第56話 事件

 野水君の告白を朝本さんが断ったことで、クラスメイト達からは戸惑いの表情が見られた。まさか、フラれるとは思っていなかったのだろう。


 その場には言葉では表現できない居心地の悪い空気は流れた。俺はこのままどうなってしまうのかと思った。しかし、その均衡を破ったのは、この空気を創り出した1人である野水君だった。


 彼は、クラスメイト一同に対して謝罪する。周囲はその反応に驚愕しつつも、誰1人として言葉を発することをしなかった。いや、醸成された空気感の中ではできなかったのだろう。


 あれから何日か経ったが、クラスの雰囲気は体育祭前と変わっていない。


 告白を拒否された野水君も不機嫌な様相を一切見せることをしていない。その上、朝本さんに対しても依然と変化のない態度で接している。今現在でも、必要な書類を自分から朝本さん手渡している。その顔には爽やかさと優しさが内包されている。クラスのメンバーもそれを咎めるようなことはしない。


 クラスは平穏である。だが、俺はそのような環境に不気味さを感じている。野水君が性格が良いことは中学校の彼を知っていれば嫌でもわかる。しかし、自分をフッた相手に対して、あんなに優しく接することが可能なのだろうか。


 俺が考えすぎなのか。それとも、野水という人間を過小評価しているのか。


 なんともいえない恐怖と奇妙な感覚が机の上で頬杖をつく俺の心を支配する。


            ・・・


 時刻は19時00分。今日も偶然なのか、香恋と新田に一緒に帰るよう誘われた。そのため、通例通り図書館で本を読むことで時間を潰したのだが、途中でトイレに行きたくなり、そこで用を足した結果、いつも時間よりも遅くなってしまった。


 2人が待機するそれぞれの部室に足を運ぶと、2人ともその室内で俺を待っていた。


 冬がすぐそこまで来ているためか、辺りは19時にもかかわらず真っ暗だ。光彩を否応なく解き放つ電灯が視界に収められる。それはまるで昼間の太陽のように見えた。この光のおかげで新田や香恋を視認することができる。


 俺達3人は校門に差し掛かり、道路と面した歩道へと進む。俺と香恋が並んで歩を進め、そのすぐ後ろを新田が追いかける形になっている。前回と同様、当人たちの間に会話は存在しない。


 俺は、「どうしようかと」頭を悩ませる。前のように香恋が話を切り出すことは稀有であり、頻繁に起こることではない。そのため、俺がどう話を振るかということがカギになる。


 俺は口元に力を加える。だが、そこから用意していた言葉が紡がれることはなかった。


 1台のハイエースが歩道に沿って直進する。ある程度のスピードが出ている。おそらく、スピード違反だろう。エンジン音が半径10メートル辺りまで行き届く。


 そして、なぜか俺達の近くでハイエースが停止する。車から発せられる熱気とライトの光を直に感じる。


 車のスライドドアが力強く開かれる。車内から2人の男が飛び込んでくるように姿を現す。


 その2人には見覚えがあった。以前に設けられたテスト後、俺を目の敵にし、暴力を行使してきた不良3人のうちの2人だ。構成はリーダー格の人間と取り巻くの内の1人だ。学校を退学したはずなのに。


「どけ!」


 リーダー格の男が俺の肩に突進してくる。その衝撃から歩道に並行するように存在している壁に体を打ちつけ、尻もちをつく。臀部、肩と腰、受け身をとった手にそれぞれ鈍い痛みを感じる。


「キャッ。・・・なにすんの・・・むぐッ」


 女性の悲鳴が耳の中に入り込んでくる。


 まずい。


 痛みによって閉じられた瞼を無理やり力づくで開ける。


 香恋は、リーダー格の男によって体を摑まれ、手のひらで口元を抑えられていた。香恋は体を上下左右に揺らし抵抗しているが、所詮女性の力だ。抵抗むなしく、ずるずると車の方へと引っ張られていく。


 俺は彼女を救けるために立ち上がろうとするが、体が言うことをきかない。肩、腰、臀部の痛みが俺の身体の自由を完全に奪っている。絶望が心中を覆う。目に光が消える感覚が生じる。


「やめろ!」


 しかし、現実では予想外の事が生まれた。新田が肩を前方に傾けながら、男に突進したのだ。その結果、新田は地面に尻を打ちつけ、その代償として男はよろけた。男の手が空を切り、香恋が俺の直近に倒れ込む。


「大丈夫香恋!」


 俺は香恋の上体を無理やり起こす。


 香恋は小刻みに体を震わせながら、首を縦に振った。瞳には恐怖に染まった様相が明示されている。肩の震えが止まらない。


 香恋から視線を外して男たちがいる方向に視線を向ける。奴らは真顔で距離を詰めてくる。おそらく、香恋を連れ去るつもりなのだろう。


「1人の奴は抑えとけ」


 命令に従い、1人の男は新田に迫る。


 立ち上がって逃げようと試みが、香恋が反応しない。手を引いてもぴくりとも動いてくれないのだ。おそらく、恐怖から足がすくんでしまっているのだろう。現実は

上手いこと進展しない。


「君たちなんて場所に車を止めているんだ。しかも、こんな大きな車を!」


 懐中電灯がこちらに向けられる。目に僅かながらまぶしい。誰かがたまたまここらへんを通りかかったようだ。光のおかげでその声の主を把握することが可能になる。


「おまわりさん!この人たち誘拐です。捕まえてください!」


 俺はありったけの声で警察の制服を身に纏った2人の人間に訴えかける。


「本当か?」


 中年の警察官が真偽を確かめるため、是非を問うてくる。


「はい。本当です。俺見ました」


 新田が便乗する形で証言する。


「やべっ、警察だ。逃げるぞ!」


 男たちはハイエースに戻り、スライドドアを閉める。リーダー格の1人が運転席になにか指示を飛ばしている。運転席に座った人間は焦っているようだ。


 懐中電灯の光が強くなる。警察との距離が減少している証拠だ。


 しかし、運転席の人間は安堵な表情を浮かべている。どうやら、事は済んだようだ。


 『逃げられる』っと直感した。車のエンジンがかけられた瞬間、彼らの身は保たれる。そして、エンジンをかけるのにはまったく時間を要さない。


 しかし、数秒経っても車はエンジン音を吐き出さなかった。


 なぜかはわからない。だが、それが意図的ではないことは明白だ。なぜなら、乗員は皆、焦燥に駆られた様子を露にしているからだ。


 車の故障か、カギの故障か、予期せぬアクシデント。どのような原因でエンジンが起動しなかったのかはわからない。しかし、そのアクシデントによって、彼らは逃走できていない。


 警察官の1人が強引にスライドドアを滑らせる。もう片方は運転席のドアを開放する。


 男たちは車から降りようと試みているが無駄な抵抗だと思える。


 このエリアだけ異なる時間が流れている感覚だ。まるで、違う世界にいるような。


 俺がそのような体感をしている最中、俺の胸には自分の体重を全部といっていいほど乗せている香恋がいた。





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