冴ゆる星に祈歌を Ⅱ

 雪明ゆきあかりの月十五日、街中のケット・シーたちは街の中心部、広場にある巨大な氷水晶・ミッドナイトの元へ集まる。そのころにはもう空は晴れ始めているのだ。滅多に見ることのできない、雲に遮られない漆黒が見え隠れする。


 祭典は、氷水晶に十一人の司教が氷力マナを注ぐところから始まる。その間にも空は晴れてゆき、そして氷力マナが最大限に高まったところで水晶から十一羽の白鴉が飛び立ち、空に星を映すのだ。それから、青いフィレルの実と水晶を身につけ、聖木とされるリズリムの木の下で円舞曲ワルツを踊る。ミッドナイトに灯る明かりが消えるまで、星鴉祭は終わらない。


 アルフェと一緒に広場にたどり着いた時には、既にケット・シーが大勢集まっていた。どうやら、もう間もなく始まるようだ。十一人の司教たちが祈りの言葉を唱えている。


 集まったケット・シーたちは、年齢も性別もバラバラなのに、みな黙って一心に祈りを捧げている。その光景は信仰心が薄い俺から見ても、酷く美しいものだった。


 隣のアルフェも瞳を閉じ、その艶やかな声で囁くように祈る。


氷神トワイライトファーレンに全ての祈りを。その十一の鴉に空の加護あれ」


 それは一枚の絵画のように俺の瞳に焼き付いた。蒼い瞳を閉じた、彼女の長い睫毛に微かに積もった雪が陰影をより濃くしている。流れるような銀の髪は、まだ現れない星の煌めきを吸い込んだのかのように静かに輝いている。俺はそっと息を呑んで、アルフェに見とれた。


 そのまま長い時間が過ぎた。長い祈りを終えた司教たちが、完璧に揃った動きでミッドナイトの上に手のひらを翳す​。充填された氷力マナが高まりを迎え────


 その寸前、俺の耳は、神聖なまでの静けさの中に入り混じる微かな不協和音を捉えた。


「おい!それ以上は立ち入り禁止だぞ!」


 焦ったような誰かの叫びが響いた次の瞬間、ぱ、と白い光が弾け、一人の司教の身体が揺らいで​─────その場に倒れ伏した。


 誰もが一瞬、それを呆然と見つめることしかできなかった。しかし、あまりにも異様な光景であるが故に立ち尽くすケット・シーたちを、夢から叩き起すかのごとく第二射が司教たちを襲った。もう一人が為す術なく地面に崩れ落ちた瞬間、


 悲鳴が爆発した。


 膨れ上がった民衆の恐怖の声は鉄砲水のように辺りを満たし、ケット・シーたちは我先に広場から離れようと走り出す。俺はアルフェの手を掴み、怒涛の流れに逆らおうとする。


「早く助けないと……!」


「ああ!しかし聖氷教の司教に攻撃するなんて……一体誰が?」


「分からない。でも​────」


 渦巻く喚き声に負けじと声を張り上げた彼女は、そこで急に言葉を切って瞳を見開いた。


「エルー、あれ!」


 アルフェの視線の先は広場の奥に向いていて、俺も自然とそこに目をやる。狂乱の民衆たちの隙間から、倒れた仲間に駆け寄る司教と、家屋の隙間から溢れ出てくる黒髪黒目のケット・シーたちが見えた。


 俺は逃げる民衆を掻き分けて走り出す。金の縁どりのされた外套に骸骨の竜と吹雪の紋様。氷水晶の光を反射してぎらぎらと輝く、瑠璃鋼フィアラルの長剣。


 圧倒的多数派のヘイル派、異教徒との融和を説くリウム派に続く少数派、トワイライトファーレンに従わないものを全て破壊すべきと謳うフィンブル派の象徴である。


 一応腰に差していた短剣を抜いて、俺は今にも司教に凶刃を振り下ろさんとした男に躍りかかった。しかしケット・シーは寸前で俺に気づき、すばやく剣を引いて飛び下がる。なかなかの手練だ。


