第32話 奥拉

それから数人の矢馳が馬場を駆け抜けた後、いよいよ美紗紀さんの番がくる。琥珀にまたがって会場に向かう彼女は、少し緊張した面持ちだった。


「美紗紀!」


その彼女が私達の側まで近付いてくると、耀日様が名を呼んだ。美紗紀さんは僅かにうつむきがちだった面を上げてはっと息を呑む。私達を見つめる素振りが今初めて気付いたかのような素振りであったのが、私が思うよりよっぽど緊張していた事が伺えた。


耀日様はそれ以上言葉を発しない。ただじっと真剣な眼差しで彼女を見つめている。


美紗紀さんは僅かの間それを見つめ返し、やがてこくりと頷いた。


彼女は琥珀の首を軽く叩き、心を落ち着かせるためだろうか、長く細く息を吐く。そしてもう一度面を上げたその表情に緊張は消え失せていた。


「はっ!!」


掛け声と共に彼女と一頭は馬場に飛び出す。しなやかな足が蹴りだす砂しぶきに混じって、黄金色の燐光が煌めいた。


あの光は……!!


耀日様や最初の老人ほど強いものではなかったが、あれは確かに行命様が奥拉と呼んだ光だ。隣の彼を見やると、驚きに目を見開いている。


やはり、彼女が僅かながらもあの光を纏っているのは特別な事なんだ。


私は己の感情が感動に震えるのを感じた。


凄い、凄いよ、美紗紀さん……!!


一射目に向けて弓を引く動きから伝わってくる。彼女の歳でこの場に立つ事がどれだけ苦難であったのか、この瞬間にどれだけ思いを重ねてきたのか。


カァンと弦が弾けた。放たれた矢が吸い込まれるように的に向かっていく。


鏃が的に接触。しかしそのまま勢いは弱まらず──


「──っ!!」


今までで一番大きな衝撃音にびくりと身体が身じろいだ。周囲の観客もどよめき混じりの歓声を上げる。


彼女の矢は的を貫いて更にその先の板まで喰い込んでいた。先が丸まった鏑矢でだ。


何という威力……いや、でも!


審判の姿を見ると一射目の傘は開かれていない。


外した……。


一瞬見えた彼女の顔が悔し気に映った。しかし直ぐに美紗紀さんは二射目、三射目に移る。


一射目とは威力が半減し、的に矢の半ばまで喰い込む程度であったが、それでも今までの神官と比べ物にならない威力を見せつけて、彼女達は馬場を駆け抜けた。


開いた傘は二つ。中心を外したのは一射目だけであった。


美紗紀さんの姿が見えなくなって、耀日様はふぅと一つ息を付いた。


「決まったね。」


彼女はそう言うとくるりと踵を返して歩き出す。


「え?まだ次の方がいらっしゃいますが……」

「決まったって言っただろ?」


戸惑って声を掛ける私に、彼女は振り返らず片手をひらひらと振ってその場を立ち去って行った。


「伊織、少し様子を見に行こう。少々気にかかる。」


呆然とそれを見送った私に行命様が耳打ちする。私はそれに頷き、遅れて彼女の後を追った。


しかし、耀日様が向かった先は直ぐに判明する。彼女は鏑流馬を終えた神官の控え所にいた。


美紗紀さんをねぎらいに来たのかな。


彼女の背中を遠目に見付けてそう思ったが、その胸に顔を埋める美紗紀さんの姿を目にして、近寄ろうとした足が止まった。


微かに震える肩。優しく背中を叩く耀日様の素振り。彼女が泣いているのが分かる。


先程の儀式の姿と打って変わった彼女の姿は、大きく私の胸を打った。


矢馳の神官としてこの場に立つ力を持っていても、彼女は私と三つしか変わらない少女なのだと。


「良かった。耀日の事だからと心配していたが、奴もきちんと師をやっているようだ。」


行命様の安堵したような口振り。彼は優しく笑みを浮かべている。


「耀日が言うならば、明日の奉納者は決まったようなものだ。後は奴に任せて儂等は宿に戻ろう。」

「はい……。」


促す行命様に従って、私達はその場に背を向けた。



*****



宿に戻る道すがら、私は人気が無くなった頃を見計らって先程から気になっていた事を行命様に問い掛ける。


「【奥拉】とは一体何なのでしょうか?あの光がそうなのでしょう?」


彼もこのタイミングで聞かれるのは承知していたようで、一度足を止めると笑みを浮かべた。


「そうだな……先ずは見た方が早かろう。」


行命様はそう言うと数珠を取り出し両手を合わせる。


「今ならば見えるはずだ、伊織。“開眼”したその目ならば。」


そう告げて、彼は経文の一文を発した。


瞬間、がらりと変化する気配。駆け抜けていく強大な力。


まただ。


耀日様が儀式を行った際に電撃の様に駆け巡った感覚。第六感がその存在を強固に主張している。私は沸き立つ高揚に身震いした。


しかし感じる力の強さとは打って変わって作り出された光景は、儚く、幻想的であった。


ふわりと蒼白い光が浮かび上がる様子は、まるで降りしきる雪が時を巻き戻して天に還っていくかのよう。


僅かに日が陰りだした景色のなかで、燐光は双眸を細めて私を見つめる行命様の顔を微かに照らしている。それは柔らかに宙を滑り上がっていくと、肌に触れた結晶が溶けるがごとく、最中で滲み霧散していった。


