第37話 お願い

 (名都美奈(なつみな)視点)。


 私は、男子バスケ部が練習するために使用する我が高校の体育館の中に身を置いている。体育館の壁際付近に置かれているデジタルタイマーが立てられた地点に佇み、練習風景を一望している。


 季節は夏なため、体育館の中は熱気と湿気が漂い、風もほとんど入ってこないため、日本特有のジメジメとした暑さをさらに激しくしたような状態である。


 そのため、コート中で、忙(せわ)しく体を動かしているバスケ部員はもちろん、動いていない私も顔や体に汗を大量にかいている。したがって、私が現在身に纏っているジャージの中には、湿った汗が身籠っており、水気を感じるような気持ち悪い感覚が私を襲っている。


 しかし、そのような嫌悪感を抱く感覚に耐えながら、ある人物を中心に入れることを逃さずに、視界に入れ、マネジャーの仕事を遂行する。そのため、練習を一望しながらも、1人の人物を視界から外さないようにしているわけだ。


 その人物は、新田武通君。男子バスケ部に所属している男性としては小柄な高校2年生。通常なら、新田君は私の視界にはほとんど入ってこない。これは、意図的に行っているわけではなく、彼が、部内ではあまり目立つ人間ではないため、そのような結果になってしまうのだ。


 全く目に入らないと言うわけではないが、今日のように注視して見ることは今まで経験したことはなかった。そのため、異常なほど新田君を目視している。ターゲットとした人間を逃さず、見失わないように。


 ところで、私が、このような行いをしているのには理由がある。それは、現在から数時間程遡ることで明らかになると思う。


(回想シーン)


 私が、自分のクラスから退出し、部活に向かおうと歩いていたとき、突如、ある人から声を掛けられた。


 その声色は、やや高めの声であるが、しっかりと男性のモノだと理解できるような声だった。堂々としているようで実は自信がないといった複雑な要素が入り組んだ声。


 私は声の音源を辿るようにして前方を向くと、そこには、男性にしては小柄な背丈をした人物が姿勢良く立っていた。


 赤森敦宏。それが、彼の名前だ。彼は、以前まで男子バスケ部に所属していた。


「ど、どうしたのかな?赤森君」


 私は内心驚きながら、声を発したため、やや落ち着きのない声が口から漏れ出てしまう。


 赤森君は、これまで、滅多に私に話し掛けてくることはなかったし、話したとしても、現在、私たちが身を置いている教室付近ではまずなかった。そのため、私の心臓は激しく脈を打ち、呼応するように体も熱くなる。


 私の心理状態など露知らず、辺りを一望できる通路を無我夢中で生徒達が横断していく。時折、私と赤森君の関係が気になるのか、私たちをちらっと一見する生徒は何人か存在したが、その生徒達もすぐに歩を進めてその場から立ち去っていく。


 私は、赤森君が発する次の言葉を当人を見つめながら待つ。内心、ドキドキしながら。


「奈津さんに、お願いがあるんだ」


 赤森君はやっと言葉を発した。他人にとっては、わずかな時間かもしれないが、

私にとっては、1時間は経過しているのではないか感じるぐらい長く感じた。


それにしても。お願い。どんなお願いだろう。私にしかできないお願いかな。ふふっ。


 ワクワクしながら、紡がれる言葉を待つ。


「バスケ部に新田っていうメンバーがいると思うんだけど、その新田の部活をしている様子を教えてくれないかな?」


 えっ。新田君。何で彼のこと。


 予期していなかった名称が出現したことに対していくつかの疑問が頭中に湧いて出てくる。赤森君と新田君は、あんまり仲良くはなかったはず。赤森君が部に所属していたときでも、この2人が会話しているところをほとんど目にしたことがない。そのため、赤森君の口から新田君の名前が出てきたことが不思議でならなかった。


「・・・俺の予測だけど、多分、新田は今、あまり好ましくない状況にいると思うんだ。でも、それが、誰から起因しているかはわからない。だから、色々考えられるところから探索しなければならない。そこで、バスケ部の中の内情と状況が目で確認できる奈津さんにお願いしに来たんだ・・・」


