薄氷の上で踊る IV

 ここまでやってやっと前足一本……にも満たない戦果。まあ慣れたものだ。闘いにおいて、相手よりも自分の力が上回っている事など少ない────ことクラドヴィーゼンに生まれるという不運を背負う限り。


 しかし残念ながら、俺がこのフューリーと対等の速さで動けるのは今だけで、いつまでもそうできるわけではない。とはいえ、闇雲に突進しても今度こそ死ぬだけだろう。じりじりと前に出ながらフェンリルの隙を伺う。


 こちらを見据える魔狼の瞳には、余裕ではなく警戒が宿っている。格下相手にも油断はしないという訳だ。全くやりにくい。


 とにかく、短期決戦以外に道はない。俺は意念イメージを収束、スノウファーレンから白雷が散る。


 「這え雷蛇よギアーデ!」


 地を舐めるように雷の蛇たちがのたくる。数十本の白雷がフェンリルの傷ついた右足に殺到したが────即座に鮮血術ピュアリファイが発動。魔狼の周辺に半透明の氷防壁が築かれ、蛇たちは獲物を仕留められずに散っていく。


 不味い。あの鮮血術ピュアリファイの効力によっては面倒なことになる。長期戦は望むところではない……痛みには逆らえても、崩壊していく身体はどうしようもない。


 とにかく、波状攻撃を仕掛けつつ隙を見つけるしかない。歯噛みしつつ左手を掲げる。


貫け氷槍ラーヴェトラム!」


 折れているだろう肋骨の痛みを堪えながら、今度は「氷撃」を発動。フェンリルから襲いかかる氷の礫を相殺しながら、それでも無数の槍が前後左右から魔狼を突き刺さんと突進する。狼は先程のように防壁を生成するが────違う点が一つあった。


 フェンリルの翡翠に浮かぶ紋様が先程と違う。しかも、氷を防ぐ時は右目、雷の時は左目だ。もちろん、同じ鮮血術ピュアリファイは同じ紋様で発動すればいい。つまり、さっきと今のは異なる鮮血術ピュアリファイであるということである。


 つまり……「白雷」と「氷撃」を同時にフェンリルにぶつければ、奴はそれをどちらも防ぐことはできないという事だ。しかしそこには大きな問題が立ち塞がる。今の俺の実力では、二つの魔法を同時に使うことなど出来はしない────普通なら。


 魔狼の追撃を身体を捻って紙一重の所でかわしつつ、俺は嫌々キトゥリノを呼んだ。


「おいキトゥリノ……」


『ふふふ、マスター……やっと私と「融合」してくれるんですね? 散々渋ってくれましたもんね……焦らしプレイですか?』


「無駄口を叩くんじゃない」


『冷たい……ではマスター、あなたから「興奮」と「渇望」を頂きますね、あとちょーっと痛いですよ』


 瞬間、ぞっとするような寒気が通り過ぎる。これだけはなんど味わっても最高に不快だ。自分から大切なナニカが欠落する最悪の感覚。それと同時に、俺は自分の胸にスノウファーレンを向けた。


 流石にこの凶行は予想出来なかったのか、魔狼が困惑の声を漏らす。


『何を……』


我が血に混ざれ、禍つの凶鳥よレリグス・キトゥリノ!」


 そして引き金を引いた。今まで味わった全ての温度よりもなお冷たいモノが自分と混ざるおぞましい感覚がはっきりと感じられ──


 転瞬、


 あらゆる感覚を塗りつぶす、痛みへと昇華した冷気が身体を駆け巡った。


「……ぁ……ぐ……!」


 何がちょーっと痛い、だ!心の中で叫びながら苦痛をなんとか馴染ませようと試みる。が、容量を超過した痛みは俺のありとあらゆる所で暴れ回り、言うことを聞いてくれない。硬直した身体に容赦なくフェンリルの牙が迫るが、そこで俺の意思とは関係なしに勝手に右手が上がり、魔狼の口に今までとは比べ物にならない威力の白雷を叩き込む。


 グルォォォォォォォ!!!!!


