第17話 親愛

窓から吹き込む、柔らかくも涼しい風がふわりと前髪を浮かせるのを感じて、私は目を開けた。面を上げると格子の隙間から見える空はほの明るい夜明け前。やっと眠りにつけたと思っていた所で、もう次の朝になろうとしているのを見て私はうんざりと眼を細めた。



「おはようござ──」



何時ものように行命様はもう起きたのだろうか、そう思ってあくび混じりに挨拶をしようとするが、辺りを見渡しても姿は見当たらない。



「行命様……?」



慌てて荷物を確認するが昨夜のまま置いてある。何処か出かけているのだろうか?少し不安になった私は、出るばかりにまとめてあった彼の荷物を抱え彼の姿を探した。

猛禽類独特の高い鳴き声が虚空を舞う。空を見上げれば一羽の鳶が羽ばたき、風を切る様が耳に届く程近くを通り過ぎていった。



やけに人に慣れているな。誰かが飼っているんだろうか。



その様がまるで道案内しようとしているかのようで、気になった私は鳶が向かう先に足を向けた。



すると歩みを進めていく内に家屋はまばらになり、村はずれにまで来た所で行命様の姿を見つける。



彼はこの村の墓地に居た。入り口を守る様に並んだ六体のお地蔵様の前で、彼は昨夜書きしたためていた冊子の頁をめくりながら立っていたのだ。



笛を吹くような高い鳴き声がまた響く。彼はその声に我に返ったかのように面を上げて鳶の姿を認めると、背後にいる私に気付いたようで振り返った。



「荷物を持ってきてくれたのか。」


「えっと、すぐ持ち出せる様にまとめてあったので。もう出発するのではないかと。」



手入れはされているようで見た目は綺麗だが、墓地という何となく不気味さが感じられる場所にいることに、私は戸惑って視線を彷徨わせた。



「あの……こんな所で何をしてらしたんです?」


「あぁ、それは……少し調べものをな。」



一瞬、すいと彼の視線が横に滑る。しかし直ぐにそれは私に向けられて質問に答えると、彼は持っていた冊子をパサリと閉じた。



「かつてこの近くには良質な鉱石が取れる採掘場があってな。この村は行き交う鉱夫達によって栄えていた町だ。目ぼしい石が取れなくなったと同時に人も減って活気は衰えたが、名残は各所に残っている。そこの墓もそうだ。」



彼は墓地へと視線を向けた。



「稀に玻璃(はり)が使われた墓がある。ここで採れた石だ。」



言われて恐る恐る覗くと、鈍く光る透明な石をあしらった一回り大きな墓がある。雨風にさらされて風化しているが、元は美しく輝いていたのだろう。



村の有力者の墓なんだろうか。珍しい外観ながらも手の込んだ作りにそう結論付けた。



「随分立派な墓地ですね。お地蔵様が六体もありますし。」


「確かに手の入った墓であるが、地蔵菩薩が墓地にあるのも、そして六体であるのもれっきとした理由がある。輪廻転生によって死者が巡る六道の世界一つ一つに地蔵菩薩の救いが届くようにと、六地蔵を立てるのだ。」



あぁ、昨夜話していた六道の話が関わってくるのか。人は死んだあと異世界を巡るってやつ。



昨夜の会話を思い出して納得しかけたところで、ざわりと気のせいともいえる僅かな不安が過った。



何だ?



その正体が分からず内心首を傾げる。だが、あともう少しの所で分かりそうな予感も襲ってもどかしかった。



「六道、それは儂らが生きるこの世界も含まれている。そう考えれば六道を渡った死者はその世界で生きる生者とも言えるし、地蔵菩薩は死者ではなく生者の救済を行っていると考えることが出来る。」



“六道を渡った死者”



先程より強く胸が騒いだ。まるで清らかな水面に墨汁が一滴垂らされて汚されていくように。



ねぇ、行命様。なんで昨日はその話をしたの?


『これで考えの一助にはなったか?』


ねぇ、何で《異世界の話が私を助けると思った》の?


私、昨日はここでの暮らしでの環境が以前と違い過ぎるって話しただけだよ?


私は国外から天変によって運ばれてきたって、行命様言ってたよね。それなのにどうして?



さぁと一気に血の気が引いていく。手足が冷たくなっていくのが感覚的に分かった。けれど墓地の方を見つめていた彼は私の様子の変化に気付かずに話し続けた。



「故に地蔵菩薩は生者に向けた姿であり、死者に対してはまた別の姿を持つのだという考えもある。そういった観念では地蔵菩薩の事を地蔵“王”菩薩と──」



どさり、と荷物が手から離れて地面に落ちた。その音に驚いて振り返った行命様は私の様子に気付いて顔色を変える。



まるで操られるかのように足が動いて後退った。顔色が悪くなる彼の表情を見ると不安は確信へと変わり、全身の震えに任せるかのように首が左右に振れてまた一歩後退する。



“地蔵王菩薩””死者に対する姿”



閻魔!!!!



