39. レリッサと不穏4

 戦地に向かって馬を進める。休憩を最小限に減らし、どれだけ気が急いたとしても、隊列を取って進む行列は、単騎で向かう時に比べて格段に足が重くなる。

 ジリジリと戦地へとはやる気持ちを飲み込みながら、セドリックは馬上からあたりを見回した。


(まさか、ここまでとは…)


 すでにミルドランド領を目前としているはずだった。

 以前に訪れた際には、家畜を放牧し草を食わせる酪農家などがいたはずだったが、家畜のための小屋は壊れ、すでに家畜はおらず、その近くに建てられた家もまた、荒れ果てて長く人がいないのが見て取れた。

 そう言う家が、何軒もある。


 リオネルの命令で三十四領を見て回ったと言う息子が、そのあまりの荒廃ぶりを嘆いていたが、それも無理もないと言うほどの荒れ具合。


 貧しさ故に、家畜に食わせる餌が用意できず、そのうちに家人の口に入るものもなくなり、やむなく家畜を食ったのか。あるいは、食わせてやることができぬならと、せめて家畜を放したのか…。

 どちらにせよ、収入源を失えば尚のこと飢える。


 あの家の家人は、今頃どうしているだろう。

 また荒れ果てた家を見つけて、セドリックは思いを馳せる。


 せめて生きていれば良い。だが、飢えて死しているならば、これほど悲惨なことはない。


 セドリックは、斜め前を行くリオネルの横顔を見る。

 彼はまっすぐと前を見据えている。

 だがその、手綱を掴む手が、固く、強く握られて、僅かに震えている。


いかっておられるのか…)


 それを必死に押し殺し、前を向いている。

 冷静さを保ちながら、沸き起こる怒りを身体の内で昇華していく。


(あの若さで、なかなかできることではない…)


 セドリックは目を細めた。


 不意に前方から、馬の駆ける音が聞こえてきた。

 まもなく、点のようであった人影が次第に大きくなり、セドリックたちの前に現れた。

 この先の状況を掴むために差し向けられていた斥候だった。


「申し上げます! ここから少し先で、我がスタッグランド西方国境軍と、テルミツィア軍との衝突を確認致しました」


 ざわりと、共に話を聞いていた将校たちがざわめく。


「距離は?」


 リオネルが尋ねた。


「早馬で十五分ほどかと」

「そうか。…将軍」

「は」


 リオネルがその琥珀色の瞳に、今日は冷たい輝きを灯しながらセドリックを見た。

 腰に佩いた剣に手を置く。


「少し蹴散らしてくる」

「…お気をつけて」


 理想を言えば、全員で行くのが良いに決まっている。

 だが今まさに戦っている仲間がいると知って、彼が待っていられるはずがなかった。


 セドリックは、隣に並ぶ将官たちに目線で合図を送る。

 駆け出したリオネルの後に、数騎が続いて馬を全速力で駆けさせて去っていく。いずれも、速攻に向く戦い方をする兵士たちだ。リオネルの補佐として、セドリックが出発前から選抜しておいた面子だった。


 リオネルの背中は、すでに視界に収まるぎりぎり向こうにあった。

 彼の黒いマントがはためいて、やがて見えなくなった。



**********



 黒い穿撃せんげき

 死を呼ぶ風。

 あるいは、スタッグランドの『黒死鳥』


「どれもリオンの二つ名だけど、一番有名なのは、『黒死鳥』だね。元々は、死を告げる鳥と書いて『告死鳥』だったのが、リオンの黒いマントが踊るように舞うことから、いつの間にか『黒死鳥』と表記されるようになった。――ねぇ、本当に知らないわけ?」