「みなさん!私たちは軍に所属する者です!ここから速やかに避難してください!」


 背後でアルフェが叫ぶのが聞こえた。途端に目の前の男が舌打ちする。


「軍の傀儡共がッ……!邪魔をするな!」


 鋭い叫びと一緒に蛇のような斬撃が襲ってきて、俺は慣れない短剣の扱いに苦心しながらもそれを受け止める。やはりこのケット・シーは強いが……周りの奴らは違うらしい。軍のケット・シーだと名乗りを上げたアルフェに動揺し、どうすればいいのかまごついているようだ。その間に体勢を立て直した司教たちも反撃を始める。彼らも彼らで独自の護身術を身につけているのだ。


『羽を休めよ白鴉の子らよ、安息の地は未だ遠く、氷の楔は未だ重い……』


 静謐な歌声が降り注いだ。司教たちに襲いかかっていたフィンブル派のケット・シーたちは次々とふらつき始め、中には地面に倒れ伏して動かなくなるものもいる。敵に眠りをもたらすアルフェの魔法テイルリングだ。


「……お前たちに勝ち目はない。大人しく投降してくれないか」


「ふざけるな……偽りの教えに従う愚か者が!氷神トワイライトファーレンの名にかけて、我々に降伏などない!」


 敵意も顕に俺の提案を跳ね除けた男は、ひとりの司教が放った魔法を軽々と跳躍して躱すと同時に瑠璃鋼フィアラルの剣をそちらに向けて、お返しとばかりに魔法を唱えた。ケット・シーの足元に亀裂が走るのを見た瞬間、俺は全力で司教を突き飛ばした。


 間一髪、俺のすぐ側に何かが突き出るような気配を感じる。ゾッとして振り向くと、先程まで司教がいた場所に鋭い氷柱が突き出している。


 獣のように身体を捻って着地した男を油断なく見据えながら、俺は司教に声をかけた。


「大丈夫ですか」


「え、ええ……ありがとうございます​────勇敢なあなたに氷神トワイライトファーレンの加護を」


 それを聞いた俺は苦々しい思いになった。軍に所属するケット・シーは、氷神のために命を賭して戦う戦士として尊敬されることが多いが、俺は​。


 思考を途中で打ち切って状況を確認する。アルフェの歌で大分人数が減って楽になった。新たに何人かが負傷して蹲っているが、そちらは司教たちに任せても問題ないだろう。反対に一般ケット・シーの避難はあまり進んでいないが​────瞬間。


 同じように状況を把握したであろう男の瞳に危険な光が閃くのを見た。


「…………ッ!」


 反射的に飛び出そうとした俺よりも、相手の方が一歩早い。男は近くで腰を抜かしていた子供に手を伸ばした。盾にする気か。俺は岐路に立たされていることを悟った。このままでは間に合わない……普通の手段では。


 ​────アルフェ、ごめん。


 心の中で彼女に謝罪しつつ、俺は無詠唱で「蒼き流星ファイヤボルト」を喚んだ。無茶の代償か、槍で突かれるような痛みが頭に走るが、宙を駆けた流星は男の手に突き刺さった。


「ああああぁぁぁあ!?」


 男は衝撃と痛みに叫び声を上げる。その手からは血がだらだらと垂れていた。手を貫通した炎の矢は直進力を失い、少し行ったところの地面に突き刺さってわずかに炎をあげた。一方、子供には怪我はないようだが、男を呆然と見上げている。子供だけではない。司教たちも、フィンブル派のケット・シーも、民衆も。皆俺を見ている。


「なんだ……今の……」


「雪を溶かしてるぞ……」


「忌まわしい……」


 ざわめくケット・シーたちの波を切り裂くように、外套を深く被った男が叫んだ。


「火だ!なんと罰当たりな!炎は氷を殺すぞ!氷神トワイライトファーレンもお怒りになられるだろう!」


「ちょっと……!」


 俺はの目を伏せた。アルフェが何か言いかけたが、それを遮ってフィンブル派の統率者が手を庇いながら怒鳴った。


「気は逸した。撤退だ!」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の炎に怯えるように立ち尽くしていたフィンブル派のケット・シーたちが一斉に外套を翻した。彼らは統率された動きで家屋の隙間を縫い、走り去っていく。俺は思わず追いかけようとしたが、司教たちの疑念の目に足を止めた。