 苦痛に咆哮したフェンリルは今までとは質の違う警戒の目でこちらを睨んだ。


 ◇◇◇


 なんなんだ、アレは。


 フェンリルは半ば恐怖を覚えながら「ケット・シーだったもの」を呆然と見つめた。その間にも追撃の手は止まらない。ケット・シーは歪な翼をばさりと羽ばたかせる。たったのひと羽ばたきで霞むような速度。気づいた時には目の前にいた。


 慌てて鮮血術ピュアリファイを発動させるものの、完全には防げなかった紫ががる雷が全身を焼く。力を振り絞って後方へと跳ぶ間に、ケット・シーは悠々と地面へと降り立つ。


 それはもはやケット・シーではなかった。


 重い灰銀の瞳は澄んだ色と同時に虚ろを孕む白銀に。


 しなやかな尾は長い青みがかった白の尾羽に。


 背中には一対の雷を纏う歪な翼。腕には羽を象った白雷が這い、身体の周りには空間が歪んで見えるほどの氷力マナが感じられる紫電が、ばちばちと音を立てては消えていく。


 先程とは比べ物にならない威圧感が絶え間なく吹き付けるが、フェンリルは思い当たる魔法があった。


 あれは「融合エンチャント」、幻の魔法と呼ばれているものだ。恐らくケット・シーは、あの魔法を使って魔法生物と融合したのだろう────しかし、あれだけの力を持つ生物はそう多くない。それに、恐ろしいほどの苦痛と代償が要求されるはずだ。


 無言で佇むケット・シーの唇からつ、と血が滴った。更に、右腕の爪から酷く出血しており、床に血溜まりが出来つつある。思った通り、これでは長くは持たないだろう。


 ここを凌げば彼は自滅するはず────


 そう考えた瞬間、突如ケット・シーが手のひらを下に向けた。先程とは比べ物にならないほどの速さ、しかも詠唱をせずに魔法が発動。フェンリルは全力で障壁を展開して衝撃に備えるが、予想に反して魔法は全て床に衝突。閃光が網膜を焼いた。


 目くらましか。しかし、攻撃は全て障壁で弾ける筈。返しの攻撃で仕留める。決意した直後、凄まじい速さで氷の短剣が突き刺さる────前に障壁に阻まれる。直後に雷用の障壁に変更。


 読み通り、極太の雷が障壁に降り注ぐが……同時に氷の鳥が視界を埋め尽くす。なるほど、これがケット・シーの作戦というわけだ。だが────


『残念だったな小さきものよ! 誰が障壁を二重に展開できないと言った!?』


 左目と右目、両方に紋様が走る。着弾した氷鳥たちは全て障壁に阻まれ、ただの一羽たりともフェンリルの身体には届かない。


 しかし、その強さと執念に敬意を払い、せめて苦しみがこれ以上続かぬよう一撃で命を奪おう、そう思いながらフェンリルは牙を剥く。彼の身体を噛み砕く寸前────


 第三の雷がフェンリルの心臓を穿った。


 全身から力が抜け、牙はあっさり空を切る。倒れる寸前、視界にはケット・シーの隣に浮遊する一本の短剣と、それが纏う紫の雷が見えた。あの短剣は先程の攻撃と一緒のものだ。あの目くらましは短剣を隠すためだったのだろう。彼の真の切り札は、元からケット・シーが持っている魔法と、魔法生物の持つ魔法が融合した「第三の魔法」だったというわけだ。巨体が床に沈むと同時に、ケット・シーの魔法も解けた。


『見事だ……小さきものよ────いや、ケット・シーの戦士よ……最後に、私を殺す者の名が知りたい……』


 冷たくなっていく自らを顧みず、フェンリルはそう問うた。ケット・シーは答えようとして、派手に咳き込む。見れば、目からも血が流れ落ちている。口元を押さえた手のひらも真っ赤だ。それでも、掠れた声で彼は言った。


「……フェリドゥーン・フォン・クラドヴィーゼン」


『……フェリドゥーンよ、我が王の眠りを妨げようとするならば……自分の、進むべき道を……見失うな……』


 囁くように告げる、それで終わりだった。


 瞳を閉じる。


 暗転。


 ◇◇◇


 フェンリルは強かった。


 本来俺が敵うはずのない相手……それを倒せたのは上々と言えるが、代償もまた重すぎた。


 足が異様に重い。今すぐに倒れ込んで眠りたくなるほどの倦怠感が襲ってくる。それに出血が多すぎて目眩と頭痛が酷い。果たして塔の上まで登れるのだろうか。


 しかし、代償を払ったならば、その対価を受け取るのもまた道理というもの。


 俺は咳き込みながらも、最上階へと続く階段の一段目を踏みしめた。







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