40. レリッサと不穏5

「はい、休憩」


 大きな砂時計をひっくり返して、ディートルが言った。

 サロンの隅で、床に座り込んで瞑想をしていたサマンサが、ゆるりと瞼を上げて小さく息を吐いた。


「なんか、ちょっと短く感じるようになってきたかも」

「良い傾向だね。それがだんだん一瞬に感じるようになってきて、気づけば数時間があっという間に過ぎてるもんさ。過去に、丸々三日瞑想をしていて、時間が経ったことに全く気づかないで、自分の結婚式をすっぽかしたって言う魔術師がいたよ」

「それは、さぞ婚約者は怒ったでしょうね」


 椅子からサマンサの瞑想を見守っていたホーリィが、肘掛けにもたれ掛かりながら言った。

 ところがディートルがニヤリと笑う。


「それが、相手の婚約者も瞑想をしていて、こっちは丸々一週間。そのうちに、招待客も瞑想をし始めて、すべての招待客が瞑想を終えるまでの一ヶ月間、一向に結婚式が開かれなかった。…って言う笑い話だよ」

「…それ、笑い話なの?」


 魔術師の笑いは分からないわ、とホーリィは呆れた顔をした。


 国のどこかで戦争をしていても、当たり前に朝が来て、昼になり、やがて陽は沈む。お腹が空けば食事をして、夜が来て眠る。

 王都の生活は、不思議なほどにいつも通りだった。


 新聞には、小さな見出しで、『国境軍とテルミツィア軍衝突 ミルドランド領で』と載ったくらいで、その戦況を気にする者は、王都にはほとんどいない。

 レリッサは外に出ないから分からないが、買い物に出たマリアが、驚くほど変わらない日常だと、半ば嘆くように教えてくれた。


 けれどそれは毎度のことで、ディートルに指摘されたからこそ、レリッサもそれがおかしなことだと気づいただけで、そうでなければ気にしなかったに違いない。

 王都は、当たり前に平和そのもののように思えた。


「もうすぐ夕食だね」


 今日のメニューは何かな、とディートルが窓の外の、陽の落ち具合を確認しながら呟いた。

 外は夕焼け空で、窓の外が茜色に染まっている。


 この茜色を、リオネルも見ているだろうか。

 ふとそんなことを思う。


 怪我をしていなければ良い。

 どうか無事であって欲しい。


 どれだけ願っても、心の中に重苦しい焦燥が付きまとう。


 レリッサは小さくため息をついて、サロンを出た。

 夕食の前に、一度自室に戻って本を置いてくるつもりだった。

 レリッサがサロンの扉を閉じると同時に、玄関の扉が開いた。ダンが、深いため息をつきながら中に入ってきた。


「ダン。どうしたの?」


 ひどく表情が疲れているように見えた。

 ダンはレリッサに目を留めると、疲れを隠すように微笑んで「いいえ」と首を横に振った。


「お嬢様が気になさるようなことは、何もございませんよ」

「でも疲れているように見えるわ。もし体調が悪いなら休んでちょうだい」

「とんでもない」


 ダンが慌てて首を横に振る。


「本当に大したことはございません」


 胸元から時計を取り出して、「ああ」とダンは眉を上げた。


「しまった。こんな時間だ。食堂のセッティングをしに行かなくては」


 では、後ほど。と、ダンはレリッサの横をすり抜けて食堂へ入っていく。

 レリッサは首を傾げて、その後ろ姿を見送った。



**********



 パチパチと火が爆ぜる。

 リオネルは横顔を薪から立ち上る炎に照らされながら、目の前で地面に付して頭を下げる将校の後頭部を見下ろしていた。


「申し訳ございません。軍支部を奪われましたこと、すべて私の不徳の致すところ。かくなる上は命に代えましても、奪還してご覧にいれます」


 彼は、国境軍を任せていた隊長だった。

 ミルドランド領に置いていた国境軍の拠点である軍の支部は、すでにテルミツィアに占拠されている。それはつまり、ミルドランドの領都を含む多くの土地が、テルミツィアの支配下にあるということを示していた。