 ディートルが、怪訝な顔をして首を傾げた。

 いつの間にか恒例になってしまった、サロンでの団欒。

 すっかり定位置になった暖炉のそばに、ゆったりとした安楽椅子を出現させて、ディートルはその上に膝を抱え込みながら座って、魔術の本を開いている。


 それを囲むように、レリッサとホーリィ、サマンサとライアンが座っている。

 レリッサの斜め後ろにはアイザックがいて、彼もまたダンが気を使って持ってきた簡易の椅子に腰掛けて話を聞いていた。


「さぁ…」


 レリッサたちは顔を見合わせる。

 その様子を後ろから眺めていたアイザックが、小さくため息をついた。


「スタッグランドでは、軍の活躍はほとんど新聞にも載らない。勝ったか負けたか、その程度で、誰がどんな戦功をあげ、誰が勝利に導いたのか、国民は誰一人知らない」

「…言われてみればそうね」


 幼い頃から新聞を毎朝読んでいるレリッサは、今までそれを疑問に思ったことがなかった。

 父親を送り出しているとは言え、やはり戦地は遠い場所で、想像もしにくい。そうなると、最低限の情報でも事足りてしまうのだ。


 ディートルは、信じられないと言いたげに「嘘でしょ」と言った。


「ねぇ、どうなってんの、この国? 他国じゃ普通だよ? っていうか、他国でリオンってすごい有名人なんだけど?」

「…有名人?」


 これまた、レリッサたちが顔を見合わせたことに、ディートルは苛立たしげに開いていた魔術の本を閉じた。


「君たちさ、自分たちが誰のおかげで他国の侵略を受けずに、今までのほほんと過ごしていられてるか、考えたことないわけ? ここ数年は、ぜーんぶリオンのおかげなわけ。あの人が現れてから、スタッグランドの戦術は巧みになって、スタッグランドの被害は最小限なのに、攻め入った方は最大限の被害を負って追い返される。そうなると、誰もスタッグランドを攻めようって思わないよね? だって、攻め込んだって、どうせ負けて、手酷い痛手を食うわけだから。リオンは、軍師として超優秀なんだよ。それだけじゃなくて、あの人、いつも最前線で戦うから。あの人が出てくると戦況が一気にスタッグランドに傾くから、他国じゃ一目も二目も置かれてる。…ねぇ、ほんっとうに知らないわけ?」


 ディートルはものすごい勢いでまくし立てた後、もう一度同じ言葉を繰り返した。


 その勢いに、ぽかんとサマンサとライアンが顔を見合わせて、それから苦笑いをした。


「とにかくディートルがリオン義兄さんを、すっごく好きなのはよく分かったよ」

「いつもリオン義兄様がいるときは、しれっとしてるのに〜。デレちゃって」


 にやにやと笑う双子に、ディートルが鼻の頭に皺を寄せる。


「うるさいな。僕は君たちがあんまり無知だから、教えてやってるだけだよ。それに、こうしてリオンについてきてるわけだから、僕がリオンをどう思ってるかなんて、わざわざ口にしなくたって分かるでしょ」


 ふんっと顔を背けるディートルは、その見た目と相まって、とても可愛らしい。


「ディートル殿の言うことは、俺にも分かる」


 アイザックが口を開いた。


「閣下の強さは圧倒的だ。剣を持つものなら、誰だってあの人に憧れる」

「ふぅん。そういうものなのね…」


 よく分からないわ、とホーリィが髪の毛をいじりながら言う。

 レリッサやホーリィには、想像のし難い話だった。

「とにかく」とディートルは話の流れを戻そうとした。


「だからこそ、こんな時期に戦争になるなんて、おかしな話だって話さ。きっと今回もスタッグランドが勝つよ。テルミツィアは、かつては軍事強国だったけど、今はそうでもないからね」


