第5話

白くまとわりつく霧の中に凛香はぼんやりと立っていた。

(あ…れ?わたし、どうしてたんだっけ?)

山に上がってくる小道を頂上を目指して歩いていたはずだ。

頂上について、景色を見下ろそうと思って頂上の際に立ったはず。

「ここって、そこじゃないのかな…?」

自分の足元すら見えなくなりそうなほど濃い霧だった。

方向感覚を失うほどのホワイトアウト。

「茜さんー!茜さんー!」

後ろにいたはずの茜に向かって呼ぶ。

けれど返事は返ってこなかった。

大声を発したはずなのにエコーがない。

自分の声は耳に届いたが、それ以外はまるで音の振動が感じらない。

凛香ひとりここに置き去りにされたような不安感が心を鷲掴みにしていた。

ぞくっ寒気がして、凛香は自分で自分を抱きしめた。

ここはもしかしたらあの場所じゃないのかもしれない。

空間認識が歪んでいる。

遠近感がまるでない。

上も下も右も左もわからない。

白い白い不透明な闇が全身にまとわりついていた。

…と、目の前に丸い影が見えた。

影と言っても真っ黒ではなく、周囲からすればそれほど白くないという意味で影である。

首を傾げながら凛香が少しずつ近づくと、その影はやがて人形であることがわかった。

髪が揺れているのがわかる。

白いワンピースを着た女性のようだった。

両手を地面について、俯いたまましゃくり上げていた。

横に放り出すように足を平行にしたまま泣きじゃくっていた。

怖い気持ちもしたが、凛香は勇気を出して、声をかけることにした。

「あ、あの…」

凛香の声に驚いて彼女は顔をあげた。

しかし、凛香には彼女の顔は見えなかった。

のっぺらぼうのようにしか見えなかった。

鼻はあるが目はない。

口と思しきくぼみは見えるが、それが口だとは到底思えない位置にあった。

その姿を見て、凛香はここが現実世界でないことを悟った。

光体投射をしている時の感覚とも違っていた。

別世界を渡り歩くその感覚ではなかった。

もっと寒々とした世界だ。

色もなく音もなく温度もない。

荒寥とした世界だ。

「あなたは誰ですか?どうして、ここで泣いているんですか?」

「………」

「わたし、さっきまで山登りしていたんです。でも、気付いたらここにいて…」

「………」

「あの。」

「あなたは花音?ああ、花音!どんなに探したか!」

そう言うと女性はいきなり凛香に抱きつき、ぎゅうーっときつく抱きしめた。

「いえ、わたしは…」

「あなたは、わたしの娘よね?」

「…違います…」

それを聞くと女性は凛香からスッと体を離し、また地に体を横たえて泣き始めた。

「そう。違うの…」

「あ、よければ名前を教えていただけませんか?あなたの名前を。一緒に娘さんを探しましょうか?」

「名前…?」

「はい」

「私の名前…?」

沈黙が続いた。

女性は必死に自分の名前を思い出そうとしているように見えた。

「私の…名前?思い出せない…思い出せるのは、娘の名前だけ…」

「花音ちゃんっていうんですよね?何歳なんですか?」

「あの頃、別れた頃は2歳半。今はもう4歳になっているかしら…」

「一緒に探しましょう。花音ちゃんを。きっとお母さんを待っているはずですよ」

「そう。そうよね。待っているわ。待っている。探さなきゃ」

そう言うと女性は立ち上がった。

彼女は凛香の前に立って歩き出した。

彼女の後を凛香もゆっくり追った。

その背中を不思議そうに眺めると彼女の髪の間から何かがワンピースに沿って垂れ下がっているのが見えた。

白いワンピースの色とは真逆の細く黒く長いもの。

それが電気コードだと認識するまでそれほど時間はかからなかった。

(この女性…自殺してる…?このコードで首吊りを…?)

思わず凛香は手で口を覆った。

「あっ」と声を上げそうになったからだ。

(と、すると…この空間は、この世とあの世の境目なのかな?この人、自分が死んでるって自覚がないみたいだし。____私も死んじゃったのかな?私も死んじゃった自覚ないし)

「あなた、お名前は?」

「あ、わたしは伊達凛香と言います」

「お年はいくつ?」

「10歳です。小学4年生」

「そう。しっかりしてるお嬢さんね」

「そんな…」

幽霊とのありきたりの会話で褒められてちょっと複雑な気持ちだった。

本当に私が死んでいるのなら、2度とパパには会えない。

真壁さんにもジェディさんにもアヌビスのメンバーにももう会えないのだ。

そう思うと急に寂しさがこみ上げてきた。

冷蔵庫に残してきた行きつけのケーキ屋さんのカスタードプリンも食べられない。

散歩に出る前に怜奈にもらったチョコレートも。

学校で友達に会って、遊ぶことも、男子や先生の噂話をすることも、好きなアイドルグループのPVを見ることももうできないのだ。

こんな急に自分の人生が終わってしまうとは思っていなかった。

たった10年の人生。

生まれてから10年しか生きていない自分。

この世界に何かを残せたのだろうか。

自分は何のために生まれたんだろうか。

母親 希美とも死に別れた。

その死の記憶は朧げでしかない。

(わたし…は……?わたしが死んじゃったらパパは悲しむかな?)

毎回毎回、暑苦しくなる程彼女にかまってくる父親文哉の姿が目の前に浮かんだ。

プロレスラー顔負けの肉体を持ちながら、性格はおちゃらけで明るい。

いまだにアイドルグループの追っかけをするほどのバイタリティの持ち主。

サングラスの向こうにある目には娘の姿が写っていはずだ。

目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。

「パ…パ……」

凛香の目から大粒の涙が流れ落ちた。

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