第62話 彼に心配を掛けたくない
あの後、私は、全力で廊下を駆け抜け、クラスの教室に突入すると学校規定のジャージに着替えた。念のためロッカーに常備していた。
冷気と寒気から解放されることはないが、ぐしゃっとした感覚は下着の部分以外消え去った。
床にはいささか水の塊があった。制服や靴下から垂れた水滴が要因だと思う。
制服や靴下などを体操服が詰まっていた着替え袋に投入する。そうしたら、袋は水気を帯び、不規則なシミを形成する。
私はそれを咎めるず、無視すると、持参したタオルで塗れた床をなぞる。タオルが水を吸収し、手のひらに間接的に液体を感じる。
床がきれいになったのを確認すると、制服同様、タオルも袋に入れる。
太陽の光が存在感を表すかの如く、教室の窓から射す。明るく、目を合わせられないぐらいに。
私は、その光を他所に、自身の席に向かい、イスを引き、腰を下ろす。とにかく、1度体に休養を与えたかった。私の席は最後列であり、顔を上げると、そこには広々した教室が姿を見せた。
普段は狭いと錯覚する室内が、今日は広いと思う。そのギャップが私の心をより虚無感に誘う。
そんな心情の中、偶然前側の扉が開かれる。
別々の空間が繋がることで、1人の顔なじみの男子生徒の姿が露になる。私は、彼を視界に捉えただけで、虚無感が少し晴れる。
男子にしては小柄で、やや幼い顔立ちをした黒髪の人物。赤森君を見ただけで。
赤森君は、目線を変化させ、教室全体を一望する。必然的に私と視線が合致する。
「あ、朝本さん。こんな時間に遭うなんて奇遇だね」
彼は進んで自分からやや高い声を掛けてくれる。それだけで私の心は華やかになる。彼の顔、瞳、声、身長、すべてが愛くるしい。
「あれ、朝本さん、なんでこんな時間に体操服を着ているの?」
赤森君は、目を丸くし、疑問を口にする。口も半開きになる。
「・・・う、うん。ちょっと、着替えなければいけない用事ができてね」
私は言葉を濁した。本当は、置かれている状況を彼に説明しようと思った。しかし、その考えを逡巡した上で脳内から打ち消した。
話を聞いて欲しかった。胸中に詰まったマイナスの感情を思う存分吐き出したかった。しかし、そうすれば、赤森君は私を救けようとするだろう。自分の身が犠牲になるリスクが内在していたとしても。彼は優しいから。
でも、そうすれば、次は私ではなく、赤森君に危害が加えられるかもしれない。それは、ターゲットが変更されることを意味する。
そうすれば、私は今置かれている状況から解放されるかもしれない。そうすれば心は楽になる。
でも、そうなれば赤森君が。
それだけは嫌だった。彼が傷つくところを目に入れたくない。以前、私を救けたみたいなことにはなって欲しくない。赤森君には平和な学校生活を送ってもらいたい。
彼のことが好きだから。
私は気持ちを押し殺し、無理やり笑顔を創る。普段より頬や瞼に力を込める。
赤森君はそれ以上追及することはなく、ロッカーに足を運ぶと、忘れ物を手に持って教室を退出した。
ドアの閉まる音だけが内部に寂しく残される。また、1人になった。
楽器を奏でる音が密閉空間にかかわらず、窓を貫通し、侵入する。その音が起因して、机や黒板が鳴る。
私はその環境の中、恐怖に耐えるために、机の上で腕をクロスさせ、前腕に顔を埋めた。
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