第8話

キイイイイイイィィィィーーーーン

耳を覆いたくなるような甲高い金属音のような音があたりをつんざいた。

「今度はなに!?」

茜が周囲を警戒しながら叫んだ。

怜奈は茜の背後で何かを小声でぶつぶつと言い始めた。

抱きしめていた凛香が茜の腕から滑り落ち、地面に膝をついた。

花音と名乗っていた凛香の体から力が抜けて、頭と両腕がだらりと下に下がった。

茜は慌てて、また彼女を抱きしめようとしたがそれより一瞬早く凛香の体に力が入った。

「!?」

脊髄に何かが走った。

凛香は両手を地面についた。

ついたその場所はちょうど茜が敷いたルーンの結界の境界線だ。

もつれ合っていた黒い影たちが二つに分離した。

下敷きになっていた男の影は動かず、力なく横たわっていた。

一方、馬乗りになっていた巨漢の黒い影は鈍い光を放つサバイバルナイフを振りかざして凛香たちの方へ突進してきた。

邪悪な空気が重くその場にのしかかった。

巨漢の黒い影は一点しか見ていなかった。

自分が求めてやまない「花音」という少女だけを。

花音の魂が入っている凛香という体を求めた。

『こいつはそれを奪ったっ!俺は誰にも汚されずにきれいなままでいたおまえを…おまえを……。ああ、俺の理想だったのに!その小さな手で俺に触れたおまえも、楽しそうにおしゃべりをしてたその唇も!髪の毛一本たりとも誰にも渡したくなかった!真っ白なおまえに触れていいのは俺だけだ!』

しないはずの足音がドス…ドス…と怜奈や茜の耳に響いた。

(ヤバい!実体化が始まってる)

「茜さん!」

「凛ちゃん!」

咄嗟に茜は凛香をもう一度抱きかかえると黒い影に自分の背中を向けた。

結界がどこまで役に立つのかわからない。

凛香に怪我をさせるわけにはいかない。

であるなら、とれる方法はひとつだけだ。

自分の体を盾にする。

そうすれば、少なくともサバイバルナイフのほとんどは自分の体に埋まり、凛香には刃先もかろうじて届くか届かないだろうと思った。

ほんの数秒の間に怨嗟の黒い影がナイフを持ったままの腕を高々と伸ばし、凛香に向けて振り下ろした。

怜奈も茜も身を固くして目を閉じた。

______________?

沈黙の後、何かがに当たって折れる金属音が響いた。

ガッキーーンッ!

その音で茜は目を開けた。

自分の体に痛みはなかった。

凛香は両手に力を入れたまま身動ぎする気配はなかった。

何かが回転しながらくうを舞う音がした。

トスっ_____。

サバイバルナイフの刃が彼女たちの数メートル先に落ちて突き立った。

刃先に木漏れ日の光があたって反射していた。

(何に当たった…の?私のルーンの結界はそんなに強力じゃ…ましてやほぼ物理攻撃に近いものを跳ね返すほどの…強度は……)

茜は刃先から視線を自分の体の方へ戻し、そしてギョッとした。

自分の右側、ちょうど頬の下あたりに、筋骨隆々のたくましい男性の二の腕が彼女らを守るようにあったからだ。

握られた拳の大きさからも男性の腕であることがわかった。

しかし、見えているのはこの左腕だけだ。

腕だけが宙に浮いていた。

体も顔もない。

この腕が、あの黒い影の攻撃を跳ね除けてくれたのだろうか?

