ハイドレンジアの曇天を喰う Ⅱ
「ラウラ、居るか?」
僕と同じように裏口を開けて顔を覗かせたのは、本日の被害者一号、フェンだ。彼はラウラと僕の姿を認めると、音も立てずにこちらにやってくる。彼女も客人を出迎えにすたすたと歩いていく……扱いの差を感じる。だが彼女は、フェンの足元を見て唐突に顔を顰めた。
「……フェン、それは何?」
僕は湧き出そうになった笑いを堪えるのに苦労した。今笑えば土下座どころでは済まないのは流石に把握している。珍しいことに、フェンは酷く憮然とした表情を浮かべていた。思えば、フェンからこんなに感情を感じるのも初めてかもしれない。
彼の不機嫌の理由は一目瞭然だった。彼の足元に、一匹の小さな白狼がじゃれついているのだ。不思議なことに、その白狼は尾が二又に別れており、尾の先だけが夜のように暗かった。
「勝手についてくるんだ……」
フェンはうんざりしたように肩を竦める。狼が応えるようにぐるる、と鳴いた。
「図書館はフューリー禁止なのだけど」
ラウラが嫌そうに狼を一瞥する。狼は自分が邪険にされていることを鋭敏に察したのか、フェンの後ろに隠れた。大分はみ出ているが。
「まあ、いいんじゃない? 白い狼を連れてればほら、教会に喜ばれそうじゃん。人を襲う様子もないしさ」
「確かにそうだが……」
フェンは釈然としないようだったが、追い払うのを諦めたらしいラウラは狼に興味を持ったらしい。
「尾の先が二又……こんな狼見たことがない。新種の生物……? それとも突然変異……いや……どこかで見たような……」
「ラウラ、お前でもこの狼がなんなのか分からないのか?」
「どこかで見たような気がするけど、思い出せない……ちょっと調べてくる」
知的好奇心が刺激されたのか、ラウラは止める間もなく本棚の間に消えた。まるで迷宮のようだ。僕たちも彼女を追いかけて本の海に迷い込んでいく。
そして沈黙が訪れた。狼がちょろちょろとフェンの足元で走り回っているだけである。彼は基本的に無口だが、僕のようなケット・シーは無言の空間には耐えられないものだ。いや、彼の威圧感のせいかもしれない。とにかく気まずい。
「……最近どう?」
ひねり出した言葉は自分でも笑いたくなるようなものだった。もっと何かなかったのか。しかしフェンはそんなことは気にせずに首を傾げた。妙に様になっていてムカつく。
「どう、とは」
「……無茶してるらしいじゃん。今日も休息日なのに仕事してたんでしょ?」
「……別に。無茶などしていない」
彼にしては珍しく、言葉に突き放すような響きが混ざった。どうせ誤魔化しているのだろう。諜報員の名は伊達じゃないのだ。まあ、ラウラが心配するのも分からなくはない。
「本当?」
「本当だ。俺は大丈夫だから」
今度は完全に無感情に言い放たれる。フェンは時たまこういう風な物言いをする時があって、感情が感じ取れなくて少し不気味に思う。完全に感情を殺せるケット・シーなどいない。おそらくは、それが彼の代償なのだろう、と僕はこっそり思っている。
「ところでフェン、ここに何しに来たの?」
空気を変えるためでもあるが、僕は純粋な疑問からそう尋ねた。
「ああ……ラウラに呼ばれていたんだ」
彼が思い出したかのようにぱたりと尾を振った。それに答えるかのごとく、ラウラが別の本棚の後ろからひょっこりと現れる。
「うわびっくりした!」
「そう。この後は休息日のはず。久しぶりにお酒でも飲みに行かないかと思って」
さりげなくラウラがフェンを誘うが、僕は不幸なことに知っている、この空間に恐ろしいものが散布されていることを。今の今まで忘れていたが、そういえばラウラの目的は彼に睡眠を取らせることだった。中々に自然な導入だったと思うのだが、フェンは首を傾げる。
「珍しいな。どういう風の吹き回しだ?」
「……カトラスが飲みに行きたいって」