 リオネルたちが王都を発ってから、数日が過ぎた。

 そろそろ戦場に到達しているだろうか。そんな話からの流れだった。


「だいたい、テルミツィアの反応も早過ぎるんだよ。こっちが攻め込んでから二日後には抗議文が届いてる。ってことは、攻め込まれてすぐに出してるってことだ」

「…テルミツィア側は、こちらに攻め込む用意があることを、事前に知っていたのでしょうか…」


 レリッサは考え込みながら言った。

 勝手に西の国境軍が攻め込んだ事と言い、テルミツィアの反応と言い、どうにも妙だった。

 他国に密偵を放つと言うのは珍しい話ではない。昨今は、軍事的な機能は国家間でそれほど差がないだけに、どうしても情報が物を言う。

 エドが言った『戦うだけが戦争じゃない』と言うのは、まさにそう言う事だ。


「さぁね。こればっかりは、エド次第だね」

「エド?」


 どうしてここでエドの名前が、とホーリィが頬杖をついていた手から顔を上げた。


「エドはミルドランドに情報を得に行った。戦場で得られる情報なんてほとんどない。情報が欲しければ、敵陣に入り込む他ない」

「そう…。その分、危険ってことよね」


 ホーリィが憂い気なため息をついた。

 レリッサはホーリィの肩を撫でてやる。ホーリィは、あの日からずっとナーバスになっていて、こうしてため息をつくことが増えた。


 こうして話していたって、戦地から遠いこの王都でできることは、何もない。

 ディートルは話したいことは全て話したのか、再び魔術の本を開いた。それを見た双子も学園の宿題に視線を戻し、ホーリィは窓の外をぼんやりと眺めている。


「さっきの、新聞に軍の功績が載らないって話だが」


 レリッサの後に座っていたアイザックが、レリッサに椅子を近づけて言った。


「おそらくだが、父の意向だと思う」

「シンプトン公爵の?」

「ああ。父は、軍に力を持たせたくないんだろう」


 軍の功績がことさらに新聞に載れば、民衆の注目が集まる。

 軍が力を持てば、それだけ相反する存在である政府の力が弱まる。民意が軍を担ぎ上げることに、宰相は危機感を抱いているのだろう。


「そう言うこと…」


 だが、父としても、それは都合が良かったに違いないとレリッサは思った。

 父はリオネルが注目を集め、かつての王太子の息子であることを知られることを、良く思っていない。リオネルを守るためだ。

 そのためには、国民が、軍の功績に注意を払わなくても、何ら構わなかったのではないだろうか。


「どこへ行くんだ」


 席を立ったレリッサを、アイザックが見上げた。

 レリッサは手に持っていた本を見せる。


「読み終わったから、別の本を取ってくるわ。またサロンに戻ってくるつもりだから、貴方は自由にしてくれていて良いのよ」


 少なくとも、家の中に危険はない。

 そう思うと、いくら護衛とは言え、日がな一日レリッサに付き従っている必要もない。

 だがこうしてアイザックがレリッサの側を離れないのは、リオネルの意向によるものであることも、レリッサは理解している。


 それは、愛されているとも、あるいは過保護とも言う。

 リオネルの気持ちは大切に受け取りたいと思うが、当事者であるアイザックには窮屈だろう。


「何かあればすぐに呼ぶから」


 そう言うと、アイザックはレリッサの意図を理解したのか、小さくうなずいて立ち上がった。


「それなら、少し外で鍛錬してくる」

「あ、アイザック様! 僕も!」


 レリッサたちの会話を聞いていたらしいライアンが、宿題から顔を上げて手を挙げた。

 サマンサが顔を顰めた。


「ちょっとライアン、宿題は!?」

「後でやるよ。アイザック様、稽古をつけてとまでは言いません。隣で一緒に剣を振るだけです」


 お願いします、とライアンが拝むように手を合わせる。

 アイザックが嘆息する。


「宿題を終わらせてから来い」


 パッとライアンの表情が明るくなった。そして、テーブルにかじりつくと、俄然猛スピードでペンを動かし始めた。


 レリッサはアイザックと一緒にサロンを出た。

 そして、ふふと笑いを漏らした。


「どうした?」

「いいえ。貴方がこの家にすっかり馴染んだなと思って…」


 元々シンプトン家とは違い、ラローザ家の人間は、シンプトン家に大して特別嫌な感情を抱いていたわけではない。あちらが敵意を向けてくるので、煩わしいと思っていただけだ。

 だから、アイザックがこの家にいることを、誰も反対しなかったし、むしろ歓迎してすらいた。


 その筆頭が、パトリスとライアンだとレリッサは思っている。

 パトリスは年の近い弟ができたような感覚で、良くボードゲームに誘ったり、アイザックが他の護衛と交代した後に、酒に誘ったりしているようだ。これはライアン相手にはできないことである。

 逆にライアンは、年の近い兄ができた。そんな感覚なようで、アイザックに剣の指導を求めたり、時には学園時代の話を聞き出したりしている。アイザックの方も、意外と面倒見が良いので、ライアンを可愛がっているように見えた。