 昼間の戦いは、陽が落ちると共に停戦となった。

 また明日の日の出と共に、戦いは始まる。

 それまでの僅かな時間。今は現状を把握することが最優先だった。


 リオネルは嘆息すると、用意された簡易の椅子の上で足を組み替えた。

 それをどう勘違いしたのか、目の前で頭を下げ続ける将校がびくりと肩を揺らす。


「ただの建物に、命に代えるほどの価値なんてない。支部の奪還より、領民の保護が最優先だ。そのつもりで」

「はっ」

「話は以上だ」


 リオネルが暗に退席を求めると、将校はようやく顔を上げ、そろそろと去っていった。


「将軍」

「は」


 横に控えていた将軍が答える。

 リオネルは肘掛に肘をつきながら、「どう思う」と声を掛けた。


 ミルドランドは西側の領地の中でも北に位置する。夜は地面から冷気が立ち上り、燃え盛る薪をもってしても、少し離れてしまえば凍えるような寒さだ。

 軍服の上に防寒用の外套を着込んだ将軍が、顎を撫でた。


「妙ですな」

「…国王の書状…か」


 先ほどの将校は、命令にない攻撃に対する叱責をしたリオネルに、答えて言った。

『国王の勅命』だったと。

 それは、国境軍に直接届けられ、その勅命を元に、国境軍はテルミツィア側に攻撃を仕掛けた。

 だがその書状は今や、テルミツィアに占拠された軍支部の中にある。


「欲しいな。その書状」


 果たして本物だったのか。それも含めて精査する必要があった。


「将軍。エメリア嬢を」

「呼んで参ります」


 下級士官の列に加わっているエメリアは、すぐにリオネルのいる本陣の天幕まで馬でやってきた。


「お呼びですか、閣下」


 この凍てつく寒さの中、防寒用の外套を着ていてもスマートに見えるのはさすがだった。

 エメリアは、寒さなど感じないという顔をして、優雅に微笑んでいる。


「君に頼みたいことがある。ミルドランドの領都にエドが潜伏している。合流して欲しい」

「…それは戦場を離れろということですか」


 エメリアが不服という顔をして、顔を顰めた。

 その表情に、リオネルは苦笑いをする。


「そう言うな。こっちも重要な仕事だ」

「閣下はお前を信用して、重要な任務をお与えになっているのだ」


 将軍が後押しをする。

 エメリアは大人しく頭を下げた。




 かくして、エメリアはミルドランドの領都にいる。

 すでにテルミツィアの支配下にある領都は、普段の活気が薄れ、平日の朝だというのに市場も立たずに、広場はがらんとしている。いや、それともテルミツィアの支配が始まる前から、ここはこう言う様子だったのかもしれない。

 広場の中央の、すっかり水の枯れ果てた噴水を見ながら思う。

 人通りも少なく、人々はどこか早足で人目を避けるように過ぎ去っていく。


 エメリアは領都の中心にある円形の広場の一角、カフェのテラス席に腰掛けた。

 手にはコーヒーのカップ一つ。

 普段、軍服に身を包むエメリアは、今日は裾の長いシンプルな印象の濃緑のワンピースに、焦げ茶色の外套。頭にはボンネット帽。普段、せいぜい後ろで一つ括りにするだけの髪を、今日は結い上げてまとめてある。

