47. その後の顛末1

 レリッサは、陽の光を感じて目を覚ました。

 リリカローズの香りを染み込ませた、ふわふわの枕が頰を優しく受け止めている。


 身体を起こして、寝ている間に固くなってしまった身体を伸ばす。

 身支度をしようとベッドから降りると、ちょうど部屋にマリアが入ってきた。


「お嬢様。起きてらしたのですか」

「ええ。おはよう、マリア」

「着替えをお手伝いいたします」

「ありがとう。お願いするわ」


 レリッサは微笑んで、ナイトドレスのリボンの結び目をしゅるりと解いた。


 王宮で、リオネルが忌まわしいつるぎを壊してから、数日が経った。

 劔を壊せば、全てが終わりだった。


 国王は気力のすべてを劔に吸い取られて意識を失い、セルリアンは意気消沈したまま、アイゼルフット侯爵が促すまで、長くその場を動かなかった。


 シンプトン宰相は、その場で捕らえられた。

 今は、ミルドランド公爵と共に、軍と政府、双方の聴取を受けながら、牢屋で沙汰を待っているところだ。


 宰相とミルドランド公爵の思惑は、レリッサが話した物とほとんど変わりがなかった。

 レリッサの推察は、ほぼ全てにおいて当たっていたのだった。


「そう言えばお嬢様」

「なぁに?」


 レリッサのワンピースの、腰のリボンを結びながら、マリアが鏡越しに微笑んだ。


「先ほど、リオネル様がいらっしゃいましたわ。朝食をご一緒になさるとか」

「本当に?」


 パッとレリッサは後ろを振り向いて、マリアが微笑んで頷くのを見て駆け出した。


「あ、お嬢様!」

「身支度ありがとう、マリア!」


 廊下を、うるさくない程度に小走りで駆ける。

 階段を駆け下りて、サロンに飛び込むと、そこに、新聞を手に椅子に腰掛けているリオネルがいた。


「リオン様!」

「おはよう、レリッサ」


 手を広げられて、レリッサは迷わずその腕の中に飛び込んだ。

 リオネルと会うのは、あの王宮での一件以来のことだった。彼もまた、事後処理に奔走されていたのだ。


「レリッサ。…逢いたかった」

「私もです」


 リオネルが腕の力を弱める。

 椅子に腰掛けたリオネルは、レリッサよりも少し低いところに頭があった。

 リオネルの肩に手をかけて、椅子に半分乗り上げたレリッサの頰を、リオネルが包む。


 どちらともなく唇を合わせた。


 かさりとリオネルが膝に乗せていた新聞が落ちる。


 ちゅっと音を立てて、リオネルが離れていく。

 それを名残惜しく思って、もう一度をねだろうとしたレリッサに、リオネルが少し残念そうに笑った。


「俺ももう一度したいけど…ほら」


 リオネルが、レリッサの後ろに視線を向けた。

 それにつられて後ろを振り返って、レリッサは慌てて手で顔を覆った。瞬時に顔が熱くなる。


 それもそのはずで、サロンにいる全員が、レリッサとリオネルを生暖かい目で見守っていた。


「姉様。幸せそうで結構だけど、ちょっと自重してね?」


 とは、あの晩、ディートルの助けがあったとは言え、人を転移させるという高度な空間魔法を使って、すっかり魔力が枯渇したサマンサ。

 二、三日、彼女は寝たきりで全く動けなかった。ようやく普段の生活を取り戻したのは昨日のことだ。


「そうそう。僕ら、思春期だからさ」


 こちらは、あの晩、ずっとサマンサを支え続けていたライアン。

 その隣でホーリィが、今日も完璧にパーマのかかった輝く金髪をくるくると指先で弄んでいる。


「うふふ。おはよう、お姉様」

「仲睦まじきは良いことだ。閣下になら、レリッサを安心してお任せできる」


 戦地から昨日帰ってきたばかりのエメリアが、今日も麗しい微笑みでお茶を傾けている。


