第4話 下へ
聞き逃してしまいそうな程、小さく霞んだ声で西島は言った。
「な、何だって」
西島はゆっくり顔を上げ、悪意に満ちた笑顔を私に向けた。
「地獄、と言いましたよ」
満面の笑みを浮かべる西島につい飛びかかった。肩を掴み、何度も揺すりながら強く問いただした。
「ど、どうしてだ、道連れのつもりなのか。私がどれだけお前を目に掛けてやったか、半人前以下のお前に仕事を教えてやったのも私だ。それなのに、それなのに、恩を仇で返すのか」
西島はすっと笑みを消し乱暴に私の手を払いのけた。そして私の顔に唾を吐きかけた。
「調子に乗るな、いつまでも上司面しやがって」
これは誰だ。
西島なのか。鬼に憑依でもされたのか、操られているのか。悪い夢なら覚めてほしい。
「その偉そうな態度が気に入らねえんだよ、時代遅れの考えばっか押し付けて、自分自慢ばかり。死んでまでてめえのツラ見るとはな、つくづく反吐がでる」
「き、貴様、何だその物言いは」
「課長、良いんですかそんな態度をして。てめえの行き先は俺が握っているんだぞ」
鬼達が更に声を大きくした。目をやると腹を抱えて笑う鬼が何匹も目立つ。
そして私の目の前に立つ、もう一匹の鬼。私の命運を握るこの邪鬼の如き鬼。
私は何を間違えたのだろうか。
視界が、音が、頭の中が真っ白に染まっていく。
「では、下で決まりじゃな」
ざわざわ、がやがや、鬼達の声が遠く煩い。
気を抜いたら意識を失いそうだった。
「永遠に下で過ごすのだ」
年寄り鬼の言葉が何度も何度も木霊する。
私が何をしたと言うのだ、何故地獄に送られなくてはならないのだ。
虚ろな表情のまま、影もなく立つ西島に怒りがこみ上げる。せめて一度、殴りつけてやりたい。
鬼に噛まれようともこの怒りをぶつけなくては気が済まない。だが足が動かない。呼吸さえままならない。
西島への怒りよりも、地獄への恐怖が私の自由を縛り付けていた。
年寄り鬼は重そうに腰をあげると暗闇に向かって杖を振った。
すると力士よりも屈強な鬼が現れ、のしのしと西島の方へ歩み寄る。
「こやつを戻せ」
「ま、待ってくれ」
西島は分かりやすく腰を抜かすと全身を震わせた。
「考え直す、やはり天国に変えるかもしれない、だから待ってください」
なんとも薄っぺらな見え透いた言葉だった。
年寄り鬼はふんと鼻を鳴らすと屈強鬼へ杖を振った。屈強鬼は二度、歯をカチカチと鳴らすと更に西島へ詰め寄った。
西島は腰を抜かしたまま、芋虫のように地面を這いながら逃げ出そうとする。
それを見て鬼達がまた笑う。滑稽な人間の滑稽な姿に、腹を抱えて鬼達が笑う。
私も笑ってやりたかった。私を道連れにするこの外道を笑い飛ばし、愚かだと見下してやりたかった。
だがやはり、恐怖で体が動かない。西島がこんな情けない姿になってまで逃げ回るほどの世界だ。永遠の苦痛の世界が待っているのだ。
西島は私の周りを回るように、屈強鬼から逃げ続けた。
どうやらこの鬼は頭が悪いのだろう、動きも鈍い。さっさと先回りをして捕まえれば良いのに、律儀に西島が這った跡をのしのしとついていくばかり。
そんな二匹の鬼ごっこを見ながら年寄り鬼もけらけらと笑う。
「やはり、人間は惨めじゃな」
呼応し、鬼達が汚い言葉を乱暴に飛ばしてくる。だがいい加減その鬼ごっこを眺めるのも飽きたのだろう、年寄り鬼は舌打ちをするとまた暗闇へ向けて杖を振る。
するともう一匹、背が高い痩せ身の鬼がすたすたと現れた。
ノッポ鬼は年寄り鬼に二回、歯をカチカチと鳴らすとまるで鳥や獣のように素早く西島に飛びかかり彼の足に噛り付いた。
「いたっ、や、やめて、やめてくれ」
西島は悶絶しながら悲鳴をあげた。
ノッポ鬼の牙が食い込むその足からは生々しく、どこか美しくさえ見える真っ赤な血がダラダラと溢れ出した。
鬼は人間を捕食するのだろうか。ノッポ鬼は西島に殴りつけられてもまったく気にせず幸せそうな表情で西島の足を嚙み切らんばかりにかじり続けている。
「おい、もう連れていけ」
年寄り鬼がそう言うも、ノッポ鬼はその血を啜ることに夢中だ。
足を噛みながら、時折べろりと舐めながら、西島の生き血を美味しそうに堪能している。
年寄り鬼はまた舌打ちをし、ノッポ鬼に歩み寄ると杖でその目を突き刺した。なんとも形容しがたい低く唸る声で一瞬、悲鳴をあげた。
それで我に返ったのか、目からどす黒い血を流しながら立ち上がると年寄り鬼に二回、歯をカチカチと鳴らした。
そして屈強鬼が乱雑に西島の首を掴み猫や犬のように軽々と彼を持ち上げた。
「ぐ、うぐ、ぐぐ、うぐ」
強く首が絞まっているのだ、もはや西島は悲鳴をあげることさえできない。
年寄り鬼がうんと頷くと屈強鬼とノッポ鬼はやはり二回、歯をカチカチとならし演台の奥、闇の中へとずしずしと歩いていく。
西島はずっと私を見ていた。涙と鼻を垂らし、涎もあふれ、足からは未だ血が吹き出ている。
その目で私に何を伝えたいのだろうか。
助けてくれとでも言いたいのか、それとも先に待っているぞとでも言いたいのか。
その見苦しい、汚らしい西島の姿を目で追いながら私は心の中で呟いた。
とっととくたばれ糞野郎。いや、私も奴ももうくたばった身か。
心の中で言葉を訂正する。こんな時に言うべき最も相応しい捨て台詞があるではないか。
地獄に落ちろ、糞野郎。これだ。
西島の最期の姿も声なき声も、何かを訴える目もどうだって良い。
次は、私の番なのだから。
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