第6話 ばっちゃ
「ばっちゃとは何だ」
年寄り鬼は私の目をジッと覗き込み尋ねた。
「私の幼少期、近所に住んでいた方です。名は分からないのですが、その方に次の決め人をお願いしたい」
年寄り鬼が頷き、歯を二回カチカチ鳴ら と閻魔は紙の束をペラペラとめくり、その中から一枚を抜き取り年寄り鬼へと放り投げた。
それを拾い眉間に皺を寄せ、紙をまじまじと眺めて言う。
「ふむ、こやつだな」
僅かな不安があった。
名前が分からないと駄目だとか、関係が薄いだとか、難癖を付けられる気がしたがどうやら取り越し苦労だ。
そしてたったこれだけの説明でばっちゃが分かる、鬼のネットワークとでもいうか、情報量に驚いた。
私の人生はこいつらの前に丸裸なのだろう。
重ね重ね、気に入らないばかりだ。
年寄り鬼はまた、暗闇に向かって消えていった。西島の時と同じだ、レースが始まったように周りの鬼達がわっと歓声をあげる。
また閻魔に叱られるぞ、子供や犬でもわかることをこうして鬼達は繰り返す。
馬鹿で粗暴で、品の欠片も無い低俗な鬼達だ。案の定、私が耳を塞ぎ身構えると同時に閻魔が演台を強く叩いた。
私からすれば閻魔も馬鹿だ。同じことを何度も何度も怒るなら最初から鬼達を締め出せば良いだけなのに。
そんなことにすら頭が回らない、馬鹿のお山の大将に見えてくる。
そんなことを考えているうちに暗闇の奥から年寄り鬼に連れられ、とぼとぼと歩く老婆が現れた。
ばっちゃだ、殆ど覚えていなかったばっちゃの姿が視界と記憶で繋がった。
あの頃、あんなに温かく大きく見えていたばっちゃは何とも頼りない老婆だ。私が大きくなりその見方が変わったのだろう。
少し腰を曲げ不安そうに辺りを見渡すばっちゃに普段の私なら声なんてかけはしない。こんな老人に何を頼めると言うのか。
だがプランを忘れてはならない。
年寄り鬼があれこれと言い出す前に、私はにっこりと笑顔を作りばっちゃへ話しかけた。
「お久しぶりです」
ばっちゃはハッと私の顔を見て、訝しげに頭を下げた。
私が分からないのだろう。無理もない、ばっちゃが知るのは十に満たない幼少の私だ。
社交辞令に頭を下げた後、やはりばっちゃは何度も辺りを見渡した。状況が分かっていないのだろう。子や孫に会うべく上京した老人はこんな姿で駅前を彷徨くのだ。
そんな不安は早く消してやろう。いや、それよりも目の前の私に集中させなくてはならない。
「私が分かりますか」
そう問うとばっちゃはじっと私の顔を覗き込む。そしてしばらく眺めた後、申し訳なさそうにまた頭を下げた。
「ごめんなさい、どこでお会いしたかちょっと...」
私はわざと笑ってみせた。
「また会えて嬉しいですよ、ばっちゃ」
ばっちゃは分かりやすく目を丸くした。
何度か瞬きをして、自信なさげにぽつりと言う。
「まさか、僕ちゃんかい」
その言葉に私は勝利を確信した。
「そうです、僕ですよ」
ばっちゃはとぼとぼとこちらに歩み、ゆっくり手を伸ばすと顔中の皺をより深くし微笑んだ。
「こんなに立派に大きくなって」
私はばっちゃの手を取り、少しだけ強めに握り返した。
「お陰様です」
水気も、油気も無い枯れ木のような頼りない手だ。力一杯握り締めたら折れてしまうだろう。加減に気を遣う。
「私は、決め人なのかい」
ばっちゃは私に返事をせず、辺りを見渡して状況を察したようだ。
余計な口を開くなとついつい言いそうになった。会話の運びは私がやる。ばっちゃはただ受け答えれば良い。
「こんな世界ですが、どうしてもばっちゃに昔のお礼を言いたくてお願いしたのです」
するとばっちゃは驚く程に強い力で私の手を握り返し、深く深く頭を下げた。
「ありがとう、本当にありがとう」
何がありがとうなのか、年寄りの言うことはまったくよくわからない。決め人に選ばれたことを栄誉とでも感じたのだろうか。
そんなのは鬼の手の中だ。鬼以下に成り下がることを良しとするなんて呆れてしまいそうだ。
「ばっちゃが優しくしてくれたこと、美味しい茶菓子を食べさせてくれたこと、そのご恩を忘れた日は一日たりともありませんでしたよ」
ばっちゃはするりと私の手を解き、表情から少しだけ緊張を消した。
「そんなこと、良いんだよ。年寄りに付き合ってくれて私が感謝しているぐらいだよ」
天国への道がどんどん開けてくる。心の中、焦る歓喜がうるさいほどだ。
「私は決め人だとかどうだって良いんです。ろくにお礼も言えなかったばっちゃにもう一度、会いたかった。それをずっと思いながら生きていたんです」
どうだ、涙を流して喜ぶか。こんなにありがたい言葉を誰かにかけられたことがあったか。
「そうかい」
呆気なく、ばっちゃは返事をした。見透かされてしまったのだろうか。
「ともあれ、こんなに大きくなった僕ちゃんにまた会えるなんてね」
ばっちゃは肩らで居眠りをしようとする年寄り鬼に向かい手を合わせた。
「ありがとうございます、またこの子に会わせて頂いて、本当にありがとう」
だが年寄り鬼はそれを見てさえいない。
こいつらには感謝なんてしなくていい、無駄なだけだ。