「!?」
思わずえ?僕!?と叫びそうになったが、ラウラ様の絶対零度の視線がこちらを刺したのですんでのところで飲み込んだ。その眼差しは全力で「黙ってろ」と訴えている。なんとも酷い扱いである。
「カトラスが? ……まあ別に俺は構わないが……」
少し怪訝そうな顔はしているものの、フェンは疑問を引っ込めたようだった。……というかこの流れ、もしかしなくても僕も一緒に飲みに行く感じですよね?想像するだけで気が進まないが、ラウラが嘘をついてくれたせいでどうにもならなくなった。あとで酒のひとつでも奢ってもらわねばなるまい。ああ、今は飲めないんだったか。
「じゃあ行こう。安心して、個室もある所だから」
「待て。この狼をどうすればいい?」
「連れてけば?」
「邪魔なんだが……」
「そろそろどっか行くんじゃない?」
フェンが足元を見る。白狼は目を輝かせ、そこにきちんと足を揃えて座っていた。十年来の飼い主に向けるような忠誠っぷりである。
「ダメそう」
「ダメそうだね」
「ダメそうだな」
「ぐるるぅ!」
見事に三人と一匹の心情が一致した。協調性誕生の瞬間である。どうしてこんなにフェンに懐いているのかは謎だ。どちらかといえば、動物が避けていきそうなものだが……
「はぁ……仕方ない、そのまま行くか……」
フェンが諦めたように言って歩き出した────図書館の奥に。
「フェン、そっちは……」
「ん?どうした?」
彼は心底不思議そうな顔をした。一体、なんの懸念事項があるのかとでも言いたげだ。しかし残念ながら、ある。大いにある。
「そっちじゃない。こっち」
ラウラが真反対の方向に彼の服の裾を引っ張った。自分がどちらから入ってきたのか覚えていないのだろうか────いや、悲しいことに、方向音痴とはそういうものなのかもしれない。
「え? ……ああ、そうか、そっちか」
彼はまるで初めてきた場所で道を間違えたかのように、落ち着き払って方向を変更した。片手の指で数える程しか来ていない自分でさえ、帰り道くらいは覚えているのに……まあ、ここは迷宮とも称されるような入り組み具合なので、初めてきたケット・シーは迷うかもしれない。ただ、フェンは下手すれば何十回もこの場所に来ているはずであり────
「じゃあ、行こう」
「だからそっちでもない」
……僕は考えることを放棄した。
二人の後に続きながらふと狼を見やると、先程よりも黒い部分が増えていたような、気がした。
◇◇◇
フェンが美しい青と銀の入り交じった杯を傾けるのを横目に、僕はかなり度が低い酒をちびちびと飲んでいた。
ラウラは飲みやすい果実の酒────ちなみに度は無に等しい────を飲んでいるようだが、僕はがつんと来る酒を飲みたい派なので非常に焦れったい。が、仕方がない。酒に酔って醜聞を晒すのはごめんだ。
恨みまがしくラウラを見つめると、そっぽを向かれた。ため息をついて、僕はもう一度酒を呷った。
「というか、結局その狼はなんなの?フェン、動物に好かれる方?」
「いや、大体逃げられる」
フェンを目にしていそいそと逃げていく動物たちを想像すると、かなり面白かったが死にたくないので笑いは心の中に収めた。
「そんな気がしてた」
「失礼だな……」
「じゃ、どうしてそいつはフェンに懐いてるんだろうね」
白狼は、相変わらずフェンの隣で気持ちよさそうにしている。彼はカクテルを半分くらいに減らしてから肩を竦めた。
「知らん」
「まあ、確かにね……ラウラが見覚えあるって言ってたから新種ではなさそうだけどね」
「ああ……そう……だな……」
答えた彼は目をぱちぱちと瞬かせた。言葉にも常の硬さがない。なんだか────眠そうだ。どうやらラウラの調合は成功したらしい。
「……? 変な感じが……」
「疲れてるんじゃない?」
