第34話 哀感

冬の気配を匂わせた空気によって薄赤く凍えた手先で口元を覆う。ほぅと吐息を吹きかければふわりと白い靄が手の隙間から漏れて霞と消えていった。


すぐそこまで冬が迫っているこの時期、やはり夜明け前は一日の中で一際寒さが身に染みる。しかし今日は、湖面から顔をのぞかせようとする太陽の余波に染まった空に雲は微かにしか見えなかった。太陽が出づれば温かい日となるだろう。


私は隣の行命様を見上げた。彼もまた白い吐息を纏いながら薄く色づく湖面を眺めている。打ち寄せる微かな波音に耳を澄ませるかのように、遠く先の太陽の気配を鮮明に記憶に刻み込むかのように、双眸を眇め、ただ穏やかな表情で眺めている。


夜明け前の独特な静寂を壊さないよう、優しく軽やかに太鼓の音が打ち鳴らされた。


それと同時に、浜辺に整列した神官達が作った道を騎馬に跨った矢馳が砂場を蹴って現れる。鏑流馬で満点を打ち出した初老の神官だ。鏑流馬を制したのはやはり彼だった。


祭を締める黄湖への奉納。見守る観客達も含めて厳格な雰囲気で支配された空間の中で、彼は鏑流馬の時同等に静謐な面持ち、精錬された振る舞いで波打ち際まで歩んだ。


連続的に叩かれていた音が最後にとんっと鳴らされて静かになる。それを合図にして彼が弓に矢をつがい、ゆっくりと流れるような所作で弦を引いた。


同時、彼が加護を得る矢馳雷神の奥拉が鏃に集まっていく。


湖面から太陽が顔を出した。藍色の水面に橋を築くかのように茜色が描かれる。きりりと緊張に音を鳴らす弦がその光を反射して煌めき、鏃に集まった神の御力の燐光を纏って太陽を見据える彼の姿は、神事に相応しき神秘的な光景だった。


かんっと矢が放たれる。黄金色の燐光が空間を切り裂くように飛んでいく。


それは太陽に向かって突き進んでいき、やがてその軌跡が見えなくなると湖面が光を放った。太陽の光ではない。彼が放った矢馳雷神の奥拉の黄金色の光。それが茜色の陽光と混じりあって私達を淡く照らし出し、人々は思い思いに感歎のため息を零した。


「黄湖は儀式の時だけ唯人にも見える程に輝く。故に人々にとって神聖の象徴なのだ。」


同じ様にため息を零す私に行命様は告げた。私もそれに同調して頷く。


「分かります。これは……人の領域を超えた美しさです。」


私達はそのまま輝きが消えていくまでずっと黄湖を眺めていた。



*****



「伊織さん。貴女の義足が出来上がりましたよ。」

「──!ありがとうございます。本当に三日で作って頂けるなんて……。」


祭りが終わった翌日の昼、徳本様の診療所を伺うと会って一番にそう告げられ、私は安堵に顔が緩むのが分かった。


「特殊な創りでお願いしたので創作意欲を刺激されたと言っておりましたよ。彼の腕でもギリギリになるだろうと思っておりましたが、歩行練習の時間も出来て何よりです。」


そう言ってにこにこと微笑み、彼は風呂敷包みを開いて出来上がった義足を見せてくれた。真新しい木屑の匂いがふわりと広がる。


その中身は大きく足部、下腿部の二つの部位に分かれ、それらを接続する細かい部品がいくつかあった。特に特徴的なのが下腿部に穴が開けられており、二重になった筒をずらして穴にダボを嵌め込む事で長さを調整出来る様になっていた。


「貴女の透化が進行したとしても、これならある程度までなら歩けると思います。ただしその分強度は無いので無茶は駄目ですよ。」

「この様な細工まで……この義足を作ってくれた方のお名前は?お礼を言いに伺いたいです。」


私が訪ねると彼は苦笑して首を振る。


「止めた方がよろしいでしょう。彼は人間嫌いな所がありましてね。私はひょんなことから関係を持つ事が出来ましたが、余程の事が無ければ人に会おうとしないのです。彼に感謝するなら会わないのが一番よろしいかと。」

「……そうなのですか。では心から感謝していると徳本様から伝えていただけますか?心ばかりですが謝礼も。」


私はそう言って懐を探って二つの布袋を取り出して片方を差し出した。


これらの金銭は私がこの世界に来た時に制服を売って作ったお金だ。


義足を作ってくれる事になって徳本様と職人の方にお礼をしたいと、何とか自分のお金を作れないか悩んでいた私に、行命様が渡してくれた。


あの時はお世話になる生活費として預けたお金であったのに、彼はそっくりそのまま取っておいてくれたのだ。この世界では物珍しい素材であったためそれなりの金額にはなった。