 ばっちり化粧を施せば、どこかの貴婦人の出来上がりだった。


 エメリアの肩を、とんとんと指で叩く者があった。


「お姉さん美人だね。一緒にどう?」


 エメリアは振り返りもせず、無言でその指を握った。そして本来曲がるべきでない方に、躊躇いなく曲げる。


「いっででででっ! ちょ、タンマ、タンマ!」


 バシバシとエメリアの背中を叩いて、ようやく解放された指を振っていたのは、エドだった。


「戯れが過ぎますよ、レイン殿」

「…軽い冗談だったんだけどなぁ…」


 エドは指を労わりながら、涙目でしょんぼりとしている。

 エメリアは目の前の席を、視線で指し示した。


「どうぞ」

「どうも。…わー。やっぱ化粧して女性らしいカッコすると、めっちゃ綺麗だね。ちょーマブい。俺、好みかも。これからはお姉様って呼ぶね、俺」


 ほーっと、エドが感心したように頷いている。

 エメリアは大きくため息をついて、コーヒーのカップを持ち上げた。


「レイン殿。デリカシーがない、と言われたことは?」

「えっと、お姉様の妹に、よく」

「そういうところですよ」


 さすがにホーリィに同情してしまう。

 エメリアはコーヒーをこくんと一口飲むと、カップを下ろした。


「本題ですが」

「はいはい」


 エドは自分が持っていたカップを置いて、ゆったりと足を組んで見せた。

 それはどういう態度だと、エメリアが訝しげにしていると、エドが笑う。


「談笑してる風じゃないとね? そんなに真剣な顔で話していたら、別れ話でもしてるのかと勘違いされるよ」

「…私は、それで一向に構いませんが」

「固いなぁ」


 エドの苦笑いを、エメリアはスルーして、すっとテーブルの上に手を滑らせた。

 そして、エメリアが手を引くと、テーブルの上には小さな皮袋があった。エメリアの手のひらに収まるような、小さなものだ。


「閣下からです」

「なるほど?」


 エドが中身を確認する。そしてもう一度「なるほどね」と頷いた。




 エドの仕事は、軍支部に潜入して、王の書状を取ってくること。

 軍支部の奪還は、後からリオネルたちがやるだろう。だから今は、書状だけを取ってくれば良い。

 だがそれが、難易度の高い要求であることは、疑いようもなかった。


「そこでこれの出番、ってね」


 エドは皮袋を取り出した。


 軍支部はミルドランドの領都の端にある。

 領都の中心部から繋がる通りを歩いていけば、やがて並木道に出て、軍の支部に繋がって行く。

 今、エドとエメリアは、並木道の入り口に立っていた。

 見渡す限り人はいない。


「それはなんです?」


 リオネルから託されたものの、中身が何なのか、エメリアは知らないのだろう。皮袋を覗き込んでくる。

 エドは皮袋の口を開けて、中身を手の平に出した。コロンと転がってきたのは、麦一粒ほどの大きさのクリスタルだった。玉虫色に輝いている。


 これは、ディートルの魔力を封じ込めたクリスタルだ。

 以前に、サマンサの魔力を封じたクリスタルに比べて格段に小さいが、それでも十分な魔力が封じられている。


「これを、こうする」


 エドはクリスタルに爪を立てた。

 すると、パキンッと音を立てて割れた。

 光がエドを包む。


「…レイン…殿?」


 光が晴れた頃、エメリアが戸惑った表情でエドを見ていた。

 エドは自分の手を見てみる。心なしか、本来の自分の色よりも濃い。服の袖は、灰色の軍服に変わっている。


「俺、どうなってる?」

「…別人です。それに、それはテルミツィアの軍服だ」


 エメリアが下げていたバッグから手鏡を取り出して、エドに見せた。

 鏡に映ったエドは、顔の造りは元のエドのままながら、今や髪は黒く、瞳はグレーになっていた。


「はぁ…そういうことね。存在不認識の魔法にしてくれりゃ良いのに…」


 エドは顔を撫でながら、眉間に皺を寄せる。


 ディートルは少し先の未来を読む。

 この時、この場面で、どういう魔法が最も効力を発揮するか予見して、リオネルにあらかじめ持たせてあったのだろう。


『姿は変えてやるから、さっさと書状を取ってこい』ということだ。


 初めからエドに持たせておいてくれれば良かったのに、とか、姿を変えるくらいなら姿を見えなくする魔法の方が良かったとか、色々と思うところはあるが、ディートルなりに理由があるのだろう。

 エドも、リオネルを介して、ディートルとの付き合いはそれなりに長い。何となくディートルの考えもわかる気がした。


「それじゃ、俺行ってくるから」

「お気をつけて」


 エメリアに見送られて、エドは並木道を歩き出した。

 少し歩けばすぐに軍支部の入り口が見えてくる。入り口にはテルミツィアの兵士が立っていて、門番をしていた。


「ご苦労様です」


 門番がエドに向かって敬礼をする。その敬礼を見よう見まねで返しながら、エドは門番の横をすり抜けた。


 エドは以前にもミルドランドの軍支部には来たことがある。その時の記憶を頼りに、支部の奥へと入って行く。

 途中、テルミツィアの兵士とすれ違ったものの誰もエドを気にも留めない。支部の中はがらんとしていて、兵士の大半が戦場に出ているのだろうと思われた。


(それは好都合…)


 さっさと仕事は終わらせてしまうに限る。


 国王の書状ということは、ポンとその辺においてあるはずがない。

 どこか大切に保管されているはずで、そうなると支部の奥、隊長が使用する作戦室がその最有力だった。


 作戦室の中は無人だった。

 テルミツィアの兵士がここを作戦室として使ったのか、ミルドランドの地図がテーブルに広げられている。地図の上には、兵士を見立てた駒が散らばっていた。

 喧々諤々けんけんがくがくの議論が成されたらしい痕跡を横目に見ながら、エドは部屋の奥の文机に近づいた。


 引き出しを引いてみる。

 中身は大半が書類だった。乱雑に入れ込まれていて、皺が寄り、端が折れている。どうにもこの机の持ち主は整理整頓が苦手なようだ。


(ここじゃないか)


 そうなると、どこか。

 部屋の中に、金庫らしきものもない。


 考え込んでいると、作戦室の外が騒がしくなった。

 足音が聞こえてくる。それも一つではない。


(やべ。戻ってきたか…?)


