第三章 3学期編

第69話 元旦

「宏君〜起きて!」


 意識がはっきりしない中、朧げにそのような言葉が耳に入る。


 しかし、俺は、その言葉に返答や反応を示さず、無視して、ベッドの上で1度寝返りを打つ。


 布団と自身の身体が擦れる音が生じ、その結果、温かい存在に抱擁された感覚に陥る。


 眠気がより強くなり、一段と意識が明瞭さを失う。


 声の主は、言葉だけでは無駄だと思ったのか、次は手を用いて身体を上下にゆする。


「起きてよ〜、もう朝よ〜」


 背中に手の感触を感じ、意識が再び朦朧と覚醒する。声の主が誰かは理解できる。しかし、睡眠欲は恐ろしく、言う事を聞く気にはなれない。


「もう〜。宏君は昔と変わらずお子ちゃまね〜。ほんと朝が弱いんだから。でも、そんな宏君もかわいいのよ〜」


 突如、隣に何者(お母さん)が侵入してくる。おそらく、俺が起きないから、それを理由に溺愛する我が子と一緒に寝る魂胆だろう。


 普段なら飛び起き、拒否するところだが、今日は眠気が強すぎるため、行動しない。いや、できない。


 上機嫌な鼻歌、人間の生々しい温もりを直感で知覚しつつも、目が開かない。瞼が異常な重さを形成する。


「ずるいです。いくら、母親だからって特権を使いすぎです!」


 聞き慣れた幼馴染の声色が聞こえた気がした。日常と違い、大きな動揺が内心で創造されたことが推測できる。


 荒い足音が床を叩き、数秒後、もう片方にモゾモゾと再び何者かが侵入してきた。強引に布団に身体を差し込んだためか、足や臀部とその人物の足とが軽く擦れる。柔らかもっちりとした感触をそれらが覚える。


 俺は、現実ではなく夢だと未覚醒の脳内で断定すると、再び、寝返りを打ち、重量を持った瞼を上げる。


「!!、うわぁ!」


 思わず、目を剥き、息をつく間もなく、上体が勢いよく起き上がる。


 一瞬の出来事だったが、その情景は、俺の記憶にしっかり焼きつけられていた。


 これは現実なのからと、胸中でつぶやくと、先ほど目に入ったシーンを回想する。


 非常にインパクトがあったのだ。


 半開きの俺の瞳に捉えられたのは、恥ずかしそうに優美な顔を赤く染め、前髪や襟足が下方に流れた形で横たわった香恋だった。


 顔の距離は目と鼻の先であり、彼女の緊張を帯びた瞳が明瞭に視認された。


 香恋のおかげで確実に意識が覚醒し、その代償として大きな困惑が生じる。無論、焦りの。


 なんで香恋が朝から俺の家にいるんだ。なんで香恋が朝から俺の部屋にいるんだ。


 脳内で上記の言葉を幾度となく反芻する。

心はそう簡単に落ち着きを取り戻してくれない。


「宏君、起きちゃダメよ。まだ、私と寝ないと」


 逆サイドに存在するお母さんに身体を強引に抱き寄せられる。


 胸に頭が引き寄せられ、鼻骨に柔らかい塊が触れる。豊満だ。


 肉感のある物体に対面したことで、偉大な包容力を感じ、非常に和やかな気持ちになる。


「何やってるんですか!産みの親だからってやっていいことと悪いことがありますよ!」


 香恋は、不快感を孕んだのか、俺をお母さんの胸から引き離そうとする。


 その際、左手を強引に引かれる。


「ちょっと、香恋痛いよ!それになんか、頭も痛いよ」


 香恋に引っ張られているのにも関わらず、俺がお母さんの胸から乖離しないのは、お母さんが腕にありったけの力を込めていることが原因だろう。


「離してください!なんで力を入れるんですか?」


「なんでって、それは、私の楽しみを取られないためよ〜」


 2人の争いが、俺を交えて行われる。両者共に妥協することなく、自我を貫き通す。


 頭と左手に痛みを抱き、鼻に安堵するやわらかみ。


 そんな事態に直面する今、俺の意識は、完全に覚醒し、身体中に熱を噴出させた。


 そうして、数滴の汗が布団に小刻みに滴った。







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