「これが【奥拉】である。」

「……。」


言葉が出なかった。どこか郷愁さえ思わせる光景は、深く心を揺さぶる。人は大きく感情を動かされると言葉を失うのだと知った。


「奥拉は万物に宿る力だ。人間などの動物だけでなく、樹木や、水、風、この世に存在するあらゆる基体に備わるもの。本質に備わるもの。

しかし多くの人間がそれを知覚することなく一生を終える。その理由としては、存在を知るには生の根源的な要素に依存する故、明確に言葉で表すことが出来ないのと、その境地に辿り着ける道のりは十人十色で、そもそも他人を手本に出来るものではないという事。」


「私が見える様になるまで説明されなかったのも、そういった理由からだったのですね。」


「そうだ。実際目にした今と前では儂の言葉は解釈が違うだろの。」


彼は指先を立てると燐光が上った軌跡をついとなぞる。


「儂の奥拉と耀日達矢馳流が発する奥拉、放つ光が違っただろう?儂が見せたのは儂自身の根源に備わる奥拉、しかし矢馳流に限らずこの国の神官達は、超常の存在から奥拉を借り受ける事が出来る。神官達が起こしている奇跡は、彼らが信仰する神々の奥拉に起因するものだ。

即ち──この世の現象は奥拉の変動によって決定する。」


成程、神道の奇跡はそういった理屈で起きていたのか。でもそれは奥拉を操作すれば何でも出来るって事じゃないか?


「勿論それは万能ではない。」


私が考えた事を察して行命様は続けて言った。


「一は全、全は一。一つ一つの奥拉はそれそのものとして存在するが、それら全てが世界の根幹の流れに従って在るものなのである。それは神々でさえ変えることのできない強大な力なのだ。」


私は彼の説明に少し考えると、例えば──と切り出した。


「河川は水源として人々の命を繋ぎ、その流れは荷物や人を運んで営みを助けますが、川を渡るには地を歩くより数倍苦労を伴うものですし、そもそも人の都合で川の流れを操作出来ないのと似たようなものでしょうか?」


「左様。お前も随分飲み込みが早うなった。」


「そう、だったら良いんですけど。」


いつものようにぽんぽんと優しく頭を叩かれ、褒められたことに照れて顔を緩める私に、彼は続けて問いかける。


「伊織。お前が奥拉を目にする事が出来た事に、何故儂が喜んだと思う?」


行命様の言葉で私は更に気恥ずかしさを募らせながらもそれに答えた。


「えっと……これから奥拉の扱い方の修業に移れるからでしょうか?」

「それもあるがな。」


正解は少し違ったらしい。彼は続けて言った。


「今言ったように奥拉は万物の根幹に宿るもの。では人間でいう根幹とは?」

「魂……?」

「そうだ。人間の奥拉はその者の魂のあり方に左右される。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……感情の揺らぎによって奥拉もまた揺らぎ、清濁併せて己の中で昇華するからこそ魂は成長して奥拉も洗練される。

奥拉が強きもの、それは己の心理に答えを見出した者たちなのである。」


そう言って彼は一度口を閉ざした。


私はその時間を使って彼の説明の意味を思考し、やがてその言葉が帰結するところに気付いてはっと息を呑む。


途端に波が打ち寄せるように沸き上がる感佩の情が、私の表情を歪ませた。零れそうになる涙を堪えて震える唇を引き結ぶと、彼はそれに気づいて微笑みを深くする。


行命様は徐に片膝を付いて視線を合わせると私の両手を取った。


「よくやったな、伊織。」

「行命様……。」

「開眼、即ち奥拉を知覚出来る様になる事。それは魂の成長でしか踏み入れられない境地なのだ。お前がそれに到達出来た事がどれ程特別な事か。どれ程尊い事か。」


堪え切れなかった涙がボロボロと零れ落ちる。彼は言葉一つ一つを刻むように握った両手を優しく揺すった。


「儂は師として素直に誇らしい。お前は確かに人間として成長したのだ。」

「っ……!!」


連ねられる言葉で胸が詰まり声を失うが、何とか言葉を返そうと涙を拭ってその手で歪んだ顔を引き伸ばすが、それでも雫は次から次へと溢れ、泣き顔は直らなくて。


「それは……行命様だから、行命様だからこそで……!

私こそ、貴方のような師を持てて幸せです。私を弟子にしてくれて、私を見付けて下さって、ありがとう…本当に、ありがとうございます……っ!!」


私は目を真っ赤にしながらしどろもどろの言葉で、ただ”ありがとう”と繰り返した。


「やれやれ……成長しても泣き虫な所は変わらんな。」


これからが大変だというのに、と彼は苦笑する。それが照れ隠しだというのは、今の私でも容易に分かった。

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