薄氷の上で踊る Ⅴ

 思えば散々な目にあった。もちろん、フューリーと戦うことは予測していたし、準備もしてきてはいたが、こんなに激しい戦いを誰が予想出来ただろうか?クォーウルの顔面を五回くらいは殴りたい。実際に殴ったらとんでもない事になるだろうからやらないが。しかし、収穫がないわけではなかった。強敵との戦いは成長に繋がる。易々と死ぬ訳にもいかないのだから、実戦経験を積むことは悪くない。


 それにしても、この上にフェンリルの言う「我が王」とやらがいるのだろうか。どうにもそれらしい気配を感じない。とはいえ彼が嘘をつく理由など皆無だ。ますます怪しい。そもそも、フェンリルがこんな所にいる時点でおかしいのだ。さらに高位のフューリー?なんの冗談だろう。


 視界が開けた。等の最上階は風が強く、常に足を踏ん張っていないと吹き飛ばされそうだ。無駄に大きいだけあって、広さだけはあるものの、塔の縁を囲う壁はなんとも頼りない。さっさと儀式を終わらせて帰ろう────瞬間、俺はあまりに遅いながらも認識した。中央に鎮座する巨大な氷水晶を掴む、鈍く光る鉤爪に。咄嗟に後ずさるものの、その焃い瞳が俺を射抜く。


 身体を怖気が貫いた。


「…………ッ!」


 あのフェンリルが子供のように見えるこの威圧感。気づけば勝手に震えが止まらなくなっていた。脳がアレに近づくことを全力で拒否している。いや、それどころか今にも踵を返して逃げ出したいとすら思う。怯えている……?「怯え」をほぼ感じられないはずの俺が?


 明らかに生物としての格が違う。ただでさえこちらは手負い。どんな奇跡が起こったとしても勝つ想像ができない。


 刹那。風の音にも似た、優美な声が響いた。


『フェンリルを倒したんだ。やるね』


 目の前のフューリーと思わしきモノが、ばさり、と翼を広げて水晶から飛び降りた。大きさにしては軽い衝撃が塔を揺らす。白鷹のような、透き通った氷の羽毛に鉤爪。金属のような嘴。しかし、下半身は明らかに何かの獣だ。鉤爪と二本の足が床を踏みしめる。何かを強引に融合させたような不可思議な見た目でありながら、それには奇妙な美しさがあった。


『そんなに怯えないでくれないかな? 僕は強い奴は好きだよ……種族問わず、ね。キミを殺す意味もないしね』


 俺はせめて震えを止めようと歯を噛み締めた。今のところ、フューリーに攻撃の意思は見られない。対話をする気があるのなら、そうすべきだ。ここに自殺をしに来た訳では無いのだから。


『ケット・シーの領域にこんなに近づいたのは久しぶりだし、特別に名乗ろうかな。僕はグリフォンのストームスィア。君と再び会うことはないだろうけど、よろしくね?』


 こいつは本当にフューリーなのか。ケット・シー相手によろしく、なんて言うフューリーは見たことがない。大体は問答無用で襲いかかってくるか、よしんば言葉が通じたとしても好意的な反応を見せることなど皆無だ。それに、グリフォンという種類も初めて聞いた……これほどの力を持つならば固有種だろうか。一切気配を感じ取れなかったのも気になる。


『いつまでも黙ってないでさ、キミもなんとか言いなよ。珍しく僕が喋る気になってるんだからさぁ……』


「……お前と話す事など何も無い」


『確かにそうかもね。でもただの余興なんだからいいでしょ? 付き合ってよ。キミ、なんでこんな所にきたのさ?』


 俺の困惑は深くなるばかりだったが、変に機嫌を損ねてもまずい。もしストームスィアが俺を殺す気になればお終いだ。今の俺では、百人束になったとしても適わないだろう。


「儀式のためだ」


『儀式だって?』


 ストームスィアは驚いたように俺の言葉を繰り返してみせた。


『書物には残ってないかもしれないけどね、僕がこの塔を宿り木にしていることを知ってるケット・シーって結構いるんだよ。自分で言うのもなんだけどさ、そんなところで儀式だなんて正気の沙汰じゃないね』


 どうやら五回と言わず、十回くらいはクォーウルを殴る必要があるようだ。奴がこのことを知らないとは到底思えない。知った上で俺を遣わしたとすれば─────


 そこで俺は、ストームスィアの言葉に違和感を覚えた。


「ケット・シーの書物を読んだ事があるような言い草じゃないか、ストームスィア」


『結構鋭いね。まあ僕に答える義務はないんだけどね? でもそれもなんだか寂しいから、代わりにいいことを教えてあげよう。キミは考えたことがあるかい? 僕らとそれ以外の違いについて』


「……何を」


『その辺にいるフューリーはただの獣だよね。生き物を見つけたら見境なく襲いかかり、言語も持っていやしない。でもそれが普通なのさ、知能がないのが「獣」なんだから。じゃあ僕らはなんだと思う?ケット・シーは上位種ハイファーなんて呼んじゃってるみたいだけどさ』


「…………」


 ストームスィアの意図が掴めないが、この問いは重要なものだと直感が告げている。普通のフューリーと違い、何故上位種ハイファーたちは知能を持ち、意思疎通が出来るのか?


 黙り込んだ俺を見て、グリフォンはいかにも愉しそうに嘴をカチカチと鳴らした。


『そうそう。考えて惑って苦しみなよケット・シー。僕らと踊ろうよ​─────なにもない世界は退屈なんだよ』


 実に一方的に告げると、ストームスィアは翼を軽く羽ばたかせた。それだけで巨体が宙に易々と浮かび、吹雪が奴の周りに集っていく。


『じゃあね。思ったよりいい暇つぶしになったよ』


 ごうっ!と一際強く風が渦巻いた途端、俺の前からストームスィアは消えていた。同時にあの威圧感も消え失せ、思わず深く安堵してしまう。何はともあれ、運良く俺は生きているのだ。さっさと儀式を済ませてここから去りたい。


 中央の水晶に歩み寄りながら、ふと思いつく。


「キトゥリノ」


『一日に二回も呼ばれるなんて吉日ですねマスター! 殺されずに済みましたしね!』


「お前にとっての吉日など、俺にとっては厄日に他ならない」


『そう言うと思ってましたよ。それで、あのグリフォンが言ったことに関してですよね? 私は何も知りませんよ』


「……本当か?」


『当たり前じゃないですか。私がマスターに嘘をついたことなんてあります?』


 ある。それも一回や二回ではなく四十回や五十回ある。しかしキトゥリノの言うことにいちいち反応していては会話が進まない。仕方が無いので黙っておくことにする。


『……まあそれはさておき、私あんなケダモノ共に興味無いんで。本当に知りませんよ』


 その説明は皮肉にも非常に納得出来るものだった。大体、奴が言わないつもりなら聞き出す方法もないのでどうしようもない。キトゥリノには帰って頂くとして、俺は水晶に手を翳した。


 この水晶に氷力マナを注げば、塔から氷力マナが放出されて街から見える程に明るく輝く。それがこの塔を無事に登り切った証となるのだ。こんなくだらないことのために散々な目にあったという事実にぐったりしそうになるが、ストームスィアとの邂逅には意味があった。俺がクォーウルの、クラドヴィーゼンの手のひらから逃れるために必要なのは情報と力なのだから。


 振り返った俺の目に、登ってきたばかりの階段が目に入った。そう、当たり前だが登ったなら下らなければならない。帰れるのは何時になるのやら。


 げんなりしつつも歩きだす俺の耳に、微かな咆哮が届いた、気がした。


















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