彼は双眸を緩めて差し出したお金を受け取る。


「分かりました、伝えておきましょう。彼も喜びます。」

「徳本様はこちらを納め下さい。」


私が続けてもう片方の包みを差し出しすと、途端に彼は少し困った顔で袋を見つめる。


「彼ならばまだしも私に気を遣っていただかなくてもよろしいですのに。」

「何をおっしゃいますか。貴方にこそ私達は感謝しているのです。受け取っていただけなければ私が行命様に叱られます。」


私は彼が受け取ってくれるように少し怒った口調で告げると、無理矢理それを握らせる。彼も苦笑してありがとうございます、と小さく口にした。


「では早速装着してみますか?実際に歩くことができるのか確かめる必要がありますからね。」

「はい!」


気を取り直して風呂敷から義足を取りだしにこりと微笑む彼に、私は大きく頷いた。


徳本様から各部品の説明を受けながら組み立てて貰い、それを革をなめして作られた紐で透過した足と繋げていく。


両足にそれが装着されたのを確認して、私は松葉杖を付きながら恐る恐る立った。

足を乗せる台座が綺麗にやすりがかけてあって肌触りが良い。お陰で確りと体重が掛けられる。その場で強めに足踏みをしても強度に不安な所は無い。このぐらいの動作ならば問題なさそうだ。


今はまだバランスを取るのが難しいので松葉杖は必要だろうが、両足から伝わる匠の仕事を感じて、慣れれば直ぐに杖を取って歩けると確信した。


松葉杖を付きながら足を動かして動作を確認する私の様子を見て、徳本様は驚きを滲ませて呟く。


「最初は転ぶと思って身構えていたのですが……。」

「えぇ私も。予想以上に良い作りです。とても足に馴染みます。本当に腕の良い職人に作っていただけたようで感激してますよ。」

「それでも普通はそこまで歩けないでしょうに。」

「……そうでしょうか?」


首を傾げる私に彼は少し感心したようにため息をついた。


「貴女は重心を取るのがとても上手いのですね。」

「そう言われたのは初めてです。」


今度は私が驚きに目を見開く。


「私はそこまで知っている訳ではありませんが、どんな状態でも体制を維持出来るというのは武芸において重要な素質と聞きます。特に乗馬して弓を引く矢馳においてそれは顕著ではないでしょうか。」

「!」

「いずれその道に進む岐路も──」

「徳本様。」


強張った口調で言葉を遮り、私は足を止めて彼を振り返る。


「私は行命様の弟子です。」

「……。」

「それ以外の何者にも成るつもりはありません。」


彼は私が向ける視線で時が止まったかのように凍り付いたが、やがて呼吸を思い出したかのように息を吐きだした。


「無神経な事を言いましたね、申し訳ありません。ただ、貴女の現状を思うと脚となってくれる輩(ともがら)がいればと思っただけなのです。」

「ご心配ありがとうございます。しかし私にはもうこの足があるので。」


私がそう言って軽く足踏みすると、彼は困ったような悲しいような複雑な顔で微笑んだ。しかし直ぐに神妙な表情となって彼は私と向き合う。


「貴女がどう選択されるかは別として、以前お話差し上げたように行命法師は神仏習合を説かれた方。神道との付き合い方はよく考えた方がよろしい。」

「と、言われますと?」

「神道は朝廷と密接に繋がっています。この国の王、天皇こそが生き神であり神官であるからです。貴女が行命法師の弟子として思想を引き継ぐならば、朝廷との関わりは避けられません。」


行命様に三蔵の位を与えたのが天皇となれば、その弟子である私は朝廷の興味を引くという事なのだろう。


……ただ、私は朝廷に知られるまで存在しているか分からないけれど。


「分かりました。よく考えておきます。」


私はそう告げると改めて徳本様に向き直り、深く頭を下げた。


「明朝、私達はこの町を立ちます。この四日間本当にお世話になりました。」

「……あなた方の旅路が幸多きものでありますように。」


そう言葉を掛けてくれた彼の表情を、頭を下げていた私は見る事が出来なかった。


けれど口調から伝わるもの悲しさが私の目頭を熱くする。


私はそれ以上紡ぐ言葉が思い浮かばず、その場を後にした。

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