 赤森君は、少々の間を保った後、申し訳なさそうな表情をしながら言葉を滑らかに紡んでいった。


「そうなんだ」


 私は相槌を打つつもりはなかったのだが、無意識に言葉を発したことで打つ形をとってしまう。


 正直に言うと、私は、赤森君が言ったことがほとんど理解できなかった。新田君がどのような状況に置かれているかははっきり明示されていない上、抽象的な表現が何点か存在したためである。もしかしたら、本人も新田君が置かれている状況を正確に理解していないだろう。多分、そうだ。


「大丈夫かな?」


 赤森君は確認を取るように私の瞳を覗き込んでくる。


 私は、彼のその動作を視認し、心臓の鼓動が加速する。


 若干不安を孕んだ黒と茶色が混ざったような色をした瞳、ややふっくらした唇、動作を行ったことで微妙に流動した黒い髪の毛。それらを認識する度に私の心は刺激される。まるで、赤森君の体に私が反応するセンサーがあるかのように。


「うん。任せて。私ができることならなんでもやるよ」


 私は、内心動揺しながらも、平静を装いながら、やる気を示すように胸の前で両拳を握り、ガッツポーズの体勢をとる。


 私の言葉を聞き取り、ガッツポーズする姿勢を視認した赤森君は、普段よりも大きく目を見開き、口も数センチ程開いている。その彼の唇は、植物の気孔のような形をしていた。


 そして、数秒ほどで、表情を戻すと、「奈津さんは優しんだね。恩に着るよ」と言って軽く微笑んだ。


 その後、神様のいたずらか、軽いそよ風が私たちの体をくすぐる。私の髪の毛が左右に規則的なベクトルを描いて造作を行う。


 しかし、私は、その動く髪を手で押さえることもせず、流れに任せるようにして泳がせた。なぜなら、私の頭は、そのことよりも、赤森君の優しい言葉と優しい笑顔で満たされていたからだ。


 それで、今に至る。


 現在は、部活動の練習は終了し、男子バスケ部に所属しているメンバーは、部室で着替えを行っている。そして、私も制服に着替えるために、マネージャー専用の個室に身を置いている。


 男子バスケ部では、3年生、2年生、1年生の部室はそれぞれ分かれており、マネージャーの部屋も同様に学年ごとに分離されている。


 私の学年は、2年のため、その学年の専用の部屋をしている。しかし、2年生のマネージャーは私しかいないため、実質個別の部屋と言っても過言ではない。1年生、3年生には複数人のマネージャーが在籍しているが、私の学年は、対照的に、1人しかいない。


 私は、着替え終わると、荷物を部室内に放置し、アパートの1ルームほどの大きさしかない部屋のドアノブを手に取り、捻る。すると、外界の空気が強引に押し寄せ、それと同時に、私の視界には、まだか輝きを放っている日の光と、体育館の建物が同時に目に飛び込んでくる。


 私は、飛び込んできたモノに対して驚きを示さずに、周囲に誰か他人がいないかを確認して個室のドアを閉める。


 かちゃんっといった音が小さくその場で木霊する。おそらく、私以外の人間には、この音が捉えられていない。


 自分の右手がある方向につま先を向けて、歩を進め始める。


 数秒程すると、視界に捉えられる景色は、変化し、体育館と部室が内在している建物に板挟みにされた道から大きく開けた道が視認される。


 その道は、真っすぐ伸びる一本道であり、右方には校門、左方には校舎が存在する。


 私がこのような光景が見て取れる場所に辿り着いて、右方に目をやっていると、部活帰りの男子バスケ部の生徒たちが集団で帰路に着いていた。


 運が良いと思い、私は、その集団に近づいていき、声を掛ける。


 「新田君ってもう帰った?」


 私は、2年生のバスケ部員の中でも、1番プレイが上手く、リーダーの上川君に質問を投げ掛けた。上川君が私に視線を向けるとほぼ同時に、同伴している部員達も一斉に私に視線を集中的に向けてくる。その視線は、威嚇しているようにも見て取れる。