「…僕は複雑だよ。なんだって、妹と親友のこんなシーンを…。なぁ、アイザック?」

「…俺にそれを振るなよ」


 部屋の隅で膝を突き合わせて話をしていたらしいパトリスとアイザックが、どこかしょんぼりと肩を落として会話をすれば。


「良いじゃん良いじゃん! アッツアッツだね、お二人さん! やっぱ、二人はこうでなくちゃ」

「ま、未来が安泰で何より。これからスタッグランド王家は繁栄していかなきゃならないんだから、王と王妃の仲が良いのは、結構なことなんじゃないの?」


 エドとディートルが、朝食前にがっつりと重たいケーキを食べながら言っている。


「ああ…恥ずかしい」


 顔を手で覆うレリッサの頭を、ぽんぽんとリオネルが撫でた。


「でも俺は嬉しかったよ。真っ先に俺のところに飛び込んできてくれて」

「それは…もちろんですわ」


 囁くように呟いたレリッサに、リオネルが一瞬目を瞬いて。

 それから心底嬉しそうに笑って、さっとレリッサの額に口付けた。


「嬉しいな」

「はい…」


 ほわんとまた甘い空気が流れる。

 それを、手を打って止めたのは、父だった。


「ほら、朝食だぞ」


 父は、どこか諦めた顔をしながら、そう言って、真っ先にサロンを出て行った。




「そう言えばディートル様」


 朝食をとりながら、レリッサは斜め前に座るディートルに声をかけた。


「なに?」

「…あの時、なぜディートル様は、私が王宮へ行くのをお止めにならなかったのでしょう?」


 王宮へ向かうと言ったレリッサを、誰もが止めた。

 その中で、ディートルだけが一切止めずに、背中を押してくれたのだった。


 リオネルが小さくため息をついて、眉を寄せた。


「ディートル。それについては、俺もお前に言っておくことがあるぞ。今後一切、レリッサを危険に近づけるのは禁止する」

「そんなこと言ったって、しょうがないじゃない」


 ディートルは肩をすくめて、ふわふわのパンを口の中に放り込み、ゆっくりと嚥下してから再び口を開いた。


「彼女、『視える』んだもの」

「…『視える』?」


 ディートルが頷く。


「そう。君は昔から、本が好きだった。…いや、ずっと文字を読んでいたかった。そうでしょ?」

「ええ…。確かに、本は昔からずっと好きですが…」

「幼い頃のレリッサ様は、本当に暇があればずっと本を読んでいらっしゃいましたね。本に限らず、小さなメモでも、お茶の缶の裏の但し書きでもなんでも」


 ダンがレリッサのカップにお茶を継ぎ足しながら、口を挟んだ。

 ディートルが「僕も」とカップを持ち上げる。


「君はね。目から入る情報がものすごく多いんだ。他の人間が見ているものより、ずっとね。いろんなものが目に入り、そしてそれを記憶してしまう。色、形、材質、大きさ、見るもの全て。…それは、とても疲れることのはずだ」


 レリッサは、ディートルがこの家にやって来た時に言われたことを思い出す。


『あんた、視えすぎるね。色んなものが。…よく頭痛がしない? それに、熱も出す』


「一方で、文字はその形でしかない。色は基本的に単色で、大きさもほぼ一定、文字はすぐに頭の中で情報に置き換えられ、一方通行なのも良い。…君にとって読書は、いわば脳の逃げ場だ」

「普通、本を読むほうが疲れない?」


 本を読むことが苦手なホーリィが、話に割って入った。


「そういう人もいるけどね。彼女にとってはそうじゃない。視えたもの全て、頭がしまい込んでしまう。…そんな君が導き出した答えだ。十分信用に値する。だから僕は、君を王宮に連れて行った。必ず君が、リオンを『王』にするって、僕にはわかってた」