立ち並ぶ六地蔵に視線が向かった。



見られてる!!見付かった!!!閻魔に見付かった!!!!!



「いやぁああぁああああ゛あ゛あ゛あッッ!!!!!」


「伊織ッ!!」



逃げろ!!!!!



その単語のみが思考を支配した。



この場を離れなければ!!!逃げろ逃げろ逃げろ逃げろッッ!!!!!!



もつれながらも一歩、また一歩と足が後ろ向きに歩き出す。



「まて──」


「近寄らないでッッ!!!」



私を止めようと一歩踏み出した彼に、強い拒絶を言葉に乗せて叩き付けた。信じられない。誰も信じられない!!!



私は踵を返して駆け出した。どこに行くかは考えなかった。とにかく人が居ない所へ、閻魔の目が届かない所へ!



恐慌に支配された真っ白な頭の中でその事のみがぐるぐるとめぐり、今にも蓋がはじけ飛びそうな激情に任せて足は地面を蹴った。



「待ってくれ──!」



彼の苦し気な声が遠くから微かに届いた。



******



狭まった視界の外で足が何かに引っ掛かる。振り絞った残りかすで辛うじて動かしていただけの身体は、それでバランスを崩して凹凸が激しい地面に倒れ伏した。突き出した棘や石が皮膚を突き刺す。



痛みを堪え、荒い息で激しく上下する胸を押え、ひりつく喉には唾を飲み込んで鎮めた。



疲労で思考は朧気だが地面に転がった状態で周囲を見渡してみれば、太くそびえたつ樹木達がここが森の中である事を、枝葉の屋根の隙間から覗く茜色の空が今が夜が近づく宵闇である事を示していた。



振り出しに戻っちゃったな……。



たった数日前の事を思い出して自嘲する。



私が馬鹿だった。簡単に人を信じたのが間違いだったんだ。のこのこと彼に付いてったから、閻魔に見付かったんだ。



私はこれからどうなるんだろう。もしかして彼を通して今も私の事を探しているんだろうか?



ゾッと怖気が走った。足を止めている今も近づいてきているのかもしれない。そう思うと居ても立っても居られず、体を起こして覚束無い足取りながらも歩き出した。



けれど、連日まともに寝れていない事もあって疲労は最高潮に達していて意識が依然として霞掛かっている事と、宵闇の薄暗さが災いした。



「あっ」



ガクンと膝が折れると同時足が滑る。傾いた身体を支えるべく手を付こうとするがそれは宙を切った。そのまま私は急斜面を転がり落ちる。



「~~ッッ!」



声を出すことも出来なかった。ただ頭や背中、鳩尾と転がるに合わせて全身を打ち付けられるしかなかった。



「──ッッがはっ!!」



背中に強烈な打撃が襲う。肺の中の空気が吐き出されて悲鳴が掻き消された。斜面に生えた木にぶつかったのだ。その代わり転がっていた体は木に引っ掛かった形で止まった。



痛みに耐えかねてその状態のまま歯を食いしばって呻く。何かが顔を伝っていく感覚があって額に手をやれば温かい液体が付いた。薄目を開けて確認してみれば指先に纏わりつく血。



地獄で何度も見た”赫”だった。



言い知れぬ徒労感に打ちのめされてその手を眺めていると、ふと違和感を覚える。

それは本当に何となくの感覚だった。気のせいと言ってもいい程度の。だから私はそんな微かな感覚を打ち消すべく、更に腕を伸ばして差し込む茜色の光に掌を翳した。


──何も可笑しな事はない。安堵しかけるがよくよく目を凝らす。そして気付いた。



「えっ」



途端、全身を凍り付かせるかのような、心を粉々に叩き割るような衝撃を受けた。



陽光に照らされた私の血濡れた手先が透けている。



「なに、これ……。」



目の錯覚?いいや違う。何度瞬きしても傾きを変えても見えている結果は変わらない。



何故?



再び湧き上がる恐怖と共にその言葉が浮かんだ。


どうしてこんな事に?


一体何が起きていて──



はっと息を呑む。ある考えに思い至ったからだ。



地蔵菩薩が常に衆生を見ているのならば、それを通じて閻魔はとっくに私を見付けているべきではないのか。けれど私はまだ捕まっていない。



その理由がこれだとするならば。



絶望が胸を突き刺した。


まさか、まさか──!!