茜は信じられなかったが、状況からはそう察する以外になかった。

では、誰の左腕なのか。

茜はよくよくその腕を観察し、握られた拳の薬指に指輪を見つけた。

それはよくよく見覚えのある指輪だった。

たくし上げられたシャツの袖口が太い腕の直径でいつもパンパンになっていて、今にもシャツの方が悲鳴を上げて破れそうだった。

その左薬指には奥さんからの…。

「……伊達…さん…?」

正体を見破られたからなのか、その声に反応するかのうように、血の通ったように見えた腕は霧散してあっという間に消えた。

怜奈も茜もその場にへたり込んだ。

それと入れ替わるように凛香がすくっと立ち上がった。

「!」

(しまった!)と茜は思った。

抱きしめていた腕が緩んでしまったから、彼女が自由になってしまった。

自由になれば、結界の外へ飛び出してしまうかもしれない。

そうなると怨嗟の影の思う壺だ。

「凛ちゃん!いえ、花音ちゃん!?」

そう叫ぶと、茜は彼女の体を掴もうと手を伸ばした。

だが、一瞬遅かった。

その手をすり抜けて、凛香は茜と怜奈、黒い影の間に立った。

そしてはっきりこう言った。

、守ってくれてありがとう」

「花音ちゃんじゃない?凛ちゃん、戻ったのね」

こくん…と彼女はうなづいた。

「影たちよ!聞いて!あなたたちの要求はわかったわ。でも、聞いてほしいことが2つあるの!」

『お前の話すことなどに興味はない!』

『そこにいる花音を寄越せぇぇぇ!』

「その花音ちゃんのことよ!」

二つの影の動きが止まった。

「私、花音ちゃんのお母さんとさっきまでお話ししていたの。あなたの奥さんでしょう?」

さっきまで組み敷かれていた影に向かって凛香は話しかけた。

影はようやく体を起こして話し始めた。

『あいつは俺と花音を置いて自殺した!俺は…あいつを…。全部、俺の借金のせいだ。あいつを自殺に追い込んだのは俺なんだ!』

「あなたの願いは何?」

『花音に会いに来た。花音に…』

「あなたの奥さんも同じことを言ってた…。花音ちゃんを探しているって。ね、そうでしょう?」

いつのまにか凛香の隣には白いワンピースを着た顔のない女性が立っていた。

『花音はどこ?花音?花音を抱きしめたい』

女性はない眼であたりを見回した。

『花音はここにいるんだろう?』

「ええ。いるわ」

『会わせてくれ!』

「………」

凛香は黙り込んだ。

「もう一人の影さん。鈴村大輝すずむらだいきさん、あなたの願いは何?」

『俺の願いは花音を俺のものにすることだ。俺の天使…俺の救いを寄越せ!』

「花音ちゃんは、あなただけのものじゃない。それに、もの扱いしないで!」

『花音っ』

「決めるのはあなたじゃない。花音ちゃんよ。さ、花音ちゃん」

凛香が促すと彼女の足元に身長100cmほどの光が現れた。

ショートボブのふんわりヘアに茶色いワンピースを着た女の子の姿になっていく。

『かのん!』

『花音!』

彼らは口々に彼女の名を呼んだ。

小さな彼女は一瞬びくっと体を硬らせた。

「怖がらなくて大丈夫だよ。みんな、花音ちゃんの知ってる人でしょう?」

周囲をまじまじと見つめながらそれぞれの人物の顔を確認していく。

怜奈にも茜にも黒や白い影にしか見えないが花音には違って見えるようだ。

『うん。あっちがパパで、ママで。こっちがお兄ちゃん』

小さな可愛らしい指でそれぞれを指差した。

花音の話す声を聞いて、嗚咽とも慟哭ともつかない声が森にこだました。

「花音ちゃんの願いはなに?」

『ねがい?』

「花音ちゃんはどうしたいのか、お姉ちゃんに教えてくれる?」

凛香は膝をついて、小さな花音の目線に合わせて話した。

『うん!あのね、かのんね、パパとママと一緒に川の字で寝て、それで朝になってお目めが覚めたらお兄ちゃんとあっちの駐車場で遊ぶの!プレゼントにもらった変身スティックで魔法を使ってね!楽しみだね、お兄ちゃん!』