それとも、こうして鬼に敬意を示すことで利を求めているのだろうか。
そう考えた時、また頭の中に過ってしまった。
ばっちゃはどっちに居たのだろうか。
こうしてゴマを擦り、機嫌をとるのはつまり、地獄に居たということだろうか。
今一度、思い返すと私はばっちゃを何一つ知らない。
どんな人生だったのか、どんな人と関わっていたのか、そればかりか苗字や名前さえ知りはしない。
私にとっては優しい無害なばっちゃであろうとも、過去に誰一人として傷つけたり裏切ったりしていない、そんなことはないだろう。
誰しも思わず、不意に人を傷つけ悲しませてしまうもの。
ばっちゃでさえ、地獄に行く可能性は十分に考えられてしまうのだ。
話題を変えなくてはいけない。
何か、温情や人情に響くような言葉をかけなくてはいけない。
だが天国と地獄がそれを邪魔する。
その蓋を開けるべきではない。今はばっちゃにそれを考えさせてはならない。
だが、どうしても考えがまとまらない。
考えをまとめきらないうちにばっちゃは合わせていた手を下ろし、私に向かって何とも言えない目をした。
「私が、僕ちゃんを決めるんだね」
心臓が高鳴った。
年寄りのくせに答えを急ぐんじゃない、のんびりと考えれば良いじゃないか。
「それも、そうですが、その、何かばっちゃの...」
無理やり言葉を紡ぎながら、名案が浮かんだ。やはり、私の頭は優秀だ。
「何か願いはないですか、私に聞けることならば何でも答えたいと思っています」
「願い...」
ばっちゃはポカンと口を開けたまま何かを考えているようだった。もしくは、何かを思い返しているようだった。
「例えば、ご主人に伝えたいこととかないでしょうか。私が次の決め人を選べるならばその人を選び、言伝しても構いません」
どうだ、これぞ名案だ。
こう言えばばっちゃも感謝し、すでに地獄に一票入っている私を地獄には送れないはずだ。
しかし、人とは思い通りにならないものだ。
ばっちゃは顔から笑みを薄め、少しため息をついた。
「そうだね、あの人もこうしてここに来たのだろうね」
私は何も言えず、小さく唾を飲み込んだ。
「きっとあの人も地獄に送られたのだろうね、我儘な人だったからね」
年寄りのつまらない、落ちも山もない愚痴が始まった。
だがそんな話より、ばっちゃが言った「あの人も」というフレーズだけが引っかかった。
やはり、ばっちゃは地獄にいたのだ。
若い頃の過ちか、私の知らぬ人間性を持つのか、何にせよ自業自得で地獄に送られていたのだ。
もう思い出すことも無いはずだった西島の顔がちらついた。
ばっちゃもまた、惨めに這いつくばり、鬼から逃げ惑い、その足を齧られるのだろうか。
そしてあの絶望に満ちた目で私を見るのだろうか。
天国への道が少し陰る。
笑顔を作ったまま、ばっちゃのつまらない話に頷きながら、考えを巡らせる。このまま鬱蒼とした気分で道連れにされてしまっては堪ったもんじゃない。
何とかして話題を変えて、明るい気分にさせなくてはならない。
だが、やはり人は思い通りにはならないのだ。
「おっと、つまらない話をしてしまったね。あの人に伝えてほしいことなんて何もありゃしないよ」
長々と話してそれが答えか。
だから老人は何の役にも立ちはしないんだ。むしろもっと話せ、時間を稼げ、私に考えをまとめさせろ。
しかし焦るほどに頭の中に地獄か広がって行く。
頃合いを見計らってか、年寄り鬼が目を開け腰を上げようとした。
「あの人には何も無いけど、そうだねえ...」
私も、年寄り鬼も少し驚いたようだ。
ばっちゃは思いがけず言葉を繋げた。
「栄一は、どうなっているのかね」
その名を呼びばっちゃは何かを思い出したように、悲しげな目をした。
そして年寄り鬼に向かい地に座り、手をつき頭を下げた。
「栄一は、あの子はどうしているのでしょうか」
恐らく、ばっちゃの息子だろう。
目の前で岐路に立つ私を余所目に、ばっちゃは息子への想いを馳せたのだ。
「どうか、どうか教えて頂けないでしょうか、あの子は今どうしているのでしょうか」
地に頭をつけたまま、ばっちゃは何度も懇願した。
私はまるで蚊帳の外だ。
こうして呼び寄せてやったのに、私のことなんてもう見えていないようだ。
年寄り鬼は大きく欠伸をし、口をもごもごとさせながら言った。
「貴様らの話など聞かぬと言っておるだろう」
ばっちゃは顔中に悲しみを滲ませ、何度も何度も地に頭を叩きつけた。
「どうか、どうか後生の慰みに、この老いぼれに教えてくださいまし」
ばっちゃを見下ろしながら年寄り鬼は卑しく口を緩ませる。
「わしは忘れておらぬぞ。貴様、わしらに散々な言葉を吐き捨てて行っただろう」
その言葉にばっちゃは全身を震わせた。
そして更に強く、地に頭を押し付けながら鬼への懺悔を繰り返す。
「私が愚かでございました。私が間違っておりました。どんな罰も覚悟しております、どうか、どうか一つだけご慈悲を頂けませんか」
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