 それは自分たちを助けてくれた者に対する目ではなく、磔になったサラマンダーを見るような​────穢らわしいモノを見る目だった。


「君は…………」


 俺は走り出した。フィンブル派とは反対の方向に。アルフェが呼び止めたような気もしたが、そんな事に気を使ってはいられなかった。ただこの空間から消えてなくなりたかった。



 ◇◇◇


 走って、走って、走って​────気づけば俺は、無意識にケット・シーの居ない方に吸い寄せられたのか、街のはずれにぽつんと立っていた。それも、雪原の側の。少し遠くを見やれば、雪原の傍にだけ建てられているちょっとした壁が見える。


 誰もいない空っぽの街。煤けた高い壁。遠い祭りの喧騒。急に何かが込み上げてきて、俺は地面にうずくまって目を瞑った。


 ​別に対価を求めてケット・シーを助けた訳ではない。でも。それでも。​────やはり駄目だったのだ。幻に縋って誤魔化したとしても、俺は穢らわしいケット・シーもどき。その事実は変わらない。変わらないのだ。幻想だった。一瞬でも、受け入れられたと錯覚した俺が馬鹿だった。それだけだ。


「エルー」


 急に名前を呼ばれて、俺は咄嗟に短剣の柄に手をかけながら振り返った。この距離まで近づかれても気づけなかったのは油断しすぎだが、俺は振り返ってから後悔した。今更アルフェとどう顔を合わせればいいというのか。


「………その……ごめん……」


「……どうしてあなたが謝るの」


「せっかく上手くやってくれたのに……こんな事になって……もうアルフェも雪鴉祭には戻れないだろう?」


「私が気にしてるのはそんな事じゃない!」


 彼女は空気を震わせるような声で叫んだ。俺は殴られたかのような衝撃を受けて息を詰める。


「そんな事じゃ、ないよ……」


 次の瞬間、アルフェは聖女のように両腕をゆっくり伸ばして​────俺をしっかりと抱き締めた。


「アルフェ……!?」


「ごめん、ごめんね……私があの時何か言えてたら……エルーは何も悪くないのに……」


「……っ……そんな……アルフェこそ何も……!」


 そこでまた何かが込み上げてきて、俺は二の句を継げなくなった。いつの間にかひどく冷たくなっていた身体に与えられる温かさは、拙い言葉など容易に攫っていく。


 ​────不意に優しい音楽が聞こえて、俺は硬直状態から抜け出した。雪鴉祭の最後、戦いの神でもあり、豊穣の神でもあり、舞踊の神でもある氷神と雪の休息日を讃えて、ケット・シーたちは円舞曲ワルツを踊る。


 アルフェはこんな所にいてはいけないのではないか。しかし俺が何かを言う前に、彼女は勢いよく顔を上げた。一瞬泣く寸前かのように瞳が揺れたが、彼女はいつもの人懐こい笑みを浮かべ、そのまま俺を腕から解放する。


「……ねえ。もしもエルーがよかったら……私と、踊ってくれませんか」


「……え」


「私の事なんか気にしないでよ。二人きりの雪鴉祭も、悪くはないんじゃないかな?」


 いたずらっ子のように瞳を瞬かせ、アルフェは俺に手を差し出した。


「いやでも……俺、円舞曲ワルツなんて踊ったことないし……」


「私がリードしてあげるからさ!」


「普通逆じゃないか……?」


 ぼやきながらも、俺は覚悟を決めてアルフェの手を取った。彼女は嬉しそうに耳をはためかせ、ゆっくりとステップを踏み始める。誘導されるままに俺も合わせようとするが、よろけそうになった。目を合わせた彼女が可笑しそうに笑う、そうして二人だけの円舞曲ワルツが始まる。


 雪はいつの間にか止んでいた。分厚い雲は去り、一年越しの夜空が大翼を広げている。星々だけが俺たちを静かに見ていた。






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