屈託のない微笑みを大輝に向けた。

その笑顔が大輝からナイフを奪った。

あれだけ大きかったサバイバルナイフの柄が手から煙のように消えた。

『あのね、お兄ちゃん、…かのん…かのんね……』

ちょっとはにかむように花音はうつむくと体をかすかに左右に振った。

『パパとママに会えない時、ずっと一緒にいてくれた。だから、大好きだよ!』

両手を胸の前で合わせ、首を傾けながら微笑んだ。

「なにはどうあれ、願いはひとつってことなのね…」

花音の一言に茜もホッとしたように言った。

だが、凛香の緊張感はなおも消えなかった。

この行き先に迷ってしまった霊たちを最後まで導かねばならないと思っていたからだ。

「茜さん、最後の…25個目のルーンストーンを持っていますか?」

「ブランクルーン…ね。持っているわ」

「借りてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

茜は襟元の合わせから指を胸元に忍ばせた。

人差し指と中指に挟まれるように取り出された2cm四方の水晶柱だ。

何の文字も刻まれていない透明なルーンストーンだ。

それを凛香の手の平に置いた。

「凛ちゃん、あなたがしてあげたいことをこの『石』に精一杯込めなさい。ルーンは必ず答えてくれる」

凛香は静かにうなづき、それを握りしめると花音から少し離れた。

怜奈が茜に合図を送った。

円環から出るようにということだった。

二人はそっと抜け出すように円環の外側に立った。

一方、凛香は背負っていたバッグのポケットに片手を突っ込むと巾着になったペーパーナプキンを取り出した。

「花音ちゃん、はい、これあげる」

『これ、なーに?』

「あそこにいる怜奈お姉ちゃんが持たせてくれたチョコレート。たくさんあるからみんなで仲良く分けて食べてね」

『うんっ!ありがとうお姉ちゃん!』

「じゃ、パパとママとお兄ちゃんをここに呼んでくれる?もう離れたくないでしょう?」

『うん。離れたくない。パパー、ママー、お兄ちゃん!こっちに来てー!ねえ、スゴイよ、チョコレートだって。こんなにいっぱい!早く!』

花音の声を聞いて、三体の霊はそばに集まってきた。

円環の中に集まったのを見届けると凛香も外へ出た。

もう彼らの慟哭の声は聞こえなかった。

微かに花音の名を呼ぶ声だけがあたりの木々を揺らす風のように響いた。

凛香は両手で水晶柱を包み込むと目を閉じて思いを言葉にした。

「ブランクは空白。終わりであり、始まり。

未知とは死。死とは終わりでなく始まり。

全ての可能性を内包するルーンよ。ブランクルーンよ。

お願い!その未知なる力で、この人たちをあるべき場所へ導けっ!」

一際大きい声で叫ぶと凛香はブランクルーンを足元の地面に思いっきり叩きつけた。

水晶はバラバラに砕け散り、破片は雨のように円環を覆い飛散した。

時を同じくして頭上にある雨を含んだ枝から大量の滴が降り落ちてきた。

一瞬だけ、目も開けていられないほどの集中豪雨のように水滴が体を濡らした。

怜奈も茜も凛香も目を閉じた。

それが止むと頬にあたたかい陽射しが差し込んでいるのが感じられた。

おそるおそる目を開けると頭上には抜けるような青空があった。

風に枝が揺れ、五月晴れの空の向こうにはうっすらと虹が見えた。

さっきの覆い被さるような重い雲はどこかに行ってしまっていた。

凛香はその場にへたり込んだ。

目の前にいた4体の霊はいなくなっていた。

(うまくいった…の?)

彼女の目の前には花音の小さな黄色い傘があった。

それを取ろうと手を伸ばした瞬間。

「あ、」

林の間を強い風が吹き抜け、凛香の手から傘を奪いとってしまった。

くるくると回りながら、鮮やかな黄色の傘はあっという間に遠く遠く青空の向こうに消えていった。

その様子を最後まで見つめると急に凛香は声を上げて泣き始めた。

大粒の涙が次から次へと頬を伝った。

緊張の糸が切れてしまったのか、10歳の少女に戻っていた。

慌てて茜も怜奈も駆け寄ると彼女をギュッと抱きしめた。

「凛ちゃん、よくがんばったね!」

「はい、です。よくやったです!泣いちゃダメです。みんな、幸せになったんですから」

そういうと怜奈ももらい泣きを始めた。

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