 私は、その大量の視線に嫌悪感を抱きつつも、返答を待つ。


「ああっ。新田なら、今日用事があるらしいから残るらしいよ」


 その場にいない新田君に関することで、知っている範囲で教えてくれる上川君。周囲の少数のメンバーも知っていたのか、上下に首を振る動作をしている。


「どのような用事かわかる?」


 私は、さらなる理解を得るために、もう1つ質問を投げ掛ける。


「それは、わからないな。ただ、俺達と違って、新田は自転車通学だから、それに関することじゃない」


 新田君のことなどどうでもいいような口調で上川君は私に対してそのような情報を提供してくれる。周りの人間も上川君に同調した空気を醸し出している。その状況から、新田君が四面楚歌の環境に立たされているようなイメージが脳内で醸成されてしまう。


「わかった。ありがとう」


 私は、上川君にお礼を伝えると、その場に足を着けている全員に労いの言葉をかけると、部員達が校門に向けて歩を進めるのを他所に、部室までの帰路に着く。


 私は、数分ほど部室内で待機するために、スマホを開いて時間を潰す。そして、5分経ったぐらいで、様子を確認しようと考え、再度ドアノブを捻って、扉を開放する。


 先ほど同じ景色が目に飛び込み、空気もほとんど変わりはない。そして、ドアを閉めながら、四方八方を軽く確認すると、ご目当ての人物を認識することができた。


 その人物は、新田君だ。


 新田君は、飲み物を5つほど両手に抱えながら、ある部室の扉をノックしていた。室内からの反応があると、彼は、器用にドアノブを握って、室内に吸い込まれるようにして入室していく。その際、手に抱えられたペットボトルは1つも地面に落下しなかった。


 私は、室内の状態を少しでも理解するために、彼が入っていた部屋の扉が設置された場所の付近まで距離を運ぶ。


 その距離、手を伸ばせば、ドアノブが掴めるぐらい。


 窓は開放されてはいないが、隙間から声が漏れているのか、耳を澄まさなくても声を聞き取ることができる。


「頼まれていた。飲み物です」


「おう」


 耳にしたことがある2者の声色が私の鼓膜を刺激する。1人は、新田君の声。もう1人は、おそらく、バスケ部の先輩、3年生の部員の声。


 その言葉が交わされた後、しばらくは、誰も言葉を発さなかった。たぶん、大部分の人間が、新田君が所持していた飲み物を体内に投入しているからだろう。


「よし、そろそろいいか」


 先ほどと同じ先輩が言葉を発する。


「そろそろするか・・・」


 また、耳にしたことがある先輩の声が。


 直後、「ぐっ」っと苦痛に耐える吐息と人間を殴打するとき発生する鈍い音がほぼ同時に耳に入ってくる。


 その後、音楽を奏でるように、小刻みに鈍い音が次々に起源をその室内にして出現する。


 その音や声から嫌でも想像できてしまう。新田君が複数の先輩たちから暴力を受けている絵が。この場面に遭遇して、改めて、赤森君が言っていた言葉の意味が分かった。赤森君は、新田君がいじめにあっていることを推測していたんだ。


 赤森君の予想の敵中に関心しながら、何もしない私。いや、何もできない私。


 強い人間ならば、この状況に直面したとき、おそらく、部室の中に突入して、新田君を助けに行くのだろう。赤森君のように。


 しかし、私にはそれができない。もし、助けに行った場合、自分に危険が降り掛かることが予測できるためだ。そのため、心に従うように体が動かない。


 動いているのは、若干恐怖で震えている体だけだった。


 本当に私は、弱い。私は1人では何もできず、助けてもらうことしかできない。そう。あのときだって。


 結局、私は、新田君を助けることはできず、部室に戻り、いつもと違う道を通り、校門を抜けた。

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