「貴方に迷惑がかかっていなければ良いのだけど」


 アイザックは首に手を当てて、「いや…」と少し気まずそうに言った。


「別に、そんなことはない。…正直、自分でも上手くやれていて驚いてる」


 それは、この家にいるのも悪くない、と言っているのと一緒だった。

 レリッサはにこりと微笑んで、階段の手すりに手をかけた。


「それなら良かった。それじゃあ、また後で」


 アイザックが手を挙げて、裏口の方へと向かっていく。

 レリッサは階段を登り、書斎へと足を踏み入れた。持っていた本を、元あった場所に戻して、次の本を探す。


 この書斎にある本も、こことは別に用意された図書室にある本も、レリッサはすでに何度も繰り返し読んでいる。

 背表紙を見ただけで内容が思い出されて、そうなるとどうしても食指が動かない。

 端から順番に、指先で背表紙を撫でていく。


 指先が止まる。

 真新しい書籍があった。手に取ってみて、なるほど、と納得する。


 貴族名鑑。それもつい先日更新されたばかりのものだ。

 送られてきたものを、ダンが古いものと交換しておいてくれたのだろう。


 レリッサはなんの気なしに、ラローザ家のページを開いた。

 レリッサたち家族の姿絵が目に入る。これは数年前に画家に描かせたものだ。まだライアンとサマンサがあどけない顔をしている。

 貴族名鑑の次回の更新時には、新しい姿絵を提出しなければいけないな、と思いながら家族の絵の上を撫でる。


 パラパラとめくっていくと、以前お茶会に来てくれたマルガレーテの実家であるブレンダ伯爵家、同じくアナのホルドール伯爵家、そして、以前夜会に参加したマルセル侯爵家、と知っている面々のページが目に付く。

 前にページを送っていけば、伯・侯・公と爵位が上がっていって、ミルドランド公爵家、そしてアイザックのシンプトン公爵家、最後はマグフェロー公爵家だった。


 マグフェロー公爵は一人きりの絵姿だ。

 かつては彼の奥方もここに載っていたのだろうにと思うと、とても寂しい気持ちになる。

 公爵が寂しさから、ホーリィを新しい妻にと望んだ気持ちも、分からないではなかった。


 ぼんやりと貴族名鑑を眺めていると、ノックもなしに書斎の扉が開いた。


「あぁ、レリッサか」


 入ってきたのはパトリスで、中にレリッサがいたので少し驚いたようだった。


「ごめん。中にいると思わなくて」

「いいえ。すぐに失礼しますから」

「良いんだよ。どうせ本を選びに来たんだろう? 僕は構わないから、ゆっくりと選ぶと良いよ」


 パトリスは腕に書類を抱えていた。

 それを普段は父が使う書斎机に置くと、彼は肩を揉みながら椅子に腰掛けた。

 せわしなく書類に目を通していく兄の姿を視界の片隅に捉えながら、レリッサは貴族名鑑を本棚に戻した。


 しばらく迷った末に、最近読んでいなかった本を見つけて、それを棚から引き抜いた。

 さて、書斎を出ようと身体を反転させたその時、書類を見比べていたパトリスが「うぅん」と小さく呻いた。


 パトリスが顔を上げて、目が合う。


「どうされたんですか、お兄様」

「んー。ちょっとね…」


 それからパトリスはレリッサに見えるように書類を立てた。

 近づいて見てみると、それは数字の羅列だった。

 よくよく読み込んで見れば、それが収支報告書なのだと分かる。どこのかと言えば、ミルドランド領の物で、定期的に国に提出される、領地の財政状況を示す書類の中の一部であった。

 本来であればこんなところにあるはずがない物だ。


「…お兄様。これをどちらから?」

「僕にも色々と伝手があるんだよ、レリッサ」


 にっこりと兄が笑う。

 あまりに朗らかに笑うので、かえって胡散臭い。

 とりあえず追求しない方が良さそうだと判断して、レリッサは視線を書類に戻した。


「だいぶ赤字ですわね。それも、今年に始まったことではないような…」


 報告書には今年の収穫物の収穫量、他領との交易で得た収入、その他収入源の他、大まかな支出内容が過去三年分ほどが一枚にまとめられている。


「そうなんだよ…。これだけの赤字額、よく領の財政がもってるなと思ってね…」


 収支の差が激しい割りに、表の最後で出元不明の収益によって、いくらか補填ほてんされている。それで、最終的には大した赤字額にはなっていない。


「この補填された収入がなければ、大赤字ですわね…」

「この出元不明って言うのが、いかにも怪しいと思わないか?」

「…例えば、身の回りの物品を売って、金銭に変えているとか…」


 そう口にしながら、それはないだろうなとレリッサは思った。

 以前訪れたミルドランド公爵家での夜会。大層な盛況具合だったが、それも納得の豪華な料理に、豪華な内装に調度品だった。公爵や夫人、娘のアレリアが身につけていた衣装も、一流の品だった。

 金銭的に苦しいならば、もう少し招待客を絞ったり、衣装のランクを傍目に分からない程度に落とすくらいのことはして良いはずだったが、そんな様子はなかった。


 ならば、その収益がどこから上がっているのか。

 レリッサとパトリスは顎に手を当てながら、顔を見合わせた。



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