第58話 意外な事実
シャンプーやボディーソープの匂いが俺の鼻腔をくすぐる。ものすごい良い匂いだ。嗅いでいるだけで頭がくらっとする。
そして、その色香を醸し出している源泉が目と鼻の先に存在する。香恋は、俺に身体をべったりと密着させている。その上、布団で隠れているが、両足を俺の足に絡めている。
なんだこの状況は。いや、落ち着け。これは香恋の心情を考えてのことだろう。やましいことは考えない。考えない。
俺は自身にそう言い聞かせる。だが、その行動とは裏腹に、体温は急激に上昇する。
室内に電気の明るさは照らされていないにもかかわらず、俺は両目をいかんなく開放している。おぼろげながら天井の光景が認識される。
「ごめんね。敦宏・・」
香恋が俯き加減でボソッとつぶやく。
「なんで謝るの?香恋は何も悪いことをしていないよ」
脳内に浮かんだ言葉をありのままの形で口に出す。そこには嘘や偽りはない。
「ううん、違うの」
香恋は首を振る。
「これは私が招いた事件だから」
寝間着が強く握られる。
「どういうこと?」
俺は目を見開き、香恋に優しく問い掛ける。驚かさないように。
「あいつらは私に復讐しに来たんだよ」
「え?」
予想外の展開がその場に浮上する。
「学校を退学する羽目になった原因を作った人間が許せなかったんだよ」
香恋は俺に視線を向ける。やや薄い赤色の瞳が悲しみと恐怖に彩られている。
それから、俺は衝撃の話を聞かされた。
どうやら、事件の首謀者である不良3人の退学の原因は香恋にあるというのだ。彼女が言うには、知り合いの探偵に依頼して、彼らの悪行の証拠を入手し、それを学校に明け渡したというのだ。その結果、彼らは退学になったらしい。にわかに信じられることではないが、嘘を言っているようには微塵も見えなかった。
「許せなかった。敦宏をあんな目に遭わせたあいつらが」
香恋は鼻声で心の中に詰まった思いを吐露する。表情は窺うことができない。
「だから自業自得なんだよね」
自嘲するかのように吐き捨てる。彼女から悲壮感が漂っている。
「そんなことない!」
俺は語気を無意識に強めてしまう。
「・・そんなことないよ」
宥めるために香恋を抱きしめる。華奢な身体を全身で知覚する。何とも言えない感情がこみ上げてくる。
「香恋は俺を救けるためにやったと思うんだ。悪事を働いた奴らから俺を守るために」
腕に一層力をいれる。
「それに、誤らなければならないのは俺の方だよ。俺が強かったら、香恋がそんなことをする必要はなかった」
俺は自分を戒める。心中で厳しく。
香恋が顔を上げる。目には少量の涙が存在する。
「だから、ごめん。そして、俺を護ってくれてありがとう香恋」
俺は謝罪とお礼を込めた言葉を口にする。香恋と見つめ合っている状態だが、絶対に目を離さない。
「・・なんでよ。なんで敦宏が謝るのよ」
香恋は俺の胸に顔を埋める。こつんっと頭が胸に当たる。
俺は香恋の頭を優しく撫でる。もぞっといささか身じろぎしたが、抵抗してこない。むしろ、歓迎の意志があるように思える。
頭から手を離すことなく、背中にもう片方の手を添えることで彼女を落ち着かせる意図であるが、少しは効果があると考えてもいいだろう。
最終的に、香恋が深い眠りにつくまでそうしていた。
・・・
「・・敦・・宏・・。敦宏・・起きて!」
途切れ途切れで女性の声が脳内に反響する。聞き覚えのある声だ。
「敦宏起きて!」
次は体を上下左右に揺すられる。触覚が不確かに刺激される。
「ううっ~ん」
軽い呻き声と共に重い瞼を広げる。度が強い眼鏡を掛けたときに現れるぼんやりとした視界に直面する。ねじ曲がった空間の世界に人間の顔のシルエットがある。
数秒ほどすると、視界は徐々にきれいなものに変化する。ぐにゃっとした感覚が消失する。
「もう!何回起こせば起きるのよ」
目の前には頬を膨らませ、不機嫌な表情を露にした香恋がいた。
「香恋、もう大丈夫なの?」
俺は視認するなり、彼女の両肩に手を置く。頬に一滴の汗を感じる。
「・・近い」
俺から視線を逸らし、俺の即座の行動をたしなめる。
「・・・ごめん」
すぐに肩から手を離す俺。
居心地の悪い空気が2人の間に生まれる。
「少しはね。誰かさんのおかげさまで」
香恋は踵を返し、俺から距離をとる。
「早く下に行くわよ。私お腹空いた」
行動を催促される。これはおそらく、何か手伝わされるな。昨日とは態度が大違いだ。まぁ、こっちの方が香恋らしくていいけど。
俺はベッドから上体を起こして床に足を付ける。そうした結果、体が急遽、寒気に襲われる。季節の変化を体感させられる。
「あっ、敦宏に1つ言いたいことがあるんだった」
香恋はドア付近で不自然な形で歩を止める。服装は寝間着から部屋着に着替えている。
「なに?」
立ち上がりながら、聞き返す。今度は体のだるさが襲ってくる。
「昨日はありがとう。救かった」
香恋はそれだけ言い残すと、足早に部屋を出ていった。
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