流石に何かおかしいと思ったのか、フェンが呟く。そこにすかさず、かつさり気なく彼に疲れを自覚させようと試みるラウラ。意外に演技派だ。僕は彼女には逆らわないようにしようと心に決めた。
「いや……そんなことは……」
「別にここなら寝てもいい。きちんと起こす」
「さすがにそれは……」
「明日倒れたくないならさっさと寝た方が身のため」
しばらく攻防が続いたあと、ラウラが痺れを切らして語気を強める。本当に眠気が限界だったのか、フェンが先に折れた。
「……わかったよ……」
大人しく瞳を閉じて壁に寄りかかったフェンを横目に、僕は安堵のため息を吐いた。
「はー、よかった、誤魔化せた……」
「……巻き込んで悪かった。今日は奢る……お酒は飲めないけど」
「え、ほんと!? さっすがラウラ先生!」
「静かにして。フェンが起きる」
「はーい……」
ラウラの素っ気なさは相変わらずだが、貰えるものは貰っておくことにして、早速追加注文をする。個室を完備しているこの店での飲食は当然なかなかの出費なはずだが、僕は他人に遠慮しないことにしている。まあ、薬のおかげで肝心の酒は飲めないのだが、高級な嗜好飲料などいくらでもある。
彼女は無口だが、会話のないこの空間の雰囲気は悪くなかった。僕も静かに飲む気分になって、暫し口を閉じる。
隣ですやすやと眠っているフェンを見て、ふと思いついた。
「ねえ、ラウラはさ、フェンのことどう思ってるの?」
「……どういう意味?」
「いや、変な意味じゃないよ。君がここまでする相手っていないじゃん。だからちょっと聞いてみたくなっただけ」
また怒られるかと思ったが、意外にもラウラは穏やかな瞳をしていた。雰囲気の力かもしれない。
「……フェンのことは嫌いじゃない。小さい頃からの付き合いだし」
「……幼なじみだっけ、そういえば」
「そう。向こうのクソ……クォーウルも次代の『賢者』である私と面識を作っておくのは利があると思ったのか、小さい頃からよく一緒に私の家の図書館にぶち込まれた」
……なんだかラウラの言葉遣いがよろしくなくなっている気がする。これも雰囲気の力か。
「へえ。じゃあさ、フェンとどうにかなったりしないの?」
「……どうしてそっちに持っていこうとするの」
「いやさ、来てるんでしょ? ……婚約の話とかさ」
僕が言った途端、ラウラは露骨に嫌そうな顔をした。
「どうしてこんな所でその話をしないといけないの……」
「こういう席だからこそ、じゃない?」
「……一理あると思った自分が嫌になる」
「そんなに!?」
「…………婚約でしょ? 来てるに決まってる。全部蹴ってるけど。面倒」
リスティンキーラの頭脳と称されるヴァイスハイト家。四家にこそ数えられないものの、一流の知識人が揃うその勢力は強力だ。縁談の話は後を絶たないだろう。
「……実際蹴れるもんなの?」
「できなくはない……ただ最近うるさい」
「ほら、じゃあそこの方向音痴とくっつけばいいじゃん。見かけによらず抜けてるけど。ほっとくと真顔で過労死しそうだけど。権力はあるし顔もいいしめっちゃ強いじゃん」
「褒めてるのか貶してるのか……」
ラウラはため息を吐いたが、すぐに慈しみのような表情を浮かべ、眠るフェンを横目で見た。
「……わたしはやめとく。彼、手がかかりそうだから」
彼女は妙に静かにそう言うと、もう一度杯を傾ける。僕は常ならば、その言い草に気の利いた冗談か何かを返せたはずなのだが、ラウラの言葉に言い知れようのないものを感じて黙ることにした。
あれは諦めた者の目だ。
僕はそのまま、引き寄せられるようにフェンの足元で丸まる狼に目をやった。一回り大きくなった
尾が二又に分かれた白い狼の姿をしたフューリーの一種。人に攻撃はしないが、代わりに人の悪夢を食らう。悪夢を食べるほど体毛が黒く変色する。
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