 エドがここにいることを知られるのはまずい。

 時間はなかった。


(どこだ。どこだ…)


 部屋の中を見回す。


『エド、気をつけなよ』


 ディートルの声が頭に響いた。それは、出発前にラローザ邸で告げられた言葉だ。


『見えないところに潜んでる』


「見えないところ…」


 勘が働いた。

 サイドボードに近づく。そこにかかったスタッグランド王国の紋章を模したタペストリー。それをめくる。


「みぃつけた」


 にや、とエドは笑う。

 そこにあったのは、まさに、ザ・金庫だった。

 ポケットから針金を出し、錠前に差し込む。これはかつて下町で、底辺の生活をしていた時に身につけた、エドの持つ数少ない技術だ。


 ピンッと針金が跳ねて、鍵が開く。


「こんな簡単で良いのかね」


 リオネルには、もう少し軍の金庫の管理を見直した方がいいと後で進言しておこう。

 それはともかく、今のエドには簡単であるのはありがたいことだった。

 早速金庫を開けば、中には書類がいくつかと、その上に、後生大事に盆に載せられた書状があった。

 中身を開き、国王の印章が確かにあることを確認して、エドはそれを胸元にしまう。


 足音は次第にこちらに近づいてくる。

 作戦室までは一本道。ここから出ても、鉢合わせする。

 エドは咄嗟に、ポケットに入っている手ぬぐいを取り出した。


 エドが窓に手をかけ、その透明な表面に手ぬぐいを滑らせたのと、扉が開いたのとは同時だった。


「あ、ご苦労様でーす」


 エドは窓を一面拭き終えてから、後ろを振り返った。

 そこにはテルミツィアの軍人が数人立っていた。彼らは窓を拭いているエドに怪訝な表情をしたものの、エドが何者であるか、までは疑問に思わなかったらしい。


「掃除はもう良い。この部屋をしばらく使う。出て行け」

「承知しましたぁ」


 エドはにこりと笑って、部屋を出る。

 後ろ手に、ぱたんと作戦室の扉を閉めた。


「出て行けって? 喜んで」


 ニヤリと笑って、エドは意気揚々と支部を出る。

 誰もエドを呼び止める者はいない。

 髪と目の色が変わリ、テルミツィアの軍服を着ているから。それだけじゃない。それは元々の、エドの特性によるものだ。

 誰も、エドに目を留めない。誰も、エドには気づかない。


「レイン殿!」


 並木道を戻って行くと、木の陰に隠れていたエメリアがエドの姿を見つけて出てきた。

 その瞬間、役目は終わったとばかり、光が再びエドを包んで、消えていった。

 容貌が元に戻ったことを、エメリアの安堵した表情でエドは悟る。


「手に入れたよ。国王の書状」


 エドは胸元から書状を取り出して、ひらりと振った。




 リオネルは戦いの真ん中にいた。

 戦いは騎馬戦で、テルミツィアの兵士が馬上から剣を振ってくるのを躱し、その横腹を剣で薙ぐ。すると兵士が馬から落ちて、後からやってきた馬に踏まれて見えなくなった。


 次から次へとテルミツィアの兵士が湧いて出てくる。

 剣を振り続けてどれほどの時間が経ったのか。


 妙だな、と思い始める。

 敵の兵士が、リオネルを一直線に目指してやって来る。


 敵の大将の首を取れば勝ち。

 それは確かに一発逆転を狙うなら有効な戦い方だったが、同時に勝率の低い方法でもある。

 戦いの基本は、敵の勢力を削ぎ落として行くことにある。

 だがテルミツィアの兵士は、スタッグランドの他の兵士には目もくれずリオネルに向かってきて、結果、リオネルに斬られるか、横からやってくるスタッグランドの兵士に斬られるかで、今や敗勢だった。


 それでも、戦いをやめない。


(最後の一人まで戦い続けるつもりか)