 ディートルはそう言うと、これ以上話すことはないと、メインのハムにナイフを入れ始めた。


 レリッサはリオネルと顔を見合わせた。

 ディートルは結局、レリッサを危険に近づけない、とは言わなかった。


「まぁ、良い。…レリッサ、食べたらすぐに出るつもりだけど、準備は良い?」

「はい。もちろんです」


 レリッサはにこりと微笑んで頷いた。




 リオネルと二人で馬車に乗り込む。

 思えば、最後に一緒に馬車に乗ったのは、ミルドランド公爵邸で行われた夜会だった。

 あれから、随分時間が経ったような気がする。


 リオネルが、膝に置いたレリッサの手を握った。

 薬指に嵌めた、リオネルの瞳の色の指輪を指先で弄ぶ。


「良いよね、この習慣。君が俺の物だって、みんなに言いふらしてるみたいで」


 リオネルがレリッサの指先に口付ける。

 一本、一本、爪に唇が触れて、吐息がかかる。


「…リオン様」

「王宮に着くまで、少しだけ」


 リオネルがレリッサの身体を自分の膝の上に持ち上げた。

 下からレリッサを見上げて、妖しく微笑む。


「さっきの続き、しよ?」


 首の後ろを引かれて、くちづけられる。

 優しく唇を吸われて、吐息を吐いた隙に熱い舌が差し込まれた。


 わざと水音を立てて弄ばれる。

 甘美な声が自分の喉の奥から漏れるのが、ひどく恥ずかしい。

 息苦しくて逃げたいのに、首の後ろを押さえ込まれてかなわない。


 ガタンっと馬車が揺れた。

 揺れに合わせて、リオネルがさらに深く舌を差し入れて、レリッサの上顎を撫でた。


「ひゃぅ…」

「かわいい」


 リオネルは満足したように笑うと、ちゅっともう一度レリッサの唇にくちづけて、とろんと蕩けたレリッサの目尻をそっと親指の腹で撫でた。


「さっき、あそこで止めといて良かった。君のそんな顔、他に奴らには見せられないな」


 すごくグッとくる。


 そう言うと、リオネルはレリッサの髪を一房手にとって、唇を落とした。


「ほら、王宮だ」


 その声と共に、馬車が緩やかに速度を落とし始めた。

 リオネルがレリッサを膝の上から下ろしたのと、馬車の扉が開いたのとは同時だった。


 出迎えに出て来たセルリアンが、レリッサの顔をみて訝しげに首を傾げた。


「どうしたんだ、レリッサ。体調が悪いのか? 顔が赤いが…。心なしか、目にも力がないような…」

「い、いえっ。そう言うわけでは…」


 激しく口付けられて、息も絶え絶えです。なんて言えるわけがない。

 レリッサはリオネルの後ろに隠れるように、セルリアンから距離を取った。


 セルリアンは少し複雑そうな顔をした後、気持ちを切り替えるようにしてリオネルを見た。


「よく来たな。祖父が待っている」

「ああ…」


 兄弟が、久しぶりにちゃんと向き合った瞬間だった。

 レリッサはリオネルの肩越しに、二人の顔を見てみる。

 セルリアンはどこか寂しげに、リオネルは戸惑った顔で互いの顔を見つめている。


 二人の間に横たわる十九年の深い溝。

 それが、やすやすと取り払われる訳がない。

 こればかりは時間をかけなければ、どうにもならないのだ。


「こっちだ」


 セルリアンの先導で歩く道は、王族の居住スペースへと向かう道順だった。西側の棟に至る回廊を、無言で歩く。

 セルリアンのさらに前を歩くのは、近衛の兵士だ。


 あの晩、リオネルたちを襲った近衛は、数ヶ月前に軍でクーデターを起こそうと画策していた者たちだった。

 クーデターそのものは未然に防がれ、兵士たちは軍を除籍になっていた。意気消沈する彼らに声をかけたのが、ジング・リング・エヴァンだったのだ。

 ジングは彼らを使役魔法で操り、手駒としていたのだった。


 操られていた以上、兵士たちにこれ以上の罰は必要がない、とリオネルは不問に付した。おまけに、どうやら彼らの新しい就職先を斡旋してやるつもりのようだ、とパトリスが呆れながらレリッサに教えてくれた。


