂に入っているとき、朝起きたとき、とにかくふとした瞬間にあさひのことを思い浮かべていた。




 今考えたら、それはもう間違いなく恋なんだろうけど。

 そんな淡い思いに、当時の俺は気付かなかった。



 大体五月の終わりぐらいのことだろうか。

 俺は彼女から告白された。

 今にも消え入りそうな声だったが、もじもじと顔をうつむかせながらも必死に言葉を紡ぐその姿に、胸の高鳴りが止まらなかった。

 こうして、俺とあさひは付き合うことになったのだが、所詮小学生の恋愛だ。

 すぐに大きな壁にぶつかった。



『付き合うって、何をすればいいんだろう』



 身体的にも精神的のも未熟な俺には、まだ付き合うと言うことがどんなことか理解していなかった。

 漠然と雰囲気だけは理解していたが、具体的なことはさっぱり分からなかった。

 そう言う意味でも、俺はまだまだ子どもだったんだと思う。

 でも、これだけならまだ些細な問題であるように思う。

 付き合い始めてまもなく、そんな状況に追い打ちをかけるような出来事が始まった。




 同級生達による冷やかし。



 始めてあさひと一緒に帰ることになった日のことだった。

 人目を忍びながら帰ったのだが、奇しくも塾に向かう同じクラスの男子に見つかってしまった。

 翌日、同じクラスどころか、学年全体にまで俺たちの噂が広がり、ありとあらゆる憶測の元、冷やかしに冷やかされまくった。

 今であればそんな冷やかしは別に何ともないだろう。

 何事もなくやり過ごす術は心得ている。

 だが、小5の少年にとっては大きな心の傷になってしまった。


 女の子と一緒に帰るのは恥ずかしいこと、女の子と一緒に話すのは恥ずかしいこと。




 そして、女の子と付き合うのは恥ずかしいこと。



 そんな結論に至った俺は、冷やかしによる経験したことない羞恥心もあり、夏休み前にはあさひとの交流をほとんど持たなくなってしまっていた。

 いや、もう話しさえもしなかったと思う。




 意図的に接触を避け、……彼女との関係もなかったことにしようとした。

 それを見かねた百華は最後まで世話を焼いてくれたが、俺の態度は変わることはなく、季節は夏を迎えていた。

 この頃にはもう冷やかし自体は無くなっていたが、相も変わらず俺は彼女と関わることを避けていた。

 学校も夏休みに入り、一連の出来事のことすら考えなくなっていた。



 そして…………、休み明け。



 彼女は……、あさひは。




 学校からいなくなっていた。





 休み中に急に転校が決まり、そのまま転校した、と後から聞いた。

 百華は俺を涙ながらに攻めた。

 どうしてもっとあの子と話してあげなかったの、と。

 冷やかされてツラいのは涼介だけじゃなかったんだよ、と。



 後悔しても遅かった。

 全部全部遅かった。




 嫌なことから逃げるのは当然のことだ。

 あさひもきっと分かってくれるだろうと、独りよがりな考えで、彼女から逃避した。

 別れの言葉も交わすことなく、彼女はどこか遠くへ行ってしまった。

 この経験を、俺は何ヶ月も何年も、…………そして、今も引きずっている。


 自分がまいた種だ。

 そのことでどれだけ苦しもうが、全部俺の責任だ。




 この一件以来、俺は女性との接触をできるだけ避けてきた。

 そして………………、人そのものに対する興味も失ってしまっていた。

 要するに、この経験以来、俺は人を好きにならなくなってしまった。

 これはきっと一人の女の子を傷つけた罰なのだと思う。

 物心ついた頃から恋愛そのものに興味を失ってしまい、中学、高校、成人、就職と、いたずらに日々を消費し、今日に至る。


 重ね重ね言うが、こんなのはきっとよくある話だ。

 珍しくもなんともない。





 あさひとは、もう会うことは無い。



 また、言葉を交す機会もない。





 今後の人生において。





 そう…………、思っていた。






 そう思っていたのに。




 ***




「…………!!」



 心臓は変わらず早鐘を打っている。

 目の前に、あの三井あさひが存在している。

 その事実が未だに信じられない。


「あさひ、連れてきたよ」


 この頃の俺は、あさひを避けに避けていた頃だ。

 それは彼女はもちろん、百華も分かっていたはず。

 それでもなお、こうして関わりを持ちたがっている。

 何を言われるのか、内心気が気ではなかったけど、あさひの姿を見た瞬間から覚悟はできていた。

 俺に対する恨みつらみかもしれない。

 別れの言葉かもしれない。


 だけど、どんな罵詈雑言であれ、俺は全部受け止める。

 それが今(・)|の(・)俺(・)ができる唯一の罪滅ぼしのような気がした。

 心なしか、あさひの目は涙に濡れている、ような気がする。

 それほどの決意を持ってこの場に臨んでいる、ということなのかもしれない。



「百華ちゃん、ありがとう。涼介君もごめんね、来たくなかったよね」


 ようやくあさひが口を開いた。

 つっかかったりすることなく、聞き取りやすい声。


「ずっと、言いたいことがあって…………。聞いてくれる?」


 覚悟を決め、コクンと無言のまま頷いた。


「ごめんなさいっ……」


 体を曲げて頭を深々と下げているあさひ。

 よく見ると、体の前で組んでいる手は小刻みに震えている。


「…………え?」


 頭に多くの疑問符が浮かぶ。

 彼女の口から出たのは、俺の予想していた言葉のどれでもなかったから。


「……どうしてあさひが謝るの?」


 すると、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「私のせいで、涼介君に迷惑がかかったから…………。私があの日、一緒に帰ろう、何て言ったから、涼介君のクラスの男子に見つかって…………それで……」


 まさか、この子は。

 この女の子は。


 一連の出来事は全部自分の責任だ、とでも思っているのだろうか。


 だとしたらそれはお門違いだ。

 思い違いも甚だしい。

 彼女は自分を責める前に俺を攻めるべきなんだ。


「涼介君も嫌な思い、いっぱいしちゃったよね…………?」


 違う。全部違う。


「だから、一度ちゃんと謝りたくて…………」


 だから全部違うんだって!!


「あさひは悪くない!!!」


 気がつけば声を荒げていた。

 あさひはおろか、百華でさえもハトが豆鉄砲を食らったような表情で俺を見つめている。


「全部、俺がガキだったから!! 自分のことしか考えてなかったから!!!」


 …………あぁ。ダメだ。

 今まで抱えていた感情が。

 取り返しのつかない後悔が。

 理性を言う制御を失い、感情と共に溢れてくる。

 もうこの子をこれ以上傷つけちゃ。

 この子は、こんなにも優しく。こんなにも健気じゃないか。

 ほんとは俺のようなクズと関わるべきじゃない。

 もっと彼女を一番に考えてくれるような。そんな人と…………。


「君は何も……、悪くない…………」


 もうほとんど絞り出すような声だった。

 情けない。

 情けない。

 本当に情けない。


「…………ごめん、百華ちゃん。ちょっと…………」


 席を外してくれ、という意味だろう。

 それを聞くと百華は愛想笑いを浮かべ、そそくさとどこかへと行ってしまった。

 百華にも申し訳ない。きっと気まずかったと思う。


「涼介君」


「…………?」




「一緒に帰ろっか」

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