 とっくに雌雄は決している。

 リオネルたち援軍が来た時点で、兵力の差は逆転していて、テルミツィアに勝算はなかった。


「閣下!」


 どうにも戦場では浮きがちな、女性の声がリオネルを呼んだ。

 敵を蹴散らしながら、リオネルへとまっすぐに進んでくるのはエメリアだ。


「閣下」


 エメリアがリオネルの横に馬を並ばせた。

 剣を振るいながら、何事か話しかけようとしてくるのを、リオネルは目線で制する。

 言われなくても、彼女の姿を見れば、エドの仕事が終わっているのだと分かった。


「少し離れていると良い」


 リオネルは剣を強く振って、剣身に滴っていた血を払い落とした。

 リオネルの空気が変わったことに気づいて、エメリアが顔をわずかに引きつらせて距離を取った。


「全部終わらせる」


 これ以上の戦いは無意味だった。



**********



 陽が沈み、程なくすると王都ではまた大粒の雪が降り始めた。

 こんなに雪が降ることは珍しいことで、サマンサとライアンは窓に張り付いて雪が天から降ってくるのを窓ガラス越しに眺めている。


「また積もりそうね…。アイザック、貴方、今日は泊まっていったら?」


 レリッサは、パトリスと酒を酌み交わしているアイザックにそう声を掛けた。

 彼の勤務時間はすでに終わっているのだが、パトリスが酒を飲もうと引き留めたのだ。


「あぁ…いや…」

「良いじゃないか」


 アイザックがなんとも言えない表情で断ろうとしたのを、パトリスが遮った。


「こんな寒さだし、雪の中宿舎に戻るのは大変だろ? うちは部屋も余ってるから、泊まって行くと良いよ」


 パトリスは、酒が入って機嫌が良い。

 アイザックの肩を叩いて、「な、そうしよう」と笑っている。


「じゃあ…今晩だけ」

「決まりだ」


 さ、まだ飲むぞ、とパトリスがアイザックのグラスに酒を注ぎ足す。

 レリッサがそれを苦笑いと共に見守っていると、サロンの外でバタバタと足音がした。


「…何かしら」


 ホーリィが、新しいドレスを作るのに眺めていたレースの台帳から顔を上げた。


 夕食が終わり、使用人たちも夜番の者をのぞいて部屋に戻って行く時間だった。

 それにしても、足音が多い。よく躾けられたラローザ家の使用人たちは、普段足音を立てない。それなのに、今はサロンの中に響くほどの足音を、何人もが立てている。


 レリッサたちは顔を見合わせて、全員が席を立った。

 そしてサロンから顔を出す。


「みんな、どうしたの?」


 サロンの外では、使用人たちがこぞって、玄関の外へと駆け出していた。

 ひどく慌てた様子で、ストールや外套を身体に巻きつけて出て行く。


 サマンサの問いに応えたのは、小太りの料理長だった。


「お嬢様方! 絶対に出てこないでください!」


 そう言うと、料理長もまた玄関を出て行く。

 どう考えてもおかしい。


「見てくる」


 アイザックがレリッサたちの横をすり抜け、玄関の扉を開けた。

 そして立ち尽くす。


「アイザック? どうしたの?」

「ねぇ、なんなの?」


 サロンの暖炉のそばでうとうとしていたディートルも、レリッサたちの間を抜けて、アイザックの横に並んだ。

 そして、また立ち尽くす。


 レリッサたちは顔を見合わせた。

 そしてアイザックとディートルの横に並ぶと、その顔を見上げた。


 アイザックは唖然とした顔をしていた。


「…なんだ、あれは」


 パトリスの発する、愕然とした声。

 レリッサはそれにつられて、アイザックとパトリスの肩の間から、玄関の外を見た。


 ラローザ邸の大きな格子の門を、使用人たちが必死に押さえている。

 後から来た使用人たちが、次々と押さえる列に加わって行く。

 その門の向こう。


 人がたくさんいる。

 人が門に群がり、力づくで門を開けようとしていた。


「アイザック…あれって…」


 レリッサはアイザックに同意を求めるように、横顔を見上げた。


「ああ…」


 アイザックがこわばった顔で頷いた。


 門の向こう。

 ラローザ邸の門を開けようとしていたのは、王都の郊外に貧民街を築いていた貧民たちだった。


「門を開けろ!」

「食料を出せ!」

「俺たちから散々略奪しておいて、見て見ぬ振りをするつもりか!」

「開けろ!」

「開けろ!」


 声がこだまする。

 開けろ。その声が、あたり一帯に響いていた。



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