『面倒見が良すぎるのが、リオンの欠点だよ』


 と、今までも何度もその後始末に駆り出されてきた兄は言った。


 一方、ジング・リング・エヴァンは姿を消した。

 魔術師は、自らの主を決めるのも、その関係を切るのも、誰にも左右されない。常に自由なのだとは、ディートルの言だ。

 シンプトン宰相が屈した時点で、ジングが宰相に付き従うだけのメリットがなくなったのだろう。


 お抱えの魔術師を失った王宮は、すっかり色褪せて見えた。

 まばゆい輝きを放っていた金と銀の回廊は輝きを失っている。今は昼間なので見えないが、夜、幻想的な景色を作り出していた庭園の魔法の灯りも、もはや灯ることはないだろう。


「ここだ」


 セルリアンが、覚えのある部屋の前で立ち止まった。

 ノックをすると、年若い侍女が顔をのぞかせた。


「陛下に目通りを」


 セルリアンがそう告げると、侍女が一旦中に姿を消した。

 セルリアンはレリッサを振り返って、眉を下げた。


「祖父に付いていた女官は、皆、解任された。…全員、宰相の駒だったそうだよ」


 何かを悔いるように、セルリアンは唇を噛み締めている。

 扉が再び開いた。「どうぞ」と促され、国王の私室へと踏み入る。


 国王は、いつかと同じようにベッドに腰掛けていた。

 毒を身体に入れることがなくなったからだろうか、心なしか顔色が良く、骨と皮ばかりであった外見に、少し肉がついたように見えた。


「陛下、本日は――「よい」


 礼を取ろうと、スカートをつまみあげ腰を落とそうとしたレリッサを、国王が制止した。


「もはや余は…礼を取られるような立場にない」

「陛下…」


 国王は視線をレリッサから傍に立つリオネルへと移した。

 リオネルの琥珀色の瞳を、国王のアクアマリンの瞳が見つめ、そして瞼を震わせながら目を伏せた。


「…よく、似ておるの…」

「…父ですか。俺には、もうほとんど記憶がない」


 国王がサイドボードを指差した。


「セルリアン。そこの引き出しを」

「はい」


 かつて、つるぎがしまわれていたのとは別の引き出しを、セルリアンが引く。そちらは軋むことなく開いて、セルリアンが中からハンカチほどの大きさの絵を持って来た。額にも入っていない、キャンバスのままのものだ。


「これが、そなたの父である」

「…まぁ…」


 レリッサは思わずそう呟いて、口元に手を当てた。


 短く整えられた、黒く艶やかな髪。すっと通った鼻梁。優しい顔つき。唯一違うのは、その瞳の色。


 ハインツ・ディ・レ・スタッグランドの姿絵は、リオネルと瓜二つだった。

 胸より上を描いた物で、身長や体格などは分からない。けれどその分、ハインツ王子の顔の造作がよくわかった。


 国王は、おそらく今までに何度も眺めて来たであろうその姿絵を、優しく撫でた。


「自慢の息子であった。聡明で、優しく、勇敢で、間違ったことは見過ごせない性格だった。民のためになるならと、良く街に出向いて、民の仕事を手伝ったりなどもしていた。…『王』になるに相応しい人格者であったと、余は思う」


 慈愛を含んだ声色。国王がいかにハインツ王子を愛していたかが察せられた。

 国王が、姿絵から顔を上げてセルリアンを見た。


「セルリアン。余はそなたに謝らねばならぬ」


 セルリアンが驚きに目を瞬いた。


「この十九年間。そなたには、何もしてやらなんだ。…『王』として必要な心構えを教えることも、国を統べるに必要な知識をつけてやることも。余はそれすらも、すべて宰相任せであった…」

「陛下…」


 セルリアンが首を横に振る。


「いいえ。私が、学ぼうとしなかったのです。安穏と日々を生きて、王宮の外に目を向けることはほとんどなかった。私は、ずっと同じ生活が続くと思っていました。日がな一日絵を描いて、時たま宰相が持ってくる書類に印章を押す。そんな生活が、『王』になっても、ずっと…」


 セルリアンは一旦目を伏せた。

 痛みを堪えるように瞼を震わせると、目を開いてリオネルを見据えた。


「私は、王位継承権を放棄する。…陛下と話し合って決めたことだ」


 レリッサとリオネルは顔を見合わせた。

 次代の『王』については、よくよく話し合わなければならないと、今日はそのつもりで王宮に来ていた。

 まさか、セルリアンの方からそんな話が出るとは思っていなかった。


 セルリアンはどこか自虐的な笑みを浮かべた。


「私は、宰相が持ってくる書類を読んでも、そこに書かれてある内容がどういうことなのか、まるで分からなかった。分からないが、大臣たちが作ってくる書類だ。特に問題はないのだろうと、良く考えず印章を押していたのだ」


 それは、とても恐ろしいことだった。

 今回の国王の書状のように、国の行く先を左右するような重大な内容だったとしたら…と考えると寒気がする。

 実際いくつかは、宰相が自分の良いように采配した執務もあったことだろう。


「王族としての心構えも、国の実情への理解も、内政を動かす知識も。リオネル、お前に比べて、私は何もかもが足りない」


 セルリアンがリオネルを優しげに見つめた。


「私たちを隔てた十九年。私が安穏と暮らしている間に、お前は、『王』に相応しい資質を備えて帰ってきた。…良く戻ってきたな、リオネル。…自分を棚にあげるようで恥ずかしいが、お前を誇りに思う。お前は良い『王』になるだろう」


 リオネルが口を開きかけて、閉じた。

 兄としてリオネルに声を掛けるセルリアンに、どういう立場で答えれば良いのか迷ったのかもしれないと、レリッサはおもんばかった。


「それに伴い、余も退位することにした」


 レリッサは国王に視線を戻した。

 国王はあまりにあっさりとした口調でそう言うと、寄り添いあって立つリオネルとレリッサを見上げた。


「リオネル。お前に王位を譲位する。…しばし王太子不在となるが…、そなたらであれば、すぐにその問題も解決するであろうな」


 それは、どこか茶目っ気の感じられる目つきだった。

 にやりとその口元が笑んだ気がして、レリッサは頰を染めた。


 レリッサの手が、リオネルにすくわれる。

 ぎゅっとレリッサの手を握って、リオネルは国王を見据えた。


「必ず約束する。スタッグランド王家を繁栄させてみせる。国を今よりも豊かに。民が過ごしやすいと思える国を造ると」


 国王が静かに頷いた。それは、威厳を感じさせる深い頷きだった。


「余は、リオネルと二人で話がある」


 そう言われて、レリッサとセルリアンは王の私室を出た。

 一際内装の豪華な回廊は、いつか来た時よりも、ずっと親しみを覚える空間になっていた。


 セルリアンと二人、どこか気まずい空気を感じながらレリッサはその顔を見上げる。

 涼やかなその瞳が、悲しそうに揺らめいている。


「…不思議だな。どうしてか、貴女を見ていると胸が苦しくなる」

「…セルリアン様」


 セルリアンはぎゅっと胸の上を握ると、顔を伏せた。


「とても大切にしたいのに、そうしてはいけないと言われているようだ。貴女に手を伸ばすことも、今はもう、なぜだかできない」


 レリッサは、庭園のお茶会で、レリッサに手を差し伸べたセルリアンを思い出す。

 ためらいなく手を握り、レリッサを連れて回廊を歩くその後ろ姿も。


「教えてくれ」


 セルリアンが顔を上げる。

 苦しげに歪んだ表情に、レリッサまで胸が苦しくなる。


「この感情はなんだ? 私は、ずっと王宮にいて、人との関わりをほとんど持ってこなかった。だから知らない。貴女のことで頭がいっぱいで、貴女の笑顔を思い出すととても心が温かくなる。いつも笑っていて欲しいと願い、貴女を悲しませるものがあるなら、その全てを排除したいと思う。貴女に触れたいし、触れて欲しい。貴女の夢を見て、夢の中で貴女に触れる。…この感情を、貴女なら知っているのか?」


 それはあまりに赤裸々な告白で。

 それを、きっと人は、恋、と呼ぶ。


 だが彼は、この感情につける名前を知らない。

 そして、知ったとて、レリッサには応えることはできない。


 胸が苦しい。

 この人を、どうにか傷つけず、この場を収められないか。そんなずるいことばかりが頭をよぎる。


「セルリアン様」


 レリッサはきゅっと唇を引き結んで、彼の名を呼んだ。


「そのお気持ちを、とても嬉しく思います。とても…。ですが、私が同じ感情をセルリアン様に抱くことはありません。…私が笑顔を願い、涙を憂い、触れたいと欲を持ち、触れて欲しいと乞うのは、いつもリオン様だけなのです」


 セルリアンが、はっきりと傷ついた顔をした。

 胸が痛む。


「私は、その感情に付ける名を知っています。ですがセルリアン様。その名は、自分でお探しください。王宮の外に出て、たくさんの人と出会い、言葉を交わして、いろんな景色を見て、いろんな風を感じて。そうすればおのずと、その名に出会うでしょう。…それは人の営みの中にこそ、存在する感情です」


 この狭い空間の中で、ずっと羽を折りたたんで生きてきた鳥。

 自由を渇望しながら、羽をどう広げるのかすら知らない。


 レリッサは、スカートの縫い目から丁寧に折りたたんだスカーフを取り出した。

 それはいつかの夜会で、セルリアンがレリッサの頰を拭ってくれたスカーフだ。


「お返しします。その節はありがとうございました」

「…これを、せめて貴女の側に…そう願うことも、許されないのだろうか…」


 レリッサは首を横に振って答えた。

 セルリアンがおずおずと手を出して、そして、ぎゅっとスカーフを握りしめた。


「話は終わった?」


 国王の私室の扉が開いて、リオネルが顔を出した。

 リオネルはレリッサの横に立つと、レリッサの肩を抱いた。

 そしてスカーフを握りしめるセルリアンを見つめると、細く、小さく息を吐いた。


「兄上」


 はっとセルリアンが顔を上げる。

 セルリアンの瞳と、リオネルの瞳が交錯する。


「この国を、必ず立て直す。彼女と一緒に。だけど、十九年止まっていた国の時間を進めるのは、決して簡単な道じゃない。だから、時には力を借りることもあると思う」


 リオネルは、もう一度息を吐いて、レリッサの肩を抱く手に力を込めた。


「…俺たちの時間も、少しずつまた動き出せたら…そう思ってる」

「リオネル…」


 セルリアンの目が大きく見開かれる。

 リオネルがふっと笑った。


「また会いに来るよ。その時は、酒でも飲もう」

「…ああ。そうだな」


 待ってるよ、とセルリアンは言って。

 レリッサとリオネルは、セルリアンに背を向けて廊下を歩き出した。


 来た道を戻り、回廊を渡り王宮を出る。

 待たせていた馬車に乗り込むと、リオネルは御者席につながる小さな扉を開いて、「軍の宿舎へ」と告げた。


「屋敷へは戻らないのですか?」


 不思議に思って尋ねたレリッサの手をリオネルは握って、その甲に口付けてから言った。


「“触れたいと欲を持ち、触れて欲しいと乞うのは、いつもリオン様だけなのです”」


 それは、先ほど、レリッサがセルリアンに告げた言葉だ。


「…っ聞いて…っ!?」


 リオネルがレリッサの腰を抱き寄せ、するりと頰を撫でた。

 薄い茶色の髪に指を絡ませて、口付ける。


「君が触れたいと願うなら、いくらでも触れてくれていい。…さて、君は、俺になんて乞うてくれるの?」


 それは琥珀色の、蠱惑的な輝き。


「…意地悪ですわ…っ」


 けれどその瞳の輝きからは、絶対に逃れられない。

 レリッサは真っ赤になりながら、リオネルの唇に小さく口付けた。


「…どうか、私に触れてくださいませ」

「覚悟しといて」


 ひとまず降ってくるのは雨。

 その心地よさに、レリッサはそっと目を閉じた。


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