捕まえる必要が無い?どうせ直ぐに《戻ってくるから》。


この透化はこの世界に居られるタイムリミットを示している?


だとすればいつまでもつ?私はいつまで生きていられる?



その時翳していた手がふっと元に戻った。それに安堵すると同時、やはり勘違いでは無かったという失望がごちゃ混ぜになる。



伸ばしていた掌が力を無くして顔に落ちた。そのまま指先に付いた血で頬に線を描きながら滑り落ちていき、力なく地面に横たわる。



どうしてここまで追い詰めるの?



変わりゆく空を見上げたまま放心していると、獣の息遣いが微かに耳に届く。



ぎくりと身体が強張った。視線だけを動かすと……居た。影の暗がりの中で光る鋭い瞳孔の瞳が。それは一対、また一対と数を増やしていく。昨夜聞こえた遠吠えの正体だろうか。私の血の匂いを嗅ぎつけたんだ。



終わった。



地獄で四足獣の速さを身に染みて知っている私は死を悟った。



逃げられない。結局タイムリミットを待たずして死ぬことになるのか。



もう嫌だ。もう無理だよ……。



ゆっくりと瞼を閉じた瞬間。



獣が苦痛に悲鳴を上げた。



驚いて瞼を開けると、両足で地面に溝を切りながら滑り落ちてきた人間が、私のすぐ側で足を止めた。



そのまま私を背後にかばい、鬼気迫る顔で周囲の獣を睨み付け、血に濡れた小刀を油断なく構えた人物。



行命様だった。



どうしてここが。



そう思う前に、群れの一匹が影から飛び出した。それは骨が浮くまで痩せた野犬だった。飢えで涎を垂らしながら行命様に噛み付こうとする。



「──ふっ!」



彼はそれを一息で切り払った。どれだけの技量だというのだろうか。それだけでその野犬は半分に割られ、地面にべちゃりと落ちた。



血払いをして再び構えた彼に息が乱れた様子はない。再び群れを睨み付ける。今ので力の差を理解したのか、苛立たし気に唸り声を上げながらも次に続く野犬はいなかった。



暫くにらみ合いが続いたが、やがて一頭の野犬がくるりと向きを変えた。すると他の野犬は仲間の亡骸を咥えるとそれに続いて離れていく。



そして獣独特の殺気の気配は消え失せた。



「伊織、無事か!」



彼は小刀を鞘に納めると倒れる私に駆け寄った。額に触れる指先の感覚が伝わる。



「頭を打ったのか。伊織、意識はあるか?儂の声が聞こえるか?!」


「ぎょう、めいさま……。」


「無理に声を出す必要はない。瞬きで返してくれれば良い。良かった、意識はあるようだな。今傷を押えるゆえ。」


「どうし、て……」



指示を無視してでも口にした問いかけに、彼は荷物を探っていた手を止めた。



「弟子を心配せん師などおらん。野犬に囲まれた所を見た時は肝が冷えたぞ。」


「……!!」



ぶっきらぼうな口調でも安堵のため息が混じった言葉。

その言葉の温かさが、散々に痛めつけられた心にじわじわと沁み込んでくる。気付けば私は声を上げずにボロボロと涙を零していた。



「怖い思いをさせたな。遅れて済まなかった。」



彼はそう言うと頭に布を巻くついでに流れ落ちる涙も拭ってくれた。

それでも止まらず、彼が手当をしてくれている間はずっと口を引き結び、感情に任せて涙を流していた。



*****



数分後、私は行命様におぶられながら山を下っていた。暫くは安静にした方が良いとの事でだ。



他人におんぶされた事って、前世であったかなぁ……そりゃ赤ん坊の頃はあっただろうけど、お父さんもお母さんも忙しいひとだったから、こんな風に触れ合う記憶は残っていなかった。



だから思わなかったんだ。



触れ合う温かさが、相手の歩きに合わせて揺られる心地よさが、ほのかに香るお香が、こんなにも安心するって事が。



結局行命様の事は分かっていない。彼が何かを隠している事は分かったのだけれど、私はそれがどうでもよくなっていた。



疲れたのだ、もう。



彼を疑う事に、これからを思い悩む事に。



彼は私を心配して探してくれて、そして助けてくれた。その気持ちだけは本物だと思うから。

それだけでもう充分と思えてしまった。



こてんと彼の肩に頭を置く。


「どうした、眠いか?」


「……ちょっと。」


「寝たければそのまま寝ればよい。」



私は訪れた微睡に任せて瞼を閉じた。



今はただ、この暖かさに甘えたい──。


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