第41話 終結

 今、部室には意外な人物が身を置いている。その人物は、胴着を着用した巨漢の男。


 その男は、男子バスケ部とは一切縁の無い人間であり、通常ならば、バスケ部の部室に足を運ぶことはない。


 そして、そのような人物であるため、この場にいる彼以外の人間の中で、彼のことを知っている人間はいないと思ってもいい。


 しかし、俺はこの人物を目にしたことがある。


 球技大会のとき、空腹の限界からか、地面に倒れていた。確か、名前は。


「・・・鷲(わし)・・・君・・・?」


 彼の顔に視線を向けながら、内心半信半疑で、彼の名前だと思しき名称を口にする。


「おー。敦宏君でゴスか。久しぶりゴスね」


 現在の室内の状況など露知らず、鷲君は、笑顔で俺に手を振ってくる。やっぱり。あのとき、遭遇した大きな人だ。


 彼の空気を読んでいない様子に、先輩たちや新田は呆然とした顔を表に出している。


「それにしても、敦宏君はなんで胸倉を掴まれているゴスか?」


 鷲君は部室全体を一見した後、ここに来た人間ならば誰もが口にするだろう疑問を口にする。


「・・ち、ちょっと。絡まれてて」


 胸倉を掴まれていることで平常心を保てていないのか、歯切れの悪い返答を鷲君に対してしまう。返答したことで、普段より速まった心臓の鼓動がうるさいぐらい耳で反響している。今さらながら、恐怖や緊張感から平常心を失っていたことを実感させられる。


「・・・そうでゴスか。それは大変でゴスね」


 鷲君は、少しの間を自身でとると、先ほどの明るいモノとは異なる冷淡さを帯びた声色を発する。彼の声は、俺、先輩たち、新田、それぞれの鼓膜を刺激したに違いない。


「すぐ助けるゴス」


 そう言うと、真剣な表情をしてこちらに向かってくる。俺と鷲君の距離は、2メートル程度だ。


「なんだお前は。関係ない奴はどっかいっていろ」


 俺を取り囲むようにして立っていた先輩たち3人が鷲君を妨害するよう並列に並ぶようにして前方に立ち塞がる。


「・・どいて欲しいゴス」


 鷲君は3人を視界に入れるなり、彼らを見下ろす形でたった1言だけ言葉を発した。声を荒げているわけでもなく、汚い言葉を使っているわけでもないのだが、鷲君の体格と威嚇をするような表情が組み合わされた結果、3人は恐怖を感じたのか、わずかに体を震わせている。


 絶対に勝てない強者と対峙している感覚を身を持って感じているのか、鷲君が彼らに目もくれず前進しても行く手を阻もうとしなかった。


 そして、俺と鷲君の距離が50センチ程度になったとき、「敦宏君から手を離せゴス」と山西先輩に対して命令口調で言葉を掛ける。


「は?何で突如現れた初対面の奴にそんな風に命令されなけりゃいけないんだよ」


 鷲君の言葉が癇に障ったのか、俺の胸倉から手を離し、次は、鷲君の胸倉を掴み上げる。その際、カッターシャツほどではないが、彼が着用している胴着も同じように伸びてしまう。


 当事者以外は、全員、鷲君と山西先輩に視線を向け、釘づけになっている。このような状況ながら、次に起こる展開が、皆気になってしかたないのだろうか。


 山西先輩は、必死に歯を食いしばり、睨め付けているが、その対象となっている鷲君は、ごくわずかも動揺しておらず、呆れたような目で山西先輩を見ていた。これを見ている身としては、大人と子供の喧嘩を見ているような気持ちに駆られる。


「もういいでゴスか」


 鷲君は、気が済んだだろうと言わんばかりに、胸倉を掴んでいる山西先輩の手首を握る。すると、直後、胴着を掴んだ山西先輩の指がたやすく離れていく。


 鷲君が、腕に力を込めたのか。山西先輩の顔には苦痛に耐えるような表情が浮かび上がり、そのまま鷲君の力に抵抗できず指が離れてしまったのだ。


「い、いてぇ。お、おい。離せよ」


 山西先輩は、普段決して出さない弱々しい声を出しながら、掴まれた腕を引き離すように体を揺れ動かしたり、腕に力を込め、掴まれた手から逃れようとしている。しかし、現状は変化することはせず、一向に鷲君の手が山西先輩の手首から乖離することはない。


「わ、わるかった。お、俺が悪かったから。は、離してくれ」


 額や頬に大量の汗を掻き、依然と苦痛に耐えるを表情しながら、懇願するように鷲君に訴えている。


 しかし、鷲君にはその言葉は届いていないのか、それとも無視しているのか。それはわからないが、まったくやめる気配が見受けられないのは確かだ。


 俺、山西先輩以外の先輩たち、新田は、何もできずただその状況を眺めていることしかできていない。


 このままこの状況が長く続くのだろうか。


 突然だが、俺は、山西先輩のことが好きではない。いや、嫌いだ。だから、今の境遇から山西先輩を助ける義理は毛頭ない。彼がやってきた所業が原因となった結果であり、当然の報いだと思う。しかし、人が苦しむ姿を目に入れることは、どうなっても好きになれない。それは、憎く、嫌いな人だとしてもだ。なぜだかわからない。だが、そのような光景を見ているだけで心中で悲しい気持ちになる。だから。


「鷲君、もういいから」


 俺は鷲君の横顔を視界に入れながら、彼に向けて言葉を投げ掛けていた。


 俺の声は、この場の全員の鼓膜を刺激しただろう。


「でも、この人は敦宏君にひどいことをしたゴス」


 言葉が耳に届かないことも最悪あるのではないかと危惧していたが、そんなことはなく、彼は、俺がいる方向に視線を向けてくれた。どうやら、俺の声は彼の鼓膜を刺激できたようだ。

 

「もういいよ。もう大丈夫だから。俺のためにありがとう。鷲君」


 俺は鷲君の目をしっかり見つめながら、うっすらと微笑みながら、諭すように言葉を投げ掛ける。


 周囲の人間は、俺と鷲君に対して、交互に目線を向ける。多くの視線を指南しているわけではないが、無意識的に肌に知覚する。


 しばしの沈黙があった。それは、わずか5秒ほどだっただろうか。


 俺の気持ちが通じたのか、鷲君は、「敦宏君がそう言うなら」と言って、俺の要望通り、山西先輩の手首から手を離してくれる。事態は良い方向に転がったわけだ。


 一方の初めて痛い目を見た山西先輩は、痛みを和らげるためなのか、掴まれていた手をさするようにして撫でている。


 そして、痛みがある程度引いたのだろう。「帰るぞ。お前ら!」と一同に大声で呼び掛けると、部室に置かれた荷物を手に持ちながら、新田に謝罪することなく、そそくさと逃げるようにして部室を退いていった。一方、他方の先輩たちも、山西先輩を追いかけるように、自分の荷物を持って仲良く順番に部室を後にしていった。


 そして、その結果、3年生専用の部室には、俺、新田、鷲君の3人